2017年05月05日

他者への想像力

外風呂に行くと、大人・子供を問わず、辟易させられる行動に直面することが、しばしばあります。

たとえば、タオルを風呂のお湯に浸す行為。たいていの入浴施設では、これをしないように注意書きしているのですが、いい年をした大人からして、これをやっているのをよく見ます。

あるいは、 湯口から出てくるお湯を、かけ湯用に置いてある桶ですくっては自分の足にかけながら、無邪気に友人とダベっている小学生。ただ、子供は経験が浅いし、そもそも視野が狭く他人が見えていないところがあるから、不愉快ではあるけど、大人が指摘すればいい話です。…と、注意しようとしたところで親が呼びにきて、子供たちは風呂をあがっていきました。親は、子供のその行為を注意しませんでした。

こうした行為は単に、公共浴場での経験に乏しいためのマナー違反、というにとどまらず、他者への視線や配慮に欠けた行為のように、僕には思えます。つまるところ、それは、他者への想像力に欠けているということになるのではないでしょうか。

不思議なのは、いま、これだけSNS等で、アカの他人と交流する、「つながる」ことが身近な時代になったのに、それでもなぜ、パブリックな場での他者不在の行動をとるのだろうか、ということです。

そういえば、風呂をあがったあとの休憩室で、インスタにでもアップするのか、仲良し親子写真を撮っている家族がいました。「イー」と声を出しながら、写真を撮っていました。彼らに、周囲の他者は見えていたでしょうか。

ここまで書いてきて思うのですが、そもそも僕ら日本人って、ヨソモノへの想像力に欠けた生活を、この日本列島で長年続けてきたのではなかったでしょうか。となると、このDNAは、容易には変えられないのかもしれません。

2017年01月06日

退屈なネット社会を語ってみたりする。

東日本大震災以来、ぼくはインターネット上の言論空間、とりわけ、いわゆるSNSから距離を置いている。かりにシステムがよくできていても、実態としては、かなり無意味で、不毛と感じたから。

いまとなっては、こんなこと、言わずもがなだが、多くのユーザーは、自分の見たいものだけを、見たいように見ているだけなので、実質的には、引きこもりの一人部屋のような閉鎖的空間にコトバや思考がループしているような状態となっている。SNSの言論空間は、異物同士が摩擦してできるような、発展的な生産性に乏しい。初期のインターネット空間の「わくわく」感に比べて、ひらべったく、退屈だ。

という認識を書いたあとに、中川淳一郎氏が語ったというインタビュー記事から抜粋。

右も左も、自分の主張を通すためにはデマを流してもかまわないと考える愚民が蔓延(はびこ)っています。
http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/

「ほんとうのこと」など、どうでもいい、と思っているから、こういうことがネット上では常態化する。自分自身の、ガチでリアルな日々の暮らしに直結することだったら、ほんとうのことなんかどうでもいい、とはならない。

例えば謝罪会見を見た人が「お辞儀の仕方がよかった」とか「仏頂面で反省が見られない」とかネットにコメントするわけでしょう。今や謝罪会見は「競技」となって、それをみんなで「審査」している状態です。
http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/2

つまりは、自分に直接関係のない、いわば対岸の火事の見物客。どうでもいいこと。一日、いや、数時間もすれば忘れてしまうような、時間つぶしのネタ。

視聴者参加型の、テレビのバラエティ番組。ネットにあふれる情報なんて、そんなもんかな。で、それに参加してるユーザーというのは、単に、通勤電車の暇つぶしでやってるだけ、だったらいいけど、たぶん、多くのユーザーはそれよりものめりこんでいるはず。刹那な自己実現にハマって、現実から遊離しているはず。

現実から遊離した状態で、生きていられるということは、豊かな証左。それはよかったですね、という、しょうもない話で終わります。

2017-01-07 11:12追記。
そうしたインターネット上の言論空間を支えているもの。
いくつかの具体例を書きかけて、やめた。
つまりは、リアルではまともな社会生活を送っている、会社やら地域やら家族やらの所属集団では一定の安定的な地位にある、いたってまともな人たちが、その所属集団外では、他人の痛みをまったく無視したような、傍若無人言語道断な言動に出るケースを、いくつも経験してきた。
少なくとも日本では、年長者を無条件で絶対視する文化、社会規範が、いつからかはともかくとして、現存している。それは、既存社会の秩序や価値観が無条件で肯定されていることを意味していると思う。日本社会で生まれ育つ、多くの人々は、おそらくそうした、ある種の絶対性を是認、容認している。所属集団においても、そうした規範に従順にふるまうし、集団外でのふるまいにも、そうした規範が適用される。
「部長」は、ネット社会に出ても、「部長」的にふるまう。とりわけ安定した社会的地位にある人はとくに、所属集団を離れても、相対的にではなく、絶対的にふるまう。
つまり、いまのネット空間を支えているのは、本質的に保守的な現実社会だ。たとえそれが幻想であったとしても、磐石な現実社会、磐石な日本社会があるからこそ、人々は、声高に主張し、評論し、こきおろす。

一介のフリーランスである僕には、確たる社会的地位が存在しないので、なかなかそんなふるまいはできない。

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2016年12月15日

昨夜、楽しい夢を見た。

昨夜、ひさしぶりに、楽しい夢を見た。
詳しい内容は覚えていないけど、将来(=老後)のイメージのようだった。
あいかわらずの貧乏暮らしで、田舎ライクな環境で、ガサゴソと、楽しくやっていた。
夢を見ながら、ああ、おれはこんな暮らしがしたいんだなー、と、自分自身を再確認しているような感じだった。
貧乏くさい暮らしでも、誰に何を言われても、好きなことをして、過ごしていたいんだ。

2016年06月23日

御用聞きと化した「ニュースランキング」報道

いま、テレビのニュースやバラエティでよくやっている、視聴者関心度順にニュースを並べる手法、いわゆる「ニュースランキング」をぼくが考えたのは、たぶん2002年のことだ。
とある報道系番組のホームページを担当することになり、じゃあホームページで投票してもらって、その順に出しましょう、と提案をした。
結局そのときは、お偉いさんの、「視聴者が知りたいニュースではなく、視聴者に伝えなければならないニュースを伝えるのが報道の責務」とのご意見で、そのアイデアは却下された。
ぼくはとてもがっかりして、ちぇっ、頭の硬いお偉いさんだなあ、と思った記憶がある。
時は流れ、今やニュースランキングの雨あられ的な状況となった。
聞くところによれば、先日の舛添バッシングも、視聴率が稼げるネタだったので、各社、ひくにひけなかったとの話も。
うん、なんかそんな感じだった。
みっともなかった。
舛添が、じゃなくって、報道各社が。
あれじゃただの御用聞きだ。報道なんて、とてもいえない。
というわけで、その頭の硬いお偉いさんの考えに、いまでは賛成。

(舛添氏については、昔、「六本木センター」の玄関ですれちがったことがあって、そのときの印象が悪いので、嫌いなんだけど)

2015年08月23日

どんどん軽く薄くなる

SNS大流行中。
TwitterにFaceBookにLINEにと、その場限りの言葉や、演出された言葉が次々と発され、蓄積されていく。何年も経てば、捜査関係者のみに有用な、言葉のゴミの山が。

ネットに蓄積される言葉の総数が多くなればなるほど、1つあたりの言葉は、どんどん軽く、薄くなっていく。
僕がここで書いてることなんて、もう、無重力状態である。

2015年03月01日

負け犬としての人生(問題のあるレストラン)

いまフジテレビで放送しているドラマ「問題のあるレストラン」が好きだ。

基本、女性向けのドラマだと思うけど、あれ見てると、つくづく、僕は「負け犬」として生きてきたんだなと思う。この感覚は、勝ち組エリート的な人には、わからないと思う。

男性中心、男性優位の社会や会社のなかで、辛い思いをしている女性たちへの視線があたたかい脚本なんだけど、それが、正社員中心、正社員優位の社会や会社(組織)のなかで、常に下位に位置づけられ、時に不当な扱いを受けてきた僕自身にもぐっとくる。というか、普段はあまりそういう意識はないんだけど、あれを見ると、そういう自分の立ち位置を再確認してしまう。

でも僕は、自分のそういう立ち位置が嫌いではない。組織人ではないし、組織人にはなれないし、組織人になろうとも思わない。僕は僕としてやってきたし、これからもやっていくし、くたばるまでそうであろうと思っているから、彼らを羨ましいとは思わない。

ただ、時に、僕のような立場の人間を、あたかも単なる駒か歯車かのようにあらかじめ規定し、となると「あいつは○○のくせに生意気だ」と思い、潰しにかかる向きもいるから、それには腹が立つ。

劣等感と裏腹の優越感に浸り、もしくは優越感にすがり、組織的思考にすっかり染まり、虫けらはただ叩き潰せばいいと思い込んでいる。しかし僕は虫けらじゃないし、虫けら扱いされていい人などどこにもいない。それに、そんな彼らの確信など、単なる妄想、幻覚にすぎない。

…話が若干横滑りしてしまった。えーと、そういう人ばかりではないというか、僕が知っている、ほぼ大半の組織人はそうした属性をもっておらず、むしろ、きわめて健全、正常な人ばかりだということはお断りしておきます。

2015年02月02日

罪を憎んで、人を憎まず。

安倍晋三首相は

「非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える。許しがたい暴挙を断固非難する。テロリストたちを絶対に許さない」
http://www.asahi.com/articles/ASH2124J2H21UTFK003.html
と述べたようだが、
「テロリストたちを絶対に許さない」
と言ってはいけない。
許しがたいのはテロ行為であって、テロリストではない。
テロリストを憎んだら、それは憎悪のスパイラルに陥ることになる。
思うつぼ、ではないか?

2014年07月20日

僕らの人生、只今バーチャル化が進行中。

もうじき50歳になろうとするオッサンの僕だが、能年玲奈が大好きだ。
同様に、オバサン達はジャニーズの若い男の子が大好きだ。
そして、アンチエイジングという言葉が肯定的にもてはやされて久しい。

いずれも、「若々しさ」に対する憧れだったりがその心理の根底にあるのだと思うが、それは一体、どういうことか。
「若さ」の、何がいいのか。

現実の20歳前後の若者といえば、ごく一般的は、若い容姿や肌、それに体力ぐらいしか持っていない。社会的な地位は、学生か、社会に出たてのペーペーで、おおむね低く、当然ながら様々な経験値は低く、有益なネットワークも少なく、したがって業務遂行能力も低く、だから金もなく、要するに半人前である。

なぜ一人前である僕らは、半人前の彼らを憧れているのだろうか。

以下は仮説。

僕らの生物としてのピークは20歳。そこからはどんどんと一目散に下り坂。定年退職後の高齢者なんて、体力・知力ともに衰える一方で、年金暮らしなら金もなし。ただただ、毎日の生活の蓄積から、人生の経験値とやらが積みあがっていくだけの存在にすぎない。
と、ぶっちゃけてしまうと、元も子もない。社会の規律が保てない。年配者は人生の先輩としてリスペクトする仕組みにしなければならない。…という社会全体の智恵として、生物としてのピークとは別に、人としてのピークを人生終わりのほうに定めた。そういう約束にした。最後に大団円で終わる、ああ、この人の一生は良かった、この人らしい終わり方だったね、的な幕引きを目指す。終わりよければすべてよし、とする。
しかしこの約束には落とし穴がある。いくら若い頃に素晴らしい業績をあげたり素晴らしい社会貢献をしても、のちにホームレスでのたれ死んだり、酔っ払って道路脇の排水溝に落ちて亡くなったりと、ろくでもない死に方をすると、「あーあ」となってしまう。あるいは今だと、高齢化が進んだ現状をふまえて最期をどう迎えるべきか、現実的な問題や議論がいろいろある。

もともと、「人生50年」と言ってた時代は、「ほんとうのピーク」と、「社会が約束ごととして定めたピーク」(つまり最期のとき)とのズレは30年しかなかったのだが、いまやそのズレは50年、いやそれ以上ある。このズレが拡大することによって何が起きるかというと、要は人生の「バーチャル化」傾向がより強まるのではないか。

リアルとバーチャルの断層化が深刻化するのをなんとかつなぎ止めようとする、そのあがきが、たとえばアンチエイジングだったりするのではないか。若々しさへの渇望になるのではないか。

個人的な対処法としては、能年玲奈が好きだという心理を否定することはできないが、僕の人生のピークは30年近く前に終わっていること、まもなく「老化30年」が経過するのだということ、…というリアルを素直に受け止め、静かに「余生」を過ごしていきたいと思う。

さらにいうと、そうなると、「自分に何ができるか」とか「自分に何が得られるか」とかではなく、「この社会に何を残せるか」ということが、やはり重要になってくるのではないかとも思う。

2014年06月22日

日本サッカーは「忍者」を目指せ。

日本サッカーは、やっぱり弱い。

弱者は、日テレのドラマ「弱くても勝てます 〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜」ではないが、強者に勝つための知略が必要だ。

ぼくはそれを、世界に名だたる日本の「忍者」にならえばいいと思う。

「ニンジャ・サッカー」である。
ネーミングもインパクトがあって、世界中どこでも通じそうだ。

忍者の特徴は、神出鬼没なところにある。そういうサッカーをすればいい。

例1.
サイドバックは猛烈に上がり下がりを繰り返す。ヘバったら、別の選手がサイドバックにチェンジする。こうすれば、無限に運動し続ける脅威のサイドバックになる。

例2.
フォワードがセンターバックに、センターバックがミッドフィルダーに…。あらゆる選手が自由自在、縦横無尽にポジションチェンジをする。ピッチ上の全選手が一体的に動き、どこからでも攻めて守る。

とまあ、こんな感じで。
レッズでいうと引退しちゃったけど山田暢久のように、キーパー以外のどのポジションでもできる選手を10人集めれば、できる。

相手の裏をかく知力と、献身的な組織力。日本にはそれがあるんじゃないのか。

2014年05月06日

ビギナー老人たち

庭に小さな畑で、野菜をちょこちょこと作っている。
毎年、この連休中に苗を植えたりするので、いつものようにホームセンターに行ったら、案の定の大賑わい。
小さな子ども連れの若い家族もいるが、メインは年配客。たいてい夫婦で買いに来ている。

ある程度の年齢の方なら畑作業もベテラン、と思ってしまいがちだがさにあらず。多分だけど、ビギナーが案外と多い。苗につけられた説明書きとかを熱心に読み比べて回ってたりする。ベテランなら周知事項だから読まないと思う。

そもそも苗のラインナップ自体がビギナーへの訴求効果を狙っている。どの作物もだいたいそうだと思うけど、家庭菜園で確実な収穫が期待できるのはごく平凡な品種。謳い文句につられて珍しいものを買っても、あとでがっかりすることが多い。…というのはひととおり経験してみればわかるので、ベテランには謳い文句はあまり通用しない。苗売り場にずらっと陳列された、これでもか的な苗のラインナップはだから、経験値の浅い人向けということになる。

あるいは、家庭菜園についての知識は今ではネットでいろいろと手に入るが、素人の書いてることはどうも怪しい内容が目につく。一見説得力があるように思えても、自身の少ない経験に基づくものだったり(←ブログなどは「初めての○○づくり!」が多いし)、思い込みや受け売りも多い。過度のウンチクとか。
要するに、ビギナーに次ぐビギナー、世の中ビギナーだらけなのだ。

つまり、いまの高齢者は、僕らがなんとなく思い込んでいるほどの経験値を持っていない。そして、これはおそらく、家庭菜園に限った話では、ないはずなのだ。

団塊の世代以降はいわば歴史と伝統から切り離され、戦後日本を生きてきた。働く男は企業社会でずっと暮らしてきた。それぞれが所属した企業社会の風土において、その経験値は有用なものであったかもしれないが、それは一般社会で有用ではないし、他の企業社会でも役に立たない。おまけに賞味期限切れだったりもする。
つまり、彼らが長い人生をかけて培ってきた経験値の大半は汎用性がない。

一方、インターネット社会においても彼らはビギナーである。どんどん新しいツール、新しい考え方が出てきて、若い世代は最初からそれを前提にしてくるけれども、高齢者世代にとっては、ただ目まぐるしく新しいものが流れてやってくるだけで、ついていければいいほうだ。

というわけで、いま、過去を振り返ってもビギナー、前を向いてもビギナーという、蓄積した経験値というものがおよそ何も役に立たない、「ビギナー老人」が大量発生している、ということがいえるのではないかと思う。

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