震災から5年。
一人の死者も出なかった埼玉県で当時を経験し、それでも、いろいろなことを考えては悩み、ときには絶望的な気持ちになって近所ののどかな川の流れを眺めていたりした、あの時から5年が経った。 twitterにドはまりし、連日せっせと書き込んだ末に愛想をつかして離れていったのも、震災が契機だった。ぼくはもう、脊髄反射的な応酬の世界には、戻ることはないだろう。自分で考えたいので。
さて。 メディアには、きれいごとがあふれている。
きれいごとを言う人は、責任を引き受けようとしない人だ。 責任を引き受けようとしないからこそ、きれいごとが口にできるのだ、と思う。 そして、事態の推移に、主体的にかかわろうとせず、ただ流れにライドオンしている。 誰かがなんとかしてくれる、と思っている。 口を開けば、自分はもう戦争には負けるととっくに思っていたのだ、とか何とか言う。 あるいは、クラス内のいじめには気がついていたけど、一人ではどうにもできなかった、とか何とか言う。 主体的に、自発的に、流れに抗することをせず、後出しじゃんけんのように、自らの正当性を主張する。
頑張る、というのは、魅惑の思考停止フレーズだ。 ほんとうは、頑張るだけでは、なかなか事態の打開はできない。 どうすれば効率的かを考えたり、戦略を立てたりする作業が必要だ。 遮二無二やってる、というのは、誰かに後ろ指をさされたくないがためのポーズにすぎない。もしくは、自分自身を免責するためのポーズにすぎない。 それを誰かに任せきりにして、頑張ってます、という。 自らの正当性を主張する。
戦時下の日本では、表向き、きれいごとばかりが叫ばれた。 思考停止の、誰かがなんとかしてくれる式の、実体は「現状へばりつき」が国ぜんたいを覆った。 まあ、最後は「誰か」がなんとかしてくれた、と言えなくもないプロセスで、戦争は終結されたのだが。
被災地の復興。 がんばろう日本とか、ひとつになろう日本とか、いろんなきれいごとが、これまでも叫ばれてきた。 そして皆が内心、やっぱり、と思っているような現実が、現れているようである。 誰かがなんとかしない限り、空疎なきれいごとを叫ぶつもりなのだろうか。 それは一体誰のためなんだろうか。
※註・これはメディア批判です。誤解なきように。
|