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ジャーナリストは誰の味方か。

誰の味方でもないと思うし、誰の味方にもなってはいけないと思う。
弱者の味方だ、と言う人がいるかもしれない。そうだろうか。権力を持つ強者が権力を持たない弱者を常に虐げるような不条理が構造化している社会では、そうあるべきかもしれない。では、強者が正しく、弱者が間違っている場合には、どうする。


いまの混沌とした日本はどうだ。弱者って誰だ。政治家が強者で悪で、市民が弱者で善か。つつましく暮らしている名もなき市井の庶民に、非はないのか。
大衆に支持されることは正しいのか。多数派をとることは正しいのか。(←テレビの視聴率主義のことではないです、あくまで一般論)

医療だとか、科学技術ジャーナリズムだとか、「専門名」を掲げてエラそうなこといっても、うちから見ればままごとである(笑)。専門名やカテゴリの名前を名乗ることじたいが既にその枠組みを受け入れている共同体に帰属する意思表明であり、党派性的思考の産物である。そんな偏った「ギョーカイごっこ」をいくら練習してもジャーナリズムにはならない、むしろ遠ざかってゆくということに気付いていない人が多すぎる。
オンライン日記

ジャーナリストは、ムラ(=業界とか企業とか行政とか地域とか)の味方ではなく、むしろ、村の秩序を乱す存在でなければならない。これはなにも、意味もなくただかき乱せばいいとかそういうわけではない。ムラの常識、社会の非常識なんてものはあちこちのムラにあるはずだが、それを指摘するのは、ムラの構成員ではないジャーナリストの役目だろう。たとえばそんなこと。ジャーナリストは広告代理店ではないのだから、ムラビトにおもねったり、肩入れしたり、便宜をはかったり、してはいけない。広告代理店化してしまえば、取材もじつに快適に効率的にやりやすくなるのだが、してはいけない。第一、お金をもらっていないのだから、それを読者や視聴者に転嫁してはいけない。
ムラの代弁者、スポークスマンになってしまったら、もうおしまい。睨まれ、うとまれるぐらいでないと。中立とか公正というのはそういうことだし、厳しい状況のなかでどう取材するかというスリルが堪能できるのが、ジャーナリストではないか。(ドラマにはこうした現場の緊張感はない)
しかし実際には、支局も記者クラブも、ニュースソースである地元や省庁との関係を維持することも大事でありまして、ぶっちゃけ、仲良くしてないと、という側面もあるだろう。(←やったことないのであくまで推測)
でもねえ。広報に取材に行ったら、ぼくらの横で応接室のソファにふんぞりかえって新聞を読んでる得体の知れないおっさんがいたりして、それが大手マスメディア所属の記者だったりすると…。あれってジャーナリスト?

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