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投稿記事Posted: 2014年11月21日(金) 16:04 
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管理人

登録日時: 2014年7月25日(金) 11:06
記事: 72
ときどき、ひどくモチベーションを喪失したりと、メンタルが不調なときは、気分をリフレッシュさせるために、いろいろな手を打つ。
いまのところ、いちばん効くのは、頭をできるだけ空っぽにして、自然のなかを歩くことだ。人工物や人が見えず、人工音や人の声がしない環境がいちばんいい。僕はそれを「歩行禅」と名づけていて、いわゆる歩行禅との違いも類似性もよくわからないが、うまくいったときは、頭の中が無重力な感じになる。その時は一瞬だけど、気持ちがいい。途中でときどき歩きを止め、自然の景色をぼんやりと見ていることもある。

で、その時のぼくは、いわば「無為」の状態だ。日頃、あくせく仕事に追われている立場からすれば、また、常にそういう状態の人からすれば、単なる「サボリ」に思えるかもしれない。

しかし、ほんとうにそうだろうか。

常に忙しくしていることが、本当に何かを生み出すことに、あるいは効率的に何かを生み出すことに、いちばんの近道なのだろうか。

…という疑問を、ぼくは近頃、根本的に持っている。

そして、常に忙しくしていることを是とする価値観、それを強制する社会は、はたして、僕らが本来的にあるべきものなのだろうか。

ぼくは、拙著『終戦史』とそこに至る戦争関連番組の取材を通じて、「頑張らない」という教訓を得た。ぼくにとって、「ちゃんと生きる」ということの中には、「頑張らない」が内包されている。せっせと、あくせくと、目の前の課題を次々とこなしている状態、それだけの状態の先に、少なくとも僕が望んでいる未来はない。僕は常に立ち止まり、あたりを見回し、考え、あるいはリセットして、自分が何をしているか、どこに向かっているか、それをくどい位に繰り返しては歩いていきたい。

そんな悠長なことを、この世知辛い現代社会で言ったって、という、冷ややかな声もあることだろう。が、僕は、この世知辛い現代社会だからこそ、と言いたい。

「それはいったい、誰の思い通りのことかな?」

僕らは誰かの思い通りに、操られる駒になってはいけないのだ。過剰な「つながる」に溢れ、無責任で過激な煽りに脊髄反射的に反応してしまいがちな、今だからこそ、僕らは常に考える存在でなければならない。

さて。自然を見渡してみると、そこには、あくせくと頑張って働いて生きている生き物は、あまりいない。せいぜい、「アリとキリギリス」のアリぐらいではないだろうか。みんな、それなりに生きるための努力をして、それなりに死んでいく。夢もなければ、幸せでもないのかもしれないが、でも、メダカは仲間同時でじゃれあったりして、もしかしたら、いじめてるのかもしれないが、、それなりに楽しくやっているように見えるし、庭の虫は、秋が深くなって寒くなると弱ってきて、ふかふかなウェスを見つけてはそこで穏やかな日の光を浴びながら命を終えたりしている。

彼らを見ていると、ただ生きるということの素晴らしさを感じたりもする。
少なくとも、あくせく懸命に頑張っているのが高価値で、何もせずベンチでぼうっと日向ぼっこをしているのが低価値だとは、僕には思えない。


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投稿記事Posted: 2015年8月13日(木) 16:52 
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登録日時: 2014年7月25日(金) 11:06
記事: 72
多忙な現代人、という、ありがちなフレーズがある。
この「多忙」についてだが、果たしてこれは善か。

忙しく立ち働いていれば上司の目をごまかせる、といった、処世術としての「多忙」の価値は認めるところもあるが、では、ぼく自身、そしてあなた自身にとって、「多忙」に価値はあるのか。

ぼくは、多忙に価値はない、と思っている。
むしろ、「無為」に価値がある、と思っている。

せわしない現代人に欠けているものは、無為の時間だ。
無為は、無意味ではない。(←→多忙だからって、それが何だってんだ。やってることの中身次第だ)
無為の時間によって、心と気持ちがリセットできる。
リセットは大事なことだ。何かに無批判にor狂信的に依存しがちな自分を正常化させてくれる。
アイドリング中の脳細胞はフリーに活動する。それによって、忘れていた大事なことを思い出したり、脈絡もなく何かと何かが結合し、新しい意味を見つけたりもする。
つまり無為とは、クリエイティブな行為だ。

「遮二無二」が礼讃さんされる「思考停止社会」では、「ライドオン」ばかりが評価され、「考えない」という美徳と悪弊がはびこっているが、考えよう。そして、考えないことを善しとする奇妙な社会の奇妙なあり方を正視し、それを批判しよう。

※この記事は「新しいトピック」として、いったん公開しましたが、2015-09-04にこちらに移動しました※


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投稿記事Posted: 2015年9月04日(金) 17:40 
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登録日時: 2014年7月25日(金) 11:06
記事: 72
ここで僕が書いていることは、「瞑想」とか「マインドフルネス」っていわれるものと似ているような気もするし、似ていないような気もする。

歳をとって、「精神の老化」を感じるようになった。ストレスからの回復力も落ちたし、何よりも、何ていうか、心に堆積物がいろいろと溜まっているような感じになった。パソコンでいうと、いろんなタスクが常駐しててメモリーを食ってる状態。なので、「自分というOS」を再起動してみる、という感じ。

あるいは、できるだけ思考をフリーハンドで動かしてみる、という感じ。

まだちゃんとできてないんだが。

※2015年09月05日(土)08時38分更新(追記)※


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投稿記事Posted: 2015年12月03日(木) 10:14 
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登録日時: 2014年7月25日(金) 11:06
記事: 72
たとえば、睡眠時間を削ってまで何かに打ち込む様を、素晴らしいと賞賛したりする向きに対し、僕は、素直に共感、同意はできない。

たしかに、夢中になって打ち込む対象があるのは羨ましい状態であるし、寝食を忘れて没頭しているのは、きっと、充実した時間を過ごしていることだろう。

が、いまどき、引きこもりニートがゲームにはまっていたって、同じような状態になるのだし、でもそれが賞賛されることはないわけで、つまり、自身の充実感とは別の尺度で、そのような状態が一方では賞賛され、もう一方では賞賛どころか「あんたいい加減にしなさい」と親に叱られたりするわけで、それって、納得がいかない。

また、かりにそれが、睡眠時間を削ってまで仕事に追われているというのであれば、単に劣悪な労働環境ということであり、改善しなければならない状態だということになる。

まとめると、睡眠時間を削って何かに打ち込むことは、それが自主的な行為であれば、他者の価値観で様々な評価が下されるだろうが、基本的には「ほっといてくれ」であるし、それが強制的な行為であれば、問題だということになる。

この国では、「戦後の焼け野原からの復興、新生日本の建設、世界に類のない高度経済成長を成し遂げたのは、先達もしくは我々自身の不眠不休の努力によるものだ」との、やや演出過剰、自己過剰肯定的な物語が、広く通説として認められ、受け入れられ、この国の人々のメンタリティを支える基盤となっている感もあるが、不眠不休を賞賛する価値観とは、ブラック企業が従業員を酷使する価値観と何ら変わらないのであって、すなわち、この国の人々を支えている価値観はまさしくブラックそのものであるということを、僕らはしっかりと直視しなければならない。

僕らの基本的人権というのは、不眠不休によって達成されるべきものでは決してない。不眠不休を是とする「悪魔の国」に生まれた僕らは、僕らの魂を悪魔に捧げ続け、それを次の世代にも受け継がせるつもりなのか、それとも、そんなクソ価値観を踏みにじって、人間として生き物としてごくまっとうな価値観を手に入れるのか、どちらが正しいのか、よくよく考えるべきではないか。

と、ついつい筆が滑ってしまったというかキーボードをせっせと打ってしまった。


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投稿記事Posted: 2015年12月06日(日) 15:43 
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登録日時: 2014年7月25日(金) 11:06
記事: 72
努力すれば必ず報われる、というのは、傲慢な考えである。
100%自律的な人生というのは、存在しないからだ。

僕らの一生の歩みというのは、偶然によって左右される要素が多分にある。
運、というのも、それに含まれるだろう。
それを僕らは自律的に制御できない。

また、家族や友人を含む、他者の助けや支えといった要素が、何がしかの結果を大きく左右することもあるだろう。
少なくとも、僕らは社会的な生き物なのであって、孤島で一人で生きているわけではない。

努力すれば必ず報われるという考えは、そうした他律的な要素を無視している。

他の国で暮らしたことがないからわからないが、少なくともこの国では、努力がやたらともてはやされている。
そういえば思い出した、高校の卒業式のころだったか、部活の顧問の先生に、叱責のようなことを、いわれたことがあった。「あなたのお兄さんは猛勉強して○○大学に行ったのに、あなたときたら…」云々といった話だった。僕は高1、高2と、まったく勉強をしてしておらず、高3の最初のテストの結果は、学年で、下から数えたほうが早い順位だったのだが、そこから勉強して、飛躍的に学力と順位を上げ、最後は学年トップクラスで卒業し、第一志望の大学に入学した。それがどうも気に入らなかったらしい。
でも僕は、もともと中学時代は、誰もが認める成績優秀児童だった。そういうレッテルが嫌で高校2年間は学業放棄をしていたのだが、行きたい大学があったので、というか、東京に行きたかったので、そのために1年間、みっちり勉強をしてブランクを埋めた。当時の自身にかけたプレッシャーはすさまじく、毎日決まった時間になると腹が痛くなった。努力は自分のためにするものだから人に見せる必要はないし、そもそも「僕、頑張ってます!」って態度は腹黒くて嫌いなので、もしかしたら学校ではヘラヘラっとした態度をとっていたのかもしれず、それが顧問の先生には癪に障ったのかもしれないが、僕はそのとき、何いってんだこの先生は、と思った。
自慢話をしたいわけではなく、つまりその先生には、「努力した者が素晴らしい」、すなわち、「努力してなさそうに見える者は素晴らしくない」という価値観があり、それで僕が叱られたというわけだ。

努力は無意味だとか、努力はくだらないとか、そういうことを言う気はない。
だけど、努力というのは結果が欲しくてすること、ある意味、利己的な行いであって、それは自分が勝手にやっていることであり、少なくとも見せびらかすものではないし、努力していること、それ自体が賞賛に値するとは、僕は思わない。

…いかん。不愉快な記憶がよみがえってきたせいで、論旨がわけわからなくなった。


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