「終戦記念日」の今日。
巷では、というか、僕が接した新聞やテレビの伝えるところでは、相変わらず、「わかりやすいストーリー」が席巻しているような気がする。
「わかりやすいストーリー」というのは、別の言い方をすると、人々が(なんとなくも含めて)最大公約数的に抱いているイメージに疑いをかけることなく、それを磐石のものと仮定して描いたストーリー、ということになろうか。
それに対し実証的に異議申し立てをしたのが拙著『終戦史』であったはずだが、この現状をみれば、残念なことに、マジョリティにはそのメッセージは届いていないようである。
歴史を冷静にみれば、「わかりやすいストーリー」に潜むリスクは明白ははずだ。69年前のこの日本で、きょう8月15日正午の玉音放送よりも以前に、人々に受容されていた「わかりやすいストーリー」は何だったか。たとえばそれは「鬼畜米英」とかではなかったか。「ほしがりません勝つまでは」とかではなかったか。 (注・この例はあくまでも勝手なイメージで、根拠はありません。念のため)
いくら「もう戦争はいけません」と言ったところで、それが「わかりやすいストーリー」に立脚している限り、構造的には昭和20年8月15日正午の前と後とで、何ら変わっていないということになりはしないか。我々が批判すべきは、叫ぶフレーズが何であろうと「わかりやすいストーリー」の発生・受容の構造のほうではないか。
そうした点に無自覚のまま、「フレーズの連呼」を続けるとすれば、それはとても危険なことだろう。 そしてそれは、僕らが、過去から大切な教訓を学び取っていないということにもなるだろう。つまりは、懲りていないのだ。
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