「制限つきの未来」について、このところ考えている。
昭和20年の終戦、それによるGHQの進駐によって、日本国の未来には制限がかけられた。なにしろ、占領されてしまったのだから。
占領当初の非常に厳しい制限から、冷戦の激化等の情勢変化でかなり緩和されることになった後も、やはり日本国の未来には制限がかけられていた。
そして独立後も、日本国にかけられた制限を、日本国、そして日本人みずからが引き継いだ、ように思う。 日本というのはこういう国だ、日本人とはこういう人間だ、という、自己認識というより自己規定、自己設定によって、自らを狭い枠にはめた。
自分「たち」を一定の枠にはめることによって、明治以来、「単線」の歩みを続けてきたのが、僕ら日本人ではなかったか。
こないだ、サッカー日本代表が、UAE戦にPKの末に敗れた。 あの試合を見ていて思ったんだけど、選手たちの心の中に、無意識の「リミッター」が存在しているような気がする。「僕ら日本のサッカーはこうあるべき」というリミッターが。 「分厚い中盤の多彩なパスワークでゲームを支配するも、ゴールへの意欲が弱く決定力に欠ける」という、欠点も含めた「日本サッカー像」から逃れられず、むしろそこに拘泥し、溺れ、自らが作り出した幻影の中でループしてしまっている、ような気がする。 だから、つい、強引なシュートよりも味方へのパスを選択してしまうのではないか。
自己規定による縛りは、集団での合意形成を容易にし、チームワークで勝つ、という、日本人の特色を引き出すための有効な手段であるのかもしれない。だからこそ、これまで長らく、日本社会に根付いてきたのだろう。
でも、そろそろ、僕らは心の中のリミッターを外してもいい頃合なのではないか。サッカーに限らず。 ひところ流行した「自分探し」とは、「最適なリミッター探し」でもあっただろうが、もう、自分はこういう人だからとか、そういうことから脱出してもいいのではないか。
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