歴史は自明のものだ、と考えている方が、たぶんいる。
とりわけ、高名な専門家の著した、骨格のしっかりした概説書など、多くの関連書籍を読み込み、自身の歴史解釈に確信を持っている方が、そう考える傾向にあるように見受けられる。
でも僕にとっての歴史は、常にアップデートされるべきもので、いわゆる「定見」など、あまり意味がないように思う。とりわけ、『終戦史』が扱う昭和という時代には。
理由1。昭和をテーマとした研究は始められてまだ日が浅い。口述記録(オーラルヒストリー)の、そして近現代史研究の、日本での第一人者である東大名誉教授の伊藤隆先生は、助手時代(1961年から)、先生に論文のテーマを聞かれ、「昭和史です」と答えたところ、「冗談だろう、そんな史料のない時代をどうやってやるんだ」と反対されたそうだ(中央公論2013年7月「史料と私の近代史」第2回)。わずか50年前のことである。知見の積み重ねが、まだまだ足りない。
理由2。上記と関連するが、一次史料の発見、発掘が、まだまだリアルタイムで進行中である。
それに、一次史料に多く接すれば接するほど、歴史を断定的に語ることを躊躇するようになる。少なくとも、僕はそうだ。一次史料は、そのすべてが整合しているわけではない。一定の傾向を読み取ることはできても、その読み取りはあくまでも主観的なものにすぎないし、異なる史料の相反する記述をどう合理的に解釈するべきか、悩むこともしばしばだ。そういった悩みを経過せず、誰かがきれいに濾過して整合性をつけた概説書を読んだだけで歴史がわかったような気になるのは、はなはだ早計だと思う。
拙著『終戦史』は、あくまでもそういった立ち位置のもとに書かれたものであることは、プロローグを読めば自明ではあると思うのだけど、改めてここでそれを書いておきたい。
|