2012年01月26日

ゼロリスクに関して思うこと。

原発事故で飛散した放射性物質による外部&内部被ばくについて、ゼロリスクを求める声が強くある。それは、以下のような考え方に基づいているのではないだろうか。

1.リスクは元々ゼロである。→ゼロか、ゼロじゃないかといったら、元々リスクはゼロじゃなかった。自然界にも放射性物質はあって僕らは生まれたときからずっとわずかに被ばくしている(室内ラドン濃度とかも含めて)し、かつての原爆実験とかの影響もある。閾値なしモデルであれば、人類がゼロリスクだったことはこれまで一度もない。

2.我々はゼロリスクの権利があるし、我々にゼロリスクを提供する義務が(政府や行政に?)ある。→そうかな。

なんか、「対岸の火事から火の粉がこっちに降ってきて迷惑だ、誰かなんとかしろ」と言っているように聞こえるんだ。

その根底には、「これは俺の仕事じゃなくてお前らの仕事だろ」という政府や行政に対する考え方がある。

まあ、そうなんだけど。

明治維新以来、日本は諸外国からの脅威に対抗するため、急ごしらえの中央集権国家をつくり、そのコントロールを官僚にゆだねた。官僚を実質的な頂点とするピラミッド構造ができた。ピラミッド構造の組織では、「認知判断操作」のうち、「認知判断」はトップがやればよく、下々は「操作」に専念すればよかった。こうして、「大事なことはお上にまかせて、俺たちはせっせと毎日働いてればいいんだ」という価値観が生まれ、戦後もそれは変わることなく継続されたというか高度経済成長という世界史に類を見ない成功神話がそれを裏づけた。

でも、もう終わったんだ。
あの原発事故は、この効率性を追い求めてきた日本型システムの終焉だ。
僕らは自ら「認知判断」をしなくてはいけなくなった。効率は落ちる。混乱もする。
でも、もう、何も考えなくていい、ただせっせと勤勉に過ごしてればいいという時代は来ない。

思考停止の縛りをほどいて、自分の頭で考えよう。

2012年01月17日

できるだけ、じっくり考えよう。

僕はあくせくと忙しく働くことが嫌いだ。

目の前のタスクを処理することに一生懸命になっていると、視界が狭まり、うつむき気味になっていって、しだいに自分が何をしているのか、どこに向かっているのか、わからなくなる。

向かう方向を誰かに指し示してもらって、というやり方もあるんだろうけど、僕は自分で考えて自分の責任で自分で決めたい。

それに、目の前のタスクを一生懸命処理しているモードだと、次から次にタスクが積みあがっていって、そのうち、身動きがとれなくなってしまうことがある。

距離を置いて、冷静に、優先度と緊急度でタスクを選別していけば、もっとすっきりするはずなんだ。

細かいことばかりを追っていると、大事なことを考えるのを後回しにしがちだし。大事なことは、考えて結論を出すのに時間がかかるわりには、目の前のタスク処理には関係がなかったりするから。でもそれを後回しにしていると、いずれ大変なことになる。

まるでいまの日本のように。

だから、僕はできるだけ、多忙とは距離を置いて、じっくりと考えたい。
(経済的には恵まれなくても)

以上、自戒を込めて。

2012年01月11日

“中年”という高い壁

自分が中年になってみて感じていること。

たとえば学校の同窓会でかつての同級生と久しぶりに再会したとき、同い年なのにえらく老けてる奴はいないだろうか。
かつて(20〜30代)ギラギラの夢を語ったバリバリのビジネスマンが、数年経ったらひどく老け込んで見えることはないだろうか。

「現役感」の喪失。

たぶんそれは、「中年の壁」のせいだ。

以前調べたおぼろげな記憶では、人の生産性は30代前半が人生のピーク。これを越えると、それまで上り調子だった生産性が、ゆっくりと、しかし確実に、低下をたどっていく。
同時に創造性も落ちていくだろう。
体の無理が徐々にきかなくなる。

ここで、現状にぶら下がったまま、残りの人生をなんとかやり過ごそう、あとはだらだらと慣性で生きていこう、そう思ったらたぶんこうなる。

でも残念なことに、それはたぶん、できない相談だ。
これまではできたかもしれない。年金暮らしをしている親世代はそうだったかもしれない。でもそれはきっと、戦後高度経済成長という、世界史的にも稀有な、必然と偶然のハイブリッドな産物に、日本という国全体がぶら下がっていけたからできたこと、ではないかと思う。
これからは違う。一進一退、七転び八起き。2勝1敗1引き分けならよしとしようってな時代になる。ぶら下がってたら、つかまってるヒモが切れて谷底に転落してしまうかもしれない。

そう覚悟を決めて、中年以降を生きていこうと思う。

2011年12月30日

この国のデフォルトスタイル

この国のデフォルトスタイルは、巨大な「ぶらさがり(パラサイト)」構造。子どもは親にぶらさがり、親は会社にぶらさがり、会社は国にぶらさがり…。

ぶらさがりの連鎖の先にあるのは、からっぽな権力構造。明治政府、「朝臣」が日本の官僚のルーツだという。日本の官僚組織はリーダーが意思決定をしなくても回っていくように制度設計されている(←ちゃんと検証してないから、あくまで仮説だけど)。重要なことが、なんとなく合意形成→決定されていく。太平洋戦争の開戦経緯はそうだ。もちろん、開戦を決定したフォーマルな会議は存在する。大本営政府連絡会議→御前会議。だが、開戦を決定した実質はそこにはない。

おそらく原発もそうだろう。フォーマルな合意形成プロセスを経て原発導入が決定されたというより、中央にいる複数の権力関係者たちの、アンフォーマルなコミュニケーションの果てに、なんとなしにその方向に向かっていったのではないかとこれはあくまで想像。
「中央にいる複数の権力関係者」と非常に曖昧な表現にしたけど、実際そうではないか、官僚だったり財界だったりの属人的なネットワーク。

結局のところこの国は特定の誰かが舵取りをしているというよりむしろ誰だかわかんない大勢の人々のなんとなしの合意形成でなんとなく進んでいる。

責任不在といえばそうなんだけど。

むしろ僕がいいたいのは、ぶらさがり構造のほう。
おそらく省力オートマチック社会なのであって、ぶらがっていれば悪いようにはしないからという無言の約束があるんだ。

で、その構造や前提や約束がいつまで維持されるのか。…3.11の震災と原発危機は、この国のこうした構造を露呈させると同時に、その構造の崩壊を意味するのではないか。

2011年12月27日

かっこいい大人になりたかった僕たち

僕らが子どもの頃、テレビでたくさんの「かっこいい大人」を観た。

ルパン三世もそうだし、松田優作の探偵物語もそうだし、「傷だらけの天使」も「俺たちは天使だ」も、みんなかっこよかった。

ああいう大人になりたい、と当時の僕らはきっと思ったはずだ。

それが今じゃどうだろう。

お客様扱い

ぼくらはいつでもどこでも「消費者」として扱われ、お客様扱いを受ける。「お客様」と最上級の呼び名で、大変丁寧に取り扱われる。マニュアルどおりに。

接客がわにしてみれば、どうせぼくらは十派一からげ。とくに記憶に残らない「普通の客」か、もしくは「面倒な客」としてインプットされる存在にすぎない。ほんとは「様」でもなんでもない。便宜上ただそう呼ばれているだけ。

そんな存在に押し込まれることを僕らは願っていたのか?

ああ言えばこう言う国ニッポン。

先日、とても納得できる新書を買った。山本一郎氏の『リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?』。

なかでもいちばんうなずいたのはp110の「何を追及し、何を諦めるか」のところ。

国民は、官僚批判を繰り返し、国家の問題の過半が官僚の私利私欲によって引き起こされていると政治家が喧伝するとこれを喝采する一方、自身の生活を振り返って考えると国立大学に我が息子を入れるための受験戦争に身を投じ、将来の希望に公務員と書く親子の割合はなかなか減りません。 増税はけしからん、官僚の数を減らせと言う割に、市民サービスの切り下げのは反対であるとか、もう無理筋という言論がたくさん表出してしまう。確かに矛盾しています。そして、このような意見の矛盾や行動のちぐはぐさは生まれてしまう理由は、極めて簡単です。国民自らが何を望んでいて、何に優先順位を置いているから、何を追及すべきで、何を諦める必要があるのか、国民自体が分からなくなってしまっているのです。 ……空間軸の両側に位置する都会の住民の要求と、地方の要求は往々にして対立します。そのとき、両方の意見を聞いて、両方の意見に首肯し賛成してしまう人々が後を絶ちません。日本人らしい、と言えばそれまでなんですが、日本人の和をもって尊しとする精神とはまた別に、高度成長の折に強烈に体験した「折り合っておけば、パイが勝手に成長して分け前が増えて、問題が時間が解決してくれる」という思考停止が、恐らくそこにはあるだろうと思うのです。

結局のところ、ぼくら自身の問題。

見渡せば、あっちにもこっちにも「ぶらさがり」だらけの国、ニッポン。これだけ大勢の「ぶらさがり」を抱えてりゃ、スピードもパワーも落ちるわ。

まあ、ぶらさがる側にもそれなりの言い分はあって、そこは日本人らしく、律儀にぶら下がっているような気もするのだけど。

また、それとはあんまし繋がりないけど思い出したから書いとくけど、明治以降の日本は「狭い国土・貧しい国力」という自己認識を基本にしてきた。革新官僚の統制経済って発想もベースはそれで、「国力は貧しくとも皆がひとつになれば大国と互角にわたりあえる」と考えての国家総動員だったんだろう。かつ、「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」と官僚たちは考えていたんだと思う。ただ実際には戦前・戦中の統制経済は彼らがイメージしたほどにはうまくいかなかった。当時はコンピューターなんてないから計算尺とかで必死に計算したんだけど、経済の隅々までごく少数の頭脳でコントロールするなんてどだい無理だったし、実際には統制と市場のコラボ、壮大な実験だった。おそらく、強力な国家統制が実現し、それが最も効を奏したのは敗戦後復興期の2〜3年。だが以後も「統制×市場」のコラボは続き、「狭い国土・貧しい国力」という自己認識に基づく「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」という官僚の考えは継続され、今に至るんだけど、これだけぶら下がりが増えてしまったら、それも制度疲労ではないだろうか。自己認識からupdateする必要があるんではなかろうか。

2011年10月16日

あのゴール裏では勝てない(浦和レッズ)

きのう、久しぶりに浦和レッズの試合を埼スタで見た。

がっかりだった。

もちろん結果も、大宮相手に0:1、降格圏内に落ちてしまったから、がっかりなんだけど。
ぼくががっかりしたのは2つ。

まず、ゴール裏にがっかりした。彼らの応援はいったい何だ。ゲームの内容から離れている気がときどきしたし。昔みたく、もっとチームや選手に厳しくてもいいんじゃないか。優しすぎて、相手チームにとってもちっとも怖くないし。レッズの選手、とりわけ昔を知ってる山田暢久とか、ぶっちゃけどう思ってるんだろ。「こいつら俺らのことホントに応援してんのかな」って思ったりしてないかなあ。
(サポーター全体にがっかりしたのではない。僕がいつも座る指定席まわりはオッサン率がとても高いんだけど(ジイサン含む)、多くのオッサンは静かに腕を組んで見てて、時々「おーっ」とか「あー」とか言うだけ。その姿は以前と変わらない。ぼくらオッサンは、あの、Jのお荷物と言われた最下位レッズの頃と変わってない)

そしてチームと選手、その「ふがいない」戦いぶりにがっかりした。中盤でボールを右に左に回しているだけでちっとも前に進んでいかない。そうこうするうちにミスでボールを奪われて大宮の速攻にあって…、その繰り返し。何か強い約束事で縛られてるようだった。強い個性、たとえば出てきた頃の岡野みたいな選手が強引に走って突破してかき回してくれればもっと躍動感が出るしチャンスも増えるし見ててわくわくすると思うんだけど。見ててちっとも楽しくなかった。
場面場面で、梅崎だったりエスクデロだったり、体を張ったいいプレーを見せていたんだけど。
チームの規律を打ち破るような強い個性がいてこそ…と考えて思い至った。それはペトロ自身ではないか。
ペトロが今期の監督になると聞いたときはうれしかった。現役時代のアグレッシブで献身的なプレーは好きだったし、期待もした。でも、結局、ペトロの個性が強すぎて、それがチームを覆い、がんじがらめに縛ってしまったのではないか。いまのレッズには、ペトロは合わないのではないか。
試合後、ペトロは今期限りの辞任を口にしたというが、こう考えていけば仕方がない。次に「ミスターレッズ」福田の名も取りざたされている。仮にそうなれば、開き直って毎回「負けないよ」宣言をして突っ走ってほしい。
…違う話になってしまった。

話を戻すと、いちばん変わってしまったのはたぶんチームではなく、ゴール裏だ。あのゴール裏では勝てない。ゴール裏を仕切ってる人たち(…がどんな人たちなのか、現状まったく知らないんだけど)が総退陣してみたらどうか。
いっそのこと、残り5試合、組織立った応援を一切合切やめて、僕らオッサンみたいに、みな腕組みをして、静かに戦況を見つめたらどうか。

浦和レッズといえば熱狂的なサポーター、ゴール裏の熱い応援…という「定型」を、いったん白紙に戻したらどうか。しがらみ化してないか。

どうも僕には、「浦和レッズと熱いサポーター」という、「ガワ」(=枠、というような意味)だけが残り、自動化してるような気がしてしょうがない。

テレビの引力

テレビは本質的に生放送のメディア。テレビの持つ「引力」は元々は生放送の「筋書きのないドラマ」だとかハプニングだとかだった。それを、年がら年中、引力を発生させようと奮闘しているのが昨今の演出。重力のないところに無理くり重力を発生させる、その手法ってどうなのかと思う。

時代遅れじゃないか?

2011年10月14日

時代の曲がり角

時代の曲がり角、について考えている。以下、粗くてわかりにくいと思うけど今現在の仮説。

いまの僕らが時代の曲がり角に立っているのは間違いない。それがどんな曲がり角なのか、僕らはどんな価値観からどんな価値観に向かっているのか。

戦後日本を俯瞰してみる。たとえば、敗戦直後(=飢餓の時代)の「科学技術万能信仰」が農薬禍などの問題を生み出しながら、大量・画一・効率的な社会をつくりあげた。

「親切」がこの国の最重要キーワードだと僕は強く思っているが、その親切が行き過ぎてしまった。たとえば原発問題。これは「科学技術万能信仰」の残滓。国民は国家にエネルギー問題を一任し、国家はそれに応えようとした。ブラックボックス化は、親切心のあらわれ。「こっちのことは心配いらないから。まかして」と。

そこで僕らは「カオナシ」になった。親切に甘えたカオナシになった。いろんな問題を国家にまかせ、メディアにまかせ、生産や流通にまかせた。しかしもはや、「まかせた!」と言ってれば済む時代ではなくなった。対岸の火事だと思って高みの見物をしていたところが、自分の家が燃えててびっくり、というのが現状。

なくした「顔」を取り戻す。そういう曲がり角にいま立っている。

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