拙著の書名は『終戦史』。 これは、執筆中、ずっと僕の頭の中でリフレインで鳴っていたフレーズを、そのまま書名にしてもらったものだ。 日本語で「終戦」といえば、昭和20年夏の戦争終結しかない。したがって、半ば固有名詞化した「終戦」というフレーズを用い、昭和20年夏の日本の戦争終結に至るプロセスを追った内容として、あえて「終戦」とカギカッコで囲むことはせず、シンプルに「終戦史」とした。
「終戦、ではなく、敗戦である」 「終戦と呼び変えることはゴマカシに過ぎない」 こうした主張が根強く存在する。 僕も、その主張には、半分くらい賛成だ。それについては、拙著p321「「終戦」は誰を納得させるものだったのか」に書いたので、参照していただきたい。
一方、その主張に全面的に賛成できない理由が2つある。
その1。 局地的な戦闘に関しての勝ち負けは明白だが、とりわけ国家の総力戦となった近現代の戦争において、戦争を終わらせるのは、戦っている当事国間での政治的な判断となる。 一方が「負けた」と認めない限り、戦争は終わらない。終わらない限り、敗戦にもならない。 もちろん、この論理の行き着く先は、いつまでも負けを認めたくない→徹底抗戦→国家の滅亡、という最悪のコースであり、単に「敗戦」という言葉で済ませることができないような、悲惨な事態の現出であるのだけど。
その2。 「終戦」という表現は、当時の日本人に、どう受け止められたのだろうか。 いま想像するニュアンスは、「あー終わったー!」と、ほっとしたというか、そんな感じだったりする。それまで、空襲や疎開や食糧不足に苦しんだことからすると、そういう感情もあったのだろうと思う。一方、「あー終わってしまったー」と嘆く、逆の受け止め方もあったのだろう。戦闘行為が終わったというにとどまらず、これまでの日本が、日本人が、一等国を目指してしゃにむに走り、世界の列強と伍して、肩をつっぱらせて張り合ってきた、明治以来の「頑張り」が、終わりを告げたという受け止め方はなかったか。また、一般市民はともかく、兵士にとっては、この先どんな過酷な運命が自分たちに待ち受けているか、という強烈な不安に襲われたことだろう。「日本が、終わった」と、「敗戦」以上に事態を深刻に受け止めた向きがあったのではないだろうか。 …ということをつらつらと考えると、「単なる敗戦」ではなく、様々なニュアンスがそこに込められているかもしれない「終戦」のほうが、当時の日本人にとってしっくりきたのではないか、そんな気もするのだ。 (当初、「休戦」とか「停戦」という言葉も使われていたように思うが、手元に資料がないので詳しくは触れない)
とはいえ、 「終戦の功労者」 とは言えても、 「敗戦の功労者」 とは言えないし、やっぱり、ゴマカシだったかな、とは思うけど。 そして、「敗戦」を「終戦」と言い換えたことが戦後の出発点で、そこから、いわば「ゴマカシの戦後体制」がスタートし、いまや我々の日常は「自己演出」なる言葉にまみれ、「フィクション」にギドギドに彩られた偽りの現実社会に慣れさせられている現状は、そこを起点にしているようにも思う。 「リアル」の喪失と引き換えに、70年近い平和という「フィクション」を手に入れた、そう捉えることもできるだろう。
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