きのう、帰りのバスの中で「正義漢」の男がいた。乗客(年配の女性)の質問「福祉センターの前を通りますか」に対し「福祉センターの前は通りません」と答えた運転手に対し、くってかかっていた。 そのバスは「福祉センター」という停留所には停まるのだが、福祉センターの前を通るバスは別にある。運転手の認識と説明はそうだったし、その乗客と知人との間で交わされていた直前の会話からも、運転手の説明は正しかったのではないかと僕は思ったのだが(つまりその知人は、「あなた乗るバスを間違えてない?」と遠まわしに指摘したようだった)、その男は、自らの認識のもとに、納得できないといった風でバスを降りていった。
先日も、渋谷のエスカレーターのすぐ後ろに「正義漢」が立っていた。少し前に乗っていた若い女性が立ち止まったことに対し、「さっさと行けよ」と小声でつぶやいていた。
いずれの「正義漢」も、年齢は20~30歳台位、神経質で小柄な男だったが、別に神経質で小柄な男が皆そうだと一般化をしたいわけではない。
いずれの「正義漢」に対しても、僕は嫌な奴だなと思ったが、おそらく当人としては、自分の思ったことややったことは正義だと思っているだろうと思う。そういう態度だったから。
このところ、こうした「正義漢」が増えているような気がするんだけど、気のせいだろうか。
かつてこの国が他国と戦争をしていた時代、「正義」を振りかざしていた人たちがこの国を実質牛耳っていたのではなかったか。それは、政治や軍事の中枢の話にはとどまらない。いや、むしろ、街中で、そして日ごろの暮らしの中で、他人に「正義」を一方的に振りかざす、自己中心的な思い込みに支配された人たちが、大勢いたのではなかったか。
こうした、ある意味「正義感」が支配する社会というのが、どれだけ恐ろしく歪んだものかということを、僕らは歴史からも、また、現在の世界からも、知ることができるのではないだろうか。
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