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   <title>ふらっとブログ</title>
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   <subtitle>fratdriveよもやまコラム by MT</subtitle>
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   <title>ゼロリスクに関して思うこと。</title>
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   <published>2012-01-26T00:29:38Z</published>
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   <summary>原発事故で飛散した放射性物質による外部＆内部被ばくについて、ゼロリスクを求める声...</summary>
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      原発事故で飛散した放射性物質による外部＆内部被ばくについて、ゼロリスクを求める声が強くある。それは、以下のような考え方に基づいているのではないだろうか。

１．リスクは元々ゼロである。→ゼロか、ゼロじゃないかといったら、元々リスクはゼロじゃなかった。自然界にも放射性物質はあって僕らは生まれたときからずっとわずかに被ばくしている（室内ラドン濃度とかも含めて）し、かつての原爆実験とかの影響もある。閾値なしモデルであれば、人類がゼロリスクだったことはこれまで一度もない。

２．我々はゼロリスクの権利があるし、我々にゼロリスクを提供する義務が（政府や行政に？）ある。→そうかな。

なんか、「対岸の火事から火の粉がこっちに降ってきて迷惑だ、誰かなんとかしろ」と言っているように聞こえるんだ。

その根底には、「これは俺の仕事じゃなくてお前らの仕事だろ」という政府や行政に対する考え方がある。

まあ、そうなんだけど。

明治維新以来、日本は諸外国からの脅威に対抗するため、急ごしらえの中央集権国家をつくり、そのコントロールを官僚にゆだねた。官僚を実質的な頂点とするピラミッド構造ができた。ピラミッド構造の組織では、「認知判断操作」のうち、「認知判断」はトップがやればよく、下々は「操作」に専念すればよかった。こうして、「大事なことはお上にまかせて、俺たちはせっせと毎日働いてればいいんだ」という価値観が生まれ、戦後もそれは変わることなく継続されたというか高度経済成長という世界史に類を見ない成功神話がそれを裏づけた。

でも、もう終わったんだ。
あの原発事故は、この効率性を追い求めてきた日本型システムの終焉だ。
僕らは自ら「認知判断」をしなくてはいけなくなった。効率は落ちる。混乱もする。
でも、もう、何も考えなくていい、ただせっせと勤勉に過ごしてればいいという時代は来ない。

思考停止の縛りをほどいて、自分の頭で考えよう。
      
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   <title>できるだけ、じっくり考えよう。</title>
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   <published>2012-01-17T05:43:17Z</published>
   <updated>2012-01-17T05:59:15Z</updated>
   
   <summary>僕はあくせくと忙しく働くことが嫌いだ。 目の前のタスクを処理することに一生懸命に...</summary>
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      僕はあくせくと忙しく働くことが嫌いだ。

目の前のタスクを処理することに一生懸命になっていると、視界が狭まり、うつむき気味になっていって、しだいに自分が何をしているのか、どこに向かっているのか、わからなくなる。

向かう方向を誰かに指し示してもらって、というやり方もあるんだろうけど、僕は自分で考えて自分の責任で自分で決めたい。

それに、目の前のタスクを一生懸命処理しているモードだと、次から次にタスクが積みあがっていって、そのうち、身動きがとれなくなってしまうことがある。

距離を置いて、冷静に、優先度と緊急度でタスクを選別していけば、もっとすっきりするはずなんだ。

細かいことばかりを追っていると、大事なことを考えるのを後回しにしがちだし。大事なことは、考えて結論を出すのに時間がかかるわりには、目の前のタスク処理には関係がなかったりするから。でもそれを後回しにしていると、いずれ大変なことになる。

まるでいまの日本のように。

だから、僕はできるだけ、多忙とは距離を置いて、じっくりと考えたい。
（経済的には恵まれなくても）

以上、自戒を込めて。
      
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   <title>“中年”という高い壁</title>
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   <published>2012-01-11T00:22:18Z</published>
   <updated>2012-01-11T00:41:27Z</updated>
   
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      自分が中年になってみて感じていること。

たとえば学校の同窓会でかつての同級生と久しぶりに再会したとき、同い年なのにえらく老けてる奴はいないだろうか。
かつて（20〜30代）ギラギラの夢を語ったバリバリのビジネスマンが、数年経ったらひどく老け込んで見えることはないだろうか。

「現役感」の喪失。

たぶんそれは、「中年の壁」のせいだ。

以前調べたおぼろげな記憶では、人の生産性は30代前半が人生のピーク。これを越えると、それまで上り調子だった生産性が、ゆっくりと、しかし確実に、低下をたどっていく。
同時に創造性も落ちていくだろう。
体の無理が徐々にきかなくなる。

ここで、現状にぶら下がったまま、残りの人生をなんとかやり過ごそう、あとはだらだらと慣性で生きていこう、そう思ったらたぶんこうなる。

でも残念なことに、それはたぶん、できない相談だ。
これまではできたかもしれない。年金暮らしをしている親世代はそうだったかもしれない。でもそれはきっと、戦後高度経済成長という、世界史的にも稀有な、必然と偶然のハイブリッドな産物に、日本という国全体がぶら下がっていけたからできたこと、ではないかと思う。
これからは違う。一進一退、七転び八起き。２勝１敗１引き分けならよしとしようってな時代になる。ぶら下がってたら、つかまってるヒモが切れて谷底に転落してしまうかもしれない。

そう覚悟を決めて、中年以降を生きていこうと思う。




      
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   <title>この国のデフォルトスタイル</title>
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   <published>2011-12-30T00:52:39Z</published>
   <updated>2011-12-30T00:54:17Z</updated>
   
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      この国のデフォルトスタイルは、巨大な「ぶらさがり（パラサイト）」構造。子どもは親にぶらさがり、親は会社にぶらさがり、会社は国にぶらさがり…。

ぶらさがりの連鎖の先にあるのは、からっぽな権力構造。明治政府、「朝臣」が日本の官僚のルーツだという。日本の官僚組織はリーダーが意思決定をしなくても回っていくように制度設計されている（←ちゃんと検証してないから、あくまで仮説だけど）。重要なことが、なんとなく合意形成→決定されていく。太平洋戦争の開戦経緯はそうだ。もちろん、開戦を決定したフォーマルな会議は存在する。大本営政府連絡会議→御前会議。だが、開戦を決定した実質はそこにはない。

おそらく原発もそうだろう。フォーマルな合意形成プロセスを経て原発導入が決定されたというより、中央にいる複数の権力関係者たちの、アンフォーマルなコミュニケーションの果てに、なんとなしにその方向に向かっていったのではないかとこれはあくまで想像。
「中央にいる複数の権力関係者」と非常に曖昧な表現にしたけど、実際そうではないか、官僚だったり財界だったりの属人的なネットワーク。

結局のところこの国は特定の誰かが舵取りをしているというよりむしろ誰だかわかんない大勢の人々のなんとなしの合意形成でなんとなく進んでいる。

責任不在といえばそうなんだけど。

むしろ僕がいいたいのは、ぶらさがり構造のほう。
おそらく省力オートマチック社会なのであって、ぶらがっていれば悪いようにはしないからという無言の約束があるんだ。

で、その構造や前提や約束がいつまで維持されるのか。…3.11の震災と原発危機は、この国のこうした構造を露呈させると同時に、その構造の崩壊を意味するのではないか。
      
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   <title>かっこいい大人になりたかった僕たち</title>
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   <published>2011-12-27T08:55:18Z</published>
   <updated>2011-12-27T08:58:37Z</updated>
   
   <summary>僕らが子どもの頃、テレビでたくさんの「かっこいい大人」を観た。 ルパン三世もそう...</summary>
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      僕らが子どもの頃、テレビでたくさんの「かっこいい大人」を観た。

ルパン三世もそうだし、松田優作の探偵物語もそうだし、「傷だらけの天使」も「俺たちは天使だ」も、みんなかっこよかった。

ああいう大人になりたい、と当時の僕らはきっと思ったはずだ。

それが今じゃどうだろう。

      
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   <title>お客様扱い</title>
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   <published>2011-12-27T08:49:42Z</published>
   <updated>2011-12-27T08:54:37Z</updated>
   
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      ぼくらはいつでもどこでも「消費者」として扱われ、お客様扱いを受ける。「お客様」と最上級の呼び名で、大変丁寧に取り扱われる。マニュアルどおりに。

接客がわにしてみれば、どうせぼくらは十派一からげ。とくに記憶に残らない「普通の客」か、もしくは「面倒な客」としてインプットされる存在にすぎない。ほんとは「様」でもなんでもない。便宜上ただそう呼ばれているだけ。

そんな存在に押し込まれることを僕らは願っていたのか？
      
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   <title>ああ言えばこう言う国ニッポン。</title>
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   <published>2011-12-27T07:17:36Z</published>
   <updated>2011-12-27T07:51:11Z</updated>
   
   <summary>先日、とても納得できる新書を買った。山本一郎氏の『リーダーの値打ち　日本ではなぜ...</summary>
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      <![CDATA[先日、とても納得できる新書を買った。<a href="http://kirik.tea-nifty.com/">山本一郎</a>氏の『<a href="http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4048861344.html">リーダーの値打ち　日本ではなぜバカだけが出世するのか？</a>』。

なかでもいちばんうなずいたのはp110の「何を追及し、何を諦めるか」のところ。

<blockquote>国民は、官僚批判を繰り返し、国家の問題の過半が官僚の私利私欲によって引き起こされていると政治家が喧伝するとこれを喝采する一方、自身の生活を振り返って考えると国立大学に我が息子を入れるための受験戦争に身を投じ、将来の希望に公務員と書く親子の割合はなかなか減りません。
増税はけしからん、官僚の数を減らせと言う割に、市民サービスの切り下げのは反対であるとか、もう無理筋という言論がたくさん表出してしまう。確かに矛盾しています。そして、このような意見の矛盾や行動のちぐはぐさは生まれてしまう理由は、極めて簡単です。国民自らが何を望んでいて、何に優先順位を置いているから、何を追及すべきで、何を諦める必要があるのか、国民自体が分からなくなってしまっているのです。
……空間軸の両側に位置する都会の住民の要求と、地方の要求は往々にして対立します。そのとき、両方の意見を聞いて、両方の意見に首肯し賛成してしまう人々が後を絶ちません。日本人らしい、と言えばそれまでなんですが、日本人の和をもって尊しとする精神とはまた別に、高度成長の折に強烈に体験した「折り合っておけば、パイが勝手に成長して分け前が増えて、問題が時間が解決してくれる」という思考停止が、恐らくそこにはあるだろうと思うのです。</blockquote>

結局のところ、ぼくら自身の問題。

見渡せば、あっちにもこっちにも「ぶらさがり」だらけの国、ニッポン。これだけ大勢の「ぶらさがり」を抱えてりゃ、スピードもパワーも落ちるわ。

まあ、ぶらさがる側にもそれなりの言い分はあって、そこは日本人らしく、律儀にぶら下がっているような気もするのだけど。

また、それとはあんまし繋がりないけど思い出したから書いとくけど、明治以降の日本は「狭い国土・貧しい国力」という自己認識を基本にしてきた。革新官僚の統制経済って発想もベースはそれで、「国力は貧しくとも皆がひとつになれば大国と互角にわたりあえる」と考えての国家総動員だったんだろう。かつ、「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」と官僚たちは考えていたんだと思う。ただ実際には戦前・戦中の統制経済は彼らがイメージしたほどにはうまくいかなかった。当時はコンピューターなんてないから計算尺とかで必死に計算したんだけど、経済の隅々までごく少数の頭脳でコントロールするなんてどだい無理だったし、実際には統制と市場のコラボ、壮大な実験だった。おそらく、強力な国家統制が実現し、それが最も効を奏したのは敗戦後復興期の２〜３年。だが以後も「統制×市場」のコラボは続き、「狭い国土・貧しい国力」という自己認識に基づく「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」という官僚の考えは継続され、今に至るんだけど、これだけぶら下がりが増えてしまったら、それも制度疲労ではないだろうか。自己認識からupdateする必要があるんではなかろうか。]]>
      
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   <title>あのゴール裏では勝てない（浦和レッズ）</title>
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   <published>2011-10-16T01:38:18Z</published>
   <updated>2011-10-16T01:47:18Z</updated>
   
   <summary>きのう、久しぶりに浦和レッズの試合を埼スタで見た。 がっかりだった。 もちろん結...</summary>
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      きのう、久しぶりに浦和レッズの試合を埼スタで見た。

がっかりだった。

もちろん結果も、大宮相手に０：１、降格圏内に落ちてしまったから、がっかりなんだけど。
ぼくががっかりしたのは２つ。

まず、ゴール裏にがっかりした。彼らの応援はいったい何だ。ゲームの内容から離れている気がときどきしたし。昔みたく、もっとチームや選手に厳しくてもいいんじゃないか。優しすぎて、相手チームにとってもちっとも怖くないし。レッズの選手、とりわけ昔を知ってる山田暢久とか、ぶっちゃけどう思ってるんだろ。「こいつら俺らのことホントに応援してんのかな」って思ったりしてないかなあ。
（サポーター全体にがっかりしたのではない。僕がいつも座る指定席まわりはオッサン率がとても高いんだけど（ジイサン含む）、多くのオッサンは静かに腕を組んで見てて、時々「おーっ」とか「あー」とか言うだけ。その姿は以前と変わらない。ぼくらオッサンは、あの、Ｊのお荷物と言われた最下位レッズの頃と変わってない）

そしてチームと選手、その「ふがいない」戦いぶりにがっかりした。中盤でボールを右に左に回しているだけでちっとも前に進んでいかない。そうこうするうちにミスでボールを奪われて大宮の速攻にあって…、その繰り返し。何か強い約束事で縛られてるようだった。強い個性、たとえば出てきた頃の岡野みたいな選手が強引に走って突破してかき回してくれればもっと躍動感が出るしチャンスも増えるし見ててわくわくすると思うんだけど。見ててちっとも楽しくなかった。
場面場面で、梅崎だったりエスクデロだったり、体を張ったいいプレーを見せていたんだけど。
チームの規律を打ち破るような強い個性がいてこそ…と考えて思い至った。それはペトロ自身ではないか。
ペトロが今期の監督になると聞いたときはうれしかった。現役時代のアグレッシブで献身的なプレーは好きだったし、期待もした。でも、結局、ペトロの個性が強すぎて、それがチームを覆い、がんじがらめに縛ってしまったのではないか。いまのレッズには、ペトロは合わないのではないか。
試合後、ペトロは今期限りの辞任を口にしたというが、こう考えていけば仕方がない。次に「ミスターレッズ」福田の名も取りざたされている。仮にそうなれば、開き直って毎回「負けないよ」宣言をして突っ走ってほしい。
…違う話になってしまった。

話を戻すと、いちばん変わってしまったのはたぶんチームではなく、ゴール裏だ。あのゴール裏では勝てない。ゴール裏を仕切ってる人たち（…がどんな人たちなのか、現状まったく知らないんだけど）が総退陣してみたらどうか。
いっそのこと、残り５試合、組織立った応援を一切合切やめて、僕らオッサンみたいに、みな腕組みをして、静かに戦況を見つめたらどうか。

浦和レッズといえば熱狂的なサポーター、ゴール裏の熱い応援…という「定型」を、いったん白紙に戻したらどうか。しがらみ化してないか。

どうも僕には、「浦和レッズと熱いサポーター」という、「ガワ」（＝枠、というような意味）だけが残り、自動化してるような気がしてしょうがない。
      
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   <title>テレビの引力</title>
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   <published>2011-10-16T01:09:58Z</published>
   <updated>2011-10-16T01:10:33Z</updated>
   
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      テレビは本質的に生放送のメディア。テレビの持つ「引力」は元々は生放送の「筋書きのないドラマ」だとかハプニングだとかだった。それを、年がら年中、引力を発生させようと奮闘しているのが昨今の演出。重力のないところに無理くり重力を発生させる、その手法ってどうなのかと思う。

時代遅れじゃないか？
      
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   <title>時代の曲がり角</title>
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   <published>2011-10-14T00:00:18Z</published>
   <updated>2011-10-14T00:01:43Z</updated>
   
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      時代の曲がり角、について考えている。以下、粗くてわかりにくいと思うけど今現在の仮説。

いまの僕らが時代の曲がり角に立っているのは間違いない。それがどんな曲がり角なのか、僕らはどんな価値観からどんな価値観に向かっているのか。

戦後日本を俯瞰してみる。たとえば、敗戦直後（＝飢餓の時代）の「科学技術万能信仰」が農薬禍などの問題を生み出しながら、大量・画一・効率的な社会をつくりあげた。

「親切」がこの国の最重要キーワードだと僕は強く思っているが、その親切が行き過ぎてしまった。たとえば原発問題。これは「科学技術万能信仰」の残滓。国民は国家にエネルギー問題を一任し、国家はそれに応えようとした。ブラックボックス化は、親切心のあらわれ。「こっちのことは心配いらないから。まかして」と。

そこで僕らは「カオナシ」になった。親切に甘えたカオナシになった。いろんな問題を国家にまかせ、メディアにまかせ、生産や流通にまかせた。しかしもはや、「まかせた！」と言ってれば済む時代ではなくなった。対岸の火事だと思って高みの見物をしていたところが、自分の家が燃えててびっくり、というのが現状。

なくした「顔」を取り戻す。そういう曲がり角にいま立っている。
      
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   <title>放射線より親のストレスが子どもに悪いという話。</title>
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   <published>2011-10-04T23:31:21Z</published>
   <updated>2011-10-05T00:04:50Z</updated>
   
   <summary>親の不安は「原発事故の罠」 小児科医　浦島充佳さん　親の不安は「原発事故の罠」　...</summary>
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      <![CDATA[<blockquote><strong>親の不安は「原発事故の罠」
小児科医　浦島充佳さん　親の不安は「原発事故の罠」　放射線よりストレス影響</strong>

2011.09.01　読売新聞東京夕刊8頁

　小児科医で、新型感染症の流行や生物テロなどの危機管理対策を研究している東京慈恵医大准教授の浦島充佳さんは、今の私たちは「原発事故の罠（わな）」に陥りやすい心理状況にあると考えています。浦島さんの言う“罠”とは何なのか、聞きました。
　--福島第一原発事故後、特に子どもを持つ母親の間で放射線への不安が広がっていますね。
　政府の発表は、わかりにくく、情報公開や対応が遅れました。一方、今回のようなレベルの放射線量での健康影響ははっきりせず、専門家の間でも意見が分かれています。放射線は目に見えず、避けることができない。子どもがどれくらい被曝（ひばく）したかもわからない。「がん＝不治の病」というイメージ。心配するのは当然の成り行きだと思います。
　--けれども、その不安の中にこそ「原発事故の罠」があると指摘しています。
　チェルノブイリ原発事故の時も同じ状況がありました。原発周辺に住んでいて避難した妊婦さんの子どもたちを１０年間追跡調査したところ、避難先の同年齢の子どもに比べて、情緒障害、社会適応障害がかなり多かった。けれども、障害の有無は被曝量とは相関がなく、親の不安、ストレスが強いほど、子どもが情緒障害になる割合が高いという結果が出ました。
　国連の報告によると、周辺住民への放射線の直接の影響は、今のところ、子どもの甲状腺がんだけです。被曝時１８歳以下の未成年のうち１５人が２００５年までに亡くなりましたが、９９％以上は治っています。原因は牛乳に混入した放射性ヨウ素でしたが、旧ソ連の牛乳の出荷制限基準値は、日本の１０倍以上でした。
　今後未知の影響が出るかもしれませんが、周辺住民の被曝量から考えると放射線の身体影響より、精神的なストレスによる影響の方が大きいと思います。
　とは言え、親なら当然、子どものリスクはゼロにしたい。そう考えて不安になることが子どもの健康に影響を与えてしまう。これが「原発事故の罠」なのです。
　--「不安になるな」というのは難しいです。
　「ここに住み続けても大丈夫か？」「○○産の食品を子どもに与えても大丈夫か？」という質問をよく受けます。そんなときはこれまでの内容を前置きした上で、こう説明します。
　母親として安心して子育てできる環境選びを最優先してください。他の地に移住すると、家族がばらばらになり、その地で新しい人間関係を築かなくてはならないかもしれません。食品からの内部被曝の可能性は国内のどこに移住してもついて回ります。それでも移住した方が安心して子育てできるとすればそれでよいと思います。
　食品でも産地などをみて子どもに安心して与えられるものがあれば、それを買えばよいと思います。しかし、心配し過ぎて、家族や地域の絆、子どもの情緒の発達などもっと大切なものを見失わないでください。
　--国に望むことは。
　国のリーダーには「人々が抱える不安と懸念を自分自身のものとして果敢にそれに立ち向かう気概」と「スピード感」を持って、問題解決に全力であたってほしいと思います。そうすればおのずと道は開けると私は信じています。（詳しくは医療介護サイト「ヨミドクター」に掲載＊）</blockquote>＊＝<a href="http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=46355">1</a>,<a href="http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=46388">2</a>,<a href="http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=46454">3</a>,<a href="http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=46514">4</a>

さらに、中川恵一氏の文章も掲載しておきます。

<blockquote><strong>低線量被ばくの“不確実性”と宇宙の“超越性”</strong>

低線量被ばくに対する恐怖が広がっています。たしかに被ばく線量が上がると発がんが増えますが、これは主に、広島・長崎の原爆被爆者を調査したデータに基づいています。チェルノブイリなどの過去の原発事故のデータは、原爆の調査研究ほど役に立ちません。飯舘村に測定に入った際にも経験したことですが、原発事故の場合、空間線量は、風や雨といった天候や、地形、地面の性質などによって、大きく変わるため、線量計を常時携帯しないかぎり、住民個人の被ばく量を正確に把握できないからです。.
一方、原爆の場合は、被爆の瞬間にいた場所だけで浴びた線量がほぼ決まりますから、住民の発がんの有無を調べれば、線量と発がんの関係について、精度のよいデータが得られるわけです。そして、これまでの分析の結果、100ミリシーベルトの被ばくで、がん死亡率は約0.5％増加し、この値以上の被ばくでは、線量が増えるとともに「直線的に」リスクが上昇することが分かっています。.
しかし、100ミリシーベルト以下の被ばくでがんが増えるかどうかについては分かりません。これは、喫煙や飲酒の他、野菜嫌いや、運動不足、塩分の摂りすぎ、といった生活習慣上の発がんリスクが、放射線とは比べものにならないほど高いからです。たとえば、喫煙で、がんによる死亡リスクは16倍くらいに上昇しますが、これは、2000ミリシーベルト！の被ばくに相当します。受動喫煙でも、100ミリシーベルト程度にあたります。低線量被ばくのリスクは、他の「巨大なリスク群」の前には、「誤差の範囲」といえる程度と言えるため、100ミリシーベルト以下の被ばくで発がんが増えるかどうかを検証するためには、膨大なデータ数が必要になるのです。.
低線量被ばくで発がんが増えるかどうかは分かっていませんが、100ミリシーベルト以下でも、安全側に立って、線量とともに直線的に発がんも増えると想定する“哲学”あるいは“思想”が、国際的な放射線防護の考え方で、「直線しきい値なしモデル」と呼ばれています。しかし、このモデルを採用すれば、自然被ばく（約1.5ミリシーベルト)や医療被ばく（約4ミリシーベルト）が存在する以上、どんな人も“グレーゾーン”にいることになります。“純白”は存在しませんから、安全の目安は住民を中心に社会が決めるしかありません。しかし、「白か黒か」のデジタル的「二元主義」がグレーを受け入れる妨げになっています。また、徴兵制や内戦、テロにも無縁な現代日本人が、「ゼロリスク社会」の幻想を抱いてきたことも背景にあるでしょう。.
福島第一原発事故で、発がんの増加は検出できないと私は思っています。しかし、被ばくを避けようとするあまり、家に閉じこもって運動をしなかったり、輸入牛肉ばかり食べて、野菜や魚といった日本人を世界一長寿にした食事のスタイルを放棄すれば、かえって、がんを増やすことになります。また、子供を外で遊ばせるかどうかで諍いを繰り返し、離婚にいたった夫婦も、現にいます。避難を強いられている方々はもとより、この事故が日本人に与える不幸の積算量は甚大です。.
セシウム137の30年という半減期は、どんな最先端技術をもっても変えることができない「超越的な」ものです。半減期45億年（ウラン238）といった宇宙レベルの存在を人間が扱えると信じたところに人間の驕りがなかったか、省みる必要があると思います。
[ <a href="http://www.fepc.or.jp/enelog/voice/vol1.html">link</a> ]
</blockquote>

正しい情報に基づいてストレスフルになるのは仕方がないと思うけど、間違った情報もしくは情報不足に基づいてストレスフルになるのは馬鹿げていると思う。自分の子どもがかわいくて、そのかわいい子どもを守りたかったら、まずは大量の情報を精査して、自らで考え、判断すること。botのように誰かのフレーズをリフレインするのではなくて。

botに子どもを守れるわけがないんだから。]]>
      
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   <title>かつての僕は「つながる」最前線で落胆した。</title>
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   <published>2011-09-07T22:59:51Z</published>
   <updated>2011-09-07T23:16:16Z</updated>
   
   <summary>久しぶりに思い出した。 かつて、テレビと視聴者をインターネットで「つなぐ」現場に...</summary>
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      <![CDATA[久しぶりに思い出した。

かつて、テレビと視聴者をインターネットで「つなぐ」現場にいたことがある。当時のぼくは最前線にいたといってもいいかもしれない。
「つなぐ」とか「つながる」とか、今ではすっかり陳腐な物言いになってしまってる感もあるけど、当時はまだ新鮮な響きをもっていたと思う。
視聴者とつながることで、テレビは変わる。その可能性とインパクトを、当時のぼくは楽観的に信じていた。

ふたを開けて、ぼくらは落胆した。がっかりした。
視聴者からのドアを通じて寄せられたのは、吐き捨てるような番組批判だった。
番組批判、番組批評じたいはまったく問題ない。番組がつまらなければ、正直につまらないと言ってもらって一向に差し支えない。
問題なのは、「吐き捨てるような」という部分だ。
そこで気づいた。ぼくら（テレビ番組と視聴者）は、お互い高めあっていけるような、そんな関係ではなかったんだと。視聴者にとってテレビ番組とは自分をいっとき楽しませてくれる数多くの選択肢の１つにすぎず、つまらなければチェンネルを回したり、あるいはゲームとか別のことをすればいい。
別の言い方をすれば、視聴者は<a href="http://frat.jp/mt/2011/09/post_223.html">カオナシ</a>だ。おいしいものを呑みこむだけ呑みこみはするけど、ただそれだけ。建設的なアウトプットなんか最初からする気がない。せいぜい、食えなかった部分を吐き出すくらいだ。

あれから何年も経った。
いまはどうだろうか。テレビと視聴者との関係に、何か変化は起きただろうか。視聴者は、「顔のある」存在に、少しでもなっただろうか。]]>
      
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   <title>脱カオナシヘと考え中</title>
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   <published>2011-09-05T07:04:46Z</published>
   <updated>2011-09-05T07:07:22Z</updated>
   
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      現代日本に生きる僕らは、大なり小なり、みんな「カオナシ」だ。悪魔に魂を売ってカオナシになれば、メディアも広告も商品サービスもこぞって僕らをもてなしてくれる。ひとりではとても生きていかれない、馬鹿で間抜けでいいかげんでその場しのぎでお調子者で怠け者な僕らだけど、まるでそうではないかのような幻想を彼らは与えてくれる。その夢のような時間を、僕らは無駄な金を支払って得る。ばらばらに分断され、アトムとなった僕らを、彼らが心地よくもてなしてくれる。すべては金次第。

無数のカオナシを相手にした商売がビッグビジネスと思われてきた。しかしそこは今や効率化とコストダウンでしか生き残れない不毛の大地と化している。カオナシ争奪戦から抜け出して、違う世界に行かなければ、僕らはやがて滅亡する。顔のある世界へ。

でも現実の商店街はシャッター通り化している。顔のある世界は、ローカルにつながっていなくてもいいはずだ。インターネットはもともと、カオナシの群衆が力の論理でうごめく不毛の世界である以前に、遠く離れた少数者が手をとりあうためのツールであったはずだ。
      
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   <title>冷たいテレビ番組。</title>
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   <published>2011-09-01T05:15:13Z</published>
   <updated>2011-09-01T05:24:26Z</updated>
   
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      こないだテレビを見てたら、被災地の仮設住宅の話をしていた。画面に、仮設住宅の窓ぎわに干した洗濯物が映っていた。いちばん手前は男モノのパンツ（トランクス）だった。

それを見て思った。

もしぼくがこのパンツの持ち主（履き主？）だったら、この映像を見て、嫌な気がするだろう。自分のパンツが干されてる映像を全国に流されて、喜ぶ奴はいないと思う（変態以外は）。

カメラマンも、ディレクターも、編集マンも、プロデューサーも、それに気づかないのだろうか。
…うん、気づかないんだ。彼らは、被災地の話を単なるネタの１つとしか思ってないから。

つまり、表面的にいくら被災地に寄り添うかのような編集をしコメントをしていたとしても、内心はそんなこと思ってないんだ。

冷たい連中が作った、冷たいテレビ番組。
      
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   <title>非接触型コミュニケーション</title>
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   <published>2011-06-26T00:32:45Z</published>
   <updated>2011-06-26T00:53:30Z</updated>
   
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      きのうの帰宅電車。

左には赤ん坊を連れた夫婦。赤ちゃんはしっかりしたベビーカーの中に。ママはかなり高いヒールを履いていた。
赤ちゃんは僕のことが気になるみたいでじっと僕を見ていた。僕は知らんぷり。
ママは座席に座りながら、ときどき赤ちゃんを触ってスキンシップ。
というか、だっこすれば赤ちゃんハッピーだと思うのに、なんでいまどきのママはだっこしないのかな。
僕はうちの子がチビの頃はいつもだっこしていた（「だっこひも」と呼んでたけど、肩からかける簡単なサポートツールがあった）し、歩けるようになったらずっと手をつないで歩いていた。外出先ではほぼフルタイムでスキンシップをしていた。
でもいまの若い親のスキンシップは、パートタイムだ。気が向いたら、って感じに見える。スーパーやショッピングセンターの駐車場や店内でも、手をつながない親子のいかに多いことか。
ぼくはそれを非接触型育児、と呼んでいる。

話を戻して、僕の右の座席には40がらみの女性。カバンからiPodを取り出して、なにやら熱心に見ている。…なんだツイッターじゃねえか。
（ただのケータイで見れるのを、わざわざあんなでかい端末で見る意味あるのかな）と思いつつ電車に揺られていた。
そうか、右も左も、非接触型コミュニケーションの方向か。それがいまのトレンドか。
非接触型コミュニケーションは、いつ誰とコミュニケーションをとるかを任意に決められる。気が向けば手をつないだり、リプライしたりするし、気が向かなければシカト。この、「気が向かなければシカト」というオプションを常に選択可能なのが非接触型コミュニケーションの最大の利点だろう。

震災後のいま、「ひとつになろう」なんて言ってるけど、非接触型コミュニケーションがデフォルトの人たちがひとつになるわけ、ないじゃん。

でも、非接触型コミュニケーションなんてあほらしーや、って気分にもなりつつある。そんな都合よく、大事で大切なものが手に入るのか。結局はマーケティングにいいように転がされて、「カス」ばかりつかまされておしまいなんじゃないのか。「子どもの人格を大事に」なんてキレイ事吹き込まれているうちに、決定的な断絶を作ってしまうんじゃないのか。まあ別にそれでもワタシは一人で自分らしく生きていくわ、なんて幻想をあくまでも追い求めていくのであれば勝手にやってくださいという感じかなあ。

（あくまで仮説だけど強く思ったのでここに記す）
      
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