沢木耕太郎
いまの沢木耕太郎が、嫌いだ。
昔、学生時代だったか、当時愛読していた雑誌「SWITCH」に連載された、たしか「246」という題のコラムが好きで読んでいた。三軒茶屋の事務所のこととか、3歳の娘のこととか、納豆スパゲティのこととか書いてあった。
いまの沢木耕太郎が、嫌いだ。
昔、学生時代だったか、当時愛読していた雑誌「SWITCH」に連載された、たしか「246」という題のコラムが好きで読んでいた。三軒茶屋の事務所のこととか、3歳の娘のこととか、納豆スパゲティのこととか書いてあった。
民(市民)は、いまや産(産業)、官(行政)、学(大学)のあらゆる分野に進出している。
産(産業):いまや誰でもネットショップやネットオークションでお金儲けができる。1円で株式会社が設立できる(←ほんとは1円だけじゃ無理だけど一応)。
官(行政):いわずと知れたボランティアに限らない。観光情報の発信などは、すでに民(市民)が上回っている。
学(大学):知の共有と発展は、インターネットによって学(大学)から民(市民)にシフトしている。在野で生み出された、多数の優れたプログラムが無償で公開されている。
鑑定結果を踏まえて家裁支部は、女児は(1)対人的なことに注意が向きづらい(2)物事を断片的にとらえる(3)抽象的なものを言語化することが不器用――などの点を指摘した。また、発達障害など「何らかの障害と診断される程度には至らない」とした。
女児は、幼少期から泣いたり甘えたりすることが少なかった。決定は、両親はこれを「育てやすい」と考え、女児の欲求や感情を受け止めてこなかったと判断した。女児は対人関係や社会性、共感性が未熟なまま成長し、怒りや寂しさ、悲しさなどの不快感情が抑圧されたとした。
↑ぼくら、だいたいそうじゃないですか?
大学生だった1984年から1988年の頃は、学生ビジネスがさかんだった。
ぼく自身が直接かかわることはなかったけれども、あちこちの大学のプロ研、広研系の連中とつきあいがあったから、当時の事情はだいたい知っている。右から左に話を転がすだけで丸儲け?やめられまへんなギャーッハッハという、いま思い出してもヘドが出るようなことが、いろいろとあった。キャンパスバンケットというのにも行った。学生がホテルの大宴会間を借り切って、動員何百人か知らないが、盛大な名刺交換会であった。
このところ体調が思わしくなく、血液検査をした。なにしろフリーランスなために定期的な健康診断をしていない。重大な内臓疾患でも見つかったらどうしようかと思ったらセーフだった。
本日大変残念ながら、既に予告しておりました明日18日(土)、明後日19日(日)のストライキを決行することとしました。
選手会は、当初からこの問題の解決のためには、多くの選手とファンを犠牲にする最悪の事態である球団削減につながる球団統合を性急に行うのではなく、統合に伴う問題点を十分協議するため、統合を1年凍結しての話し合いが必要だと主張してきました。
プロ野球ストのことなんだけど。
損失何億円だとか、弁当の仕入れがどうだとか、そんなことは聞きたくないんだ。
30年ほど前、当時の国鉄が大々的に展開した「ディスカバージャパン」のキャンペーンである。田舎の古い町並みの一画でバアさんが何か仕事をしていて、それを若い女性の観光客が眺めていて両者の間には親しげなムードが漂っている、という写真のポスターが全国の駅という駅に貼られた。
埼玉が誇る(?)FMラジオ局NACK5の名物といったら金曜の「FUNKY FRIDAY」。小林克也さんがやってます。
「はっきり言ってYes or No」で、楽天の三木谷社長とライブドアの堀江社長、どっちが好きか、リスナー投票をしてます。
さっき現在、76対19で、堀江社長が圧倒的人気。
子どもの頃に平等な教育をうけ、職業選択の自由のなかで大人になる。ぼくたちにとって、それはあたりまえのことだ。でも、このやりかたには限界があるんじゃないかと、ときどき思う。ぼくらの大半は生まれつき凡才なわけで、物心ついてからの頑張りだけで評価されてしまうのは、ちょっと酷じゃないかと。
ぼくは大学1年から3年の途中まで、絵に描いたような「ネットワーク人間」だった。
高校時代まで、どちらかというと嫌われ者だったし、少なくとも、多数派ではなかった。地元を飛び出して入った大学も、学生数がえらく少なく、狭いコミュニティにたちまち弾かれた(←ぼくだけじゃないけど)。自然と、学外に行動範囲を広げていった。というか、がむしゃらに広げていくしかなかった。
現実社会から弾かれた人間が、バーチャルなネットワークにすがる気持ちはよくわかる。他にないのだから。インターネットはセーフティネットとしても機能しているし、それはとても良いことだと思う。
リサーチはぼくの仕事。手間のかかるオーダーが多い。そんな手ごたえのある仕事がおもしろくて続けてきた。手間をかけないといい番組は作れないと思っている。でも最近の番組づくりは、いかに手間をかけずにレートをとるかを競っているような感じだ。
ぼくはクルマ好きだが、オタクではない。
なんでかなーと考えてたら、思い当たるフシが。
過去にこだわらないのだ。興味がもてない。どんどん忘れてしまう。小学校の同窓会に出ても、みんなの思い出話にさっぱりついていけない。オタクの話についていけない感覚に似ている。
ぼくは、よく寝る。8時間ぐらい寝ないと眠い。働き盛りにあるまじき睡眠時間。
もちろん、仕方なく睡眠時間を削って仕事することもあるんだけど、そういう時の自分がどうも嫌いだ。
突然ですが文部科学省(当時は文部省だったかな?)が数年前に打ち出した「生きる力」というコンセプト、ぼくはけっこう好きです。
が、世間一般的にはどうも誤解されているような気がしてしょうがないです。
いまやっと知った。
BENNIE Kの「サンライズ」。NACK5でかかるたびに気になっていた曲が、これだとわかった。
いい曲だ。
若かりし頃(とくに20代前半)、ぼくは、命をあんまり大したものだと思ってなかった。とくに一時期、バイクでずいぶんと命知らずな運転をしていた。長生きするつもりもなかったし、長生きできるとも思ってなかった。10年以上前の数年間、戦争関連の番組のリサーチをずいぶんとやった。当時の資料やなんかに接して、「むごい」と感じたことはあるが、その感じ方は、今ほどではなかったように思う。
ローインパクトな暮らしがしたい。出会った少しのひとに、少しのインパクトを与えるような、そんな余生、そんな日々、そんな仕事がしてみたい。
マスメディアというハイインパクトな世界に群がる、有象無象の、欲に目がくらんだ、濡れ手に粟のぼろ儲けだか一攫千金のビジネスチャンスだか知らないけど、そんな脂ぎったひとびとと無縁の、欲のない、身の丈にあった、ささやかな場所に身を置いてみたい。
ぼくが仕事してる現場には、そういう匂いはあんまりなくて、だからこそ長く続けてこられたと思うんだけど、むしろ周囲がね。
「一太郎」販売禁止判決についてのソボクな感想。
セコいぞ松下、セコいぞ知財戦略。
いま「コンテンツ」といえば「コンテンツビジネス」「コンテンツプロデューサー」だし、なんだか金の匂いばかりがプンプンで、チョーうざー、って感じ。
思えばバブルの頃にはいっぱいいたなー。六本木の路上とか、渋谷のサテンとか、あっちこっちに。
博報堂生活総合研究所が1月14日にリリースした10代の女の子の意識調査をニュースで知って思ったこと。
そういや、mixiって、グループっぽいな。
このような世間の耳目をひく事件に対しては、なるべくコメントしないようにしているんですが、昨日の、愛知県安城市のイトーヨーカドーで、生後1歳未満の男の子が刺殺された事件について。
from東京新聞
愛知・刃物男 『殺すつもり』と供述
無言のまま正面から、母親の押すベビーカートに乗せられていた翔馬ちゃんの頭を刺した。
fromスポーツニッポン
スーパーに刃物男 11カ月男児刺殺
約15メートル離れた子供服売り場付近でベビーカーに乗っていた翔馬ちゃんを刺した。(中略)当時、美佐さんは子供服売り場にいて、ベビーカーの近くにはいなかった。
好きな子がそこに行くから。
これならわかる。たとえ超難関だろうがおまえには無理だと言われようが、日夜猛勉強してベストを尽くしてほしい。
わからないのは、偏差値や進学率や就職率の高いところに生きたがること。そういうとこに限って倍率は高いことから、そういうひとがたくさんいることがわかる。
なぜ自分にフィットしたところに入ろうとしないのだろうか。
2月9日のサッカーW杯アジア最終予選の対北朝鮮戦、あいにく仕事のためリアルタイムでは見られなかった。あとでビデオでじっくり見たけど、とくに後半は見応えがあって、いい試合だった。
北朝鮮を見直した。いいサッカーをしてた。とくに後半、同点に追いつくまでの時間帯。正面から、正々堂々とがっぷり組む感じがよかった。
ボクは議論が嫌いだし、あまり価値も感じない。
一次情報の応酬だったら、意味あるかもしれないけど。
生理感覚としての「こう思う、こう感じる」、たとえば女の子のシンプルなスキ・キライ的な、脳まで届いてない末端神経反射みたいなのは、いいと思うけど。
脳内生産脳内消費みたいな議論は、はっきり嫌い。その先に、何か価値のあるものが待ってる気がしない。
例外的に、はっとするような論理展開とか、あたりまえのことなんだけど虚をつかれて納得とかもたまにあるけど。あくまでたまに。
こういうブログやっといて何だけど。
ネット右翼について。こちらを読んで考えた。
ロマンチックな戦争に敗れたあと、
ロマンチックな資本主義に邁進した日本(人)。
リスナーへの愛とか、
モノづくりのプライドとか、
幸せの明日へとか(??)。
ホリエモンはきっとそういうのが嫌いなんだろうな。
ロマンチックな資本主義の恩恵にあずかれたのは過去の話。
若い世代にはそんな砂糖菓子のようなおいしい話なんて残ってないし。
ドライに力づくでぶん取る、というのもまた、若い世代の生き方の1つかと。
ゴールデンラッシュの時代、一攫千金を夢見て、多くの人たちがアメリカ西部に向かい、そのほとんどはのたれ死んだ。
…と、勝手な想像。
(2005/03/18memoを元に)
いまの若者は少子化のために、ボリュームとしてのパワーがない。
そればかりか、フリーターが増加することで、生産と消費の両面において、やはりボリュームとしてのパワーがない。
つまり、いまや若者は時代の主役ではない。
?ということは、若い子が、最新の流行を知らないオジさんに対して、「おくれてる?う」と言うこと自体が、すでに時代遅れだと言える。
(2005/03/25memoを元に)
ネットには、既存メディアがボツにしてきた原稿がいっぱい。一般人の多くがどんな原稿を書くのか、既存メディアがどんな原稿をボツにしてきたか。つまり、一般人の多くがどんなつまらない(そして無責任な)原稿を書き、既存メディアがいかに苦労してクオリティを保ってきたかが、ネットを見ていけばわかるはず。しかしそれに気づいているひとは少ないようだ。みんな、我が主張を述べたり、我が主張と同質の主張を見つけて「我が意を得たり」とうなずくのに手一杯で、人の話なんか鼻っから聞く気がないんじゃないか。ボツ原稿同士が仲良く連帯を深めるという、ほほえましくも低次元で時に危険な暴徒の群れと化す、アナザーワールドの人々。
(2005/03/28memoを元に)
子どもを自立可能な年齢まで守り育てることは、親や社会の責務。でもそれは子どもがかわいいからではない。かわいいというのは外見上のイメージの錯覚にすぎず、実際の子どもは自己チューで身勝手な困ったちゃんだし、そうでなければならない。子どもは大人に消費されるべき存在ではないのだから。
世間の耳目を集める事件事故に対して、ぼくは基本的に興味がない。大事故で多くの方が亡くなるのは確かに悲惨だが、一方で、日々の交通事故で1人の方が亡くなるのも、やはり悲惨だと思う。ここ数年は減少傾向にあるとはいえ、毎年1万人近い方が交通事故で命を落としている。神は細部に宿るともいうけど、ささいに思えることの中にも、見落としてはいけないものが、きっとあるはず。
このブログでは「考え」ばかりで、読んでてつまらないと思うけど、もともと、読み手の評価とかに関係なく書いてるのでご了解を。
さて、「いい」と「おもしろい」について。
「いい家」「いい車」「いい仕事」というのは何か。一方、「おもしろい家」「おもしろい車」「おもしろい仕事」というのは何か。と、考えてみる。
囲い込まれ感、というのを、最近感じる。居心地はいいんだけど管理統制されたドーム内に放牧されて、周到にプランニングされた通りにエンジョイしろよ余計なことはすんなよ、みたいな。たぶん、消費者としての感覚。こういう感覚が時代の閉塞感につながっているのではないか。
ここのところ、仕事の合間に、サイトのフルリニューアルをしている。長年の蓄積によって、個人運営にしてはかなりでかいサイトになってしまい、静的htmlファイルだけで300個以上あるらしく、リニューアル作業は時間と手間がかかる。
さっき、NHKのお元気ですか日本列島で、
少子化で超高齢化した秋田の町と、人口減少を食い止めようと子育て支援に取り組む長野の村の様子を報告します。NHKスペシャル「日本のこれから」を先取りして紹介します。
というのをやっていた。
手短に書きます。とりとめないです。
まず、コミュニケーションについて。最近、「やっぱ、とどのつまりはコミュニケーションだなあ」と、当たり前のことをつくづく考えるようになった。開いてないと、何も始まらないし進まない。悪くすると誤解されたりもする。ぼくはちゃんと開いているだろうか。あんまし開いてないかも?
それから、いったい何のために取材するかということ。そもそも「寝た子を起こす」ような稼業。何のために?「好きだから」で答えになってるのかどうかわからないけど、要するに、取材すること自体が好きなんだ。学生時代、キラー通り(←まだこの名前あるのかな)とか好きで、用もないのにぶらぶらしてた。リサーチャー駆け出し時代は、「プレステージ」とか、レポートが使われなくても、ただ取材すること自体が楽しかった。現場で新しい発見をしたりするのが好きで、それをアウトプットするのはその副産物。
ま、ネタになるかどうかは後回しにして、まずは現場に立ってみるってことかなー。
近所の平野観光農園でトウモロコシでも買おうと思って行ったら、夏の直売は8月13日で終わったとのこと。
さきの小泉旋風、自民圧勝について。既存メディアが「小泉政権に何を期待するか」的な問いを発しているのを見聞きして、違和感を感じた。
これからの時代を生き残るのにマストなのはコミュニケーション能力、というオハナシ。引きこもりへの処方箋も。
旧聞。
朝日新聞2005年12月23日、一面に、「人口減 産めぬ現実」と題したトップ記事があった。見出しには「お金かかりすぎる」「2人目はとても…」というフレーズも。君島浩記者は「とても安心して子供を産める環境にはない」とばっさり。
えーと、うちは子ども3人いるんで、いまどき子沢山だと思うんですが、この記事読んでると、まるでバカ扱いだ。うちの子が通ってる保育園には、これくらいの子沢山はあたりまえだぞ。みんなバカか?
逆に疑問。子どもを産み育てずして、老後は大丈夫なのか。誰が自分の面倒を見てくれるのか。先行き不安な社会保障に自分の老後を委ねるのは、あまりにギャンブラー。かりに社会保障があてになったとして、それを支えるのは「よその子」であり、「産めぬ現実」も、「とても安心して子供を産める環境にはない」のも無視して子どもを産み育てているウチのような大ばか者の、いまを耐え忍ぶ日々が、「お金かかりすぎる」せいにする人たちの老後を支えるという、納得しづらい時間差攻撃構造がそこにはある。
「今しかないの」と口癖のように繰り返しながら「今」をひたすら消費する女子高生がそのままスライドしてるだけじゃないのかなあ。
同日、「悲観ばかりではない」と題した社説も掲載されている。「人やモノはますます国境を越えて移動する。一国だけの尺度で人口を考えてもどこまで意味があるのか疑問にも思えてくる」…ま、これはわかる。
インターネットなどのIT技術を含めた現代の科学技術と同様に、マスメディアも現代人にとっての強力なプラグインだろう。
[少子化時代の馬鹿者とは]で書いたばかりの少子化ネタ。
朝日新聞2006年2月26日生活面「3人目どうします? 産みたい理由、産まない事情」。中見出しには「父親協力・保育園…環境が後押し」とある。
3人目を産んだ事例1:「近くの保育園には待機児がおらず、出産後も安心して支援を受けられる環境も後押しした」「3人目を産むと決めて、2台あった車は1台にした」
3人目を産んだ事例2:「朝、保育園に子どもたちを送るのは…夫の邦彦さん」「3人と添い寝して寝顔を見ていると「幸せだなあ」と思う」
3人目を産んだ事例3:「近くに住む67歳の実母が保育園の送迎などを手伝ってくれる」
3人目を産んでない事例:「「転勤族なので周囲に子育てを助けてくれる人がいない。正直、2人が限界」と話す」
東洋大学経済学部・白石真澄助教授のコメント「子ども1人の家庭が2人目を持つには、父親の子育て参加など働き方の見直しがカギになる。だが、3人目への壁は経済的な問題の場合が多い」
以後、自治体や企業の経済支援の事例紹介。
…といった内容の記事。ようは、少子化の原因は環境(産まない事情)にあるという。この記事を書いた2人の女性記者の趣旨は、「保育園の充実、家族や地域の協力、経済支援といった環境整備によって少子化問題は解決できる」というようなものだろう。
きのう、昼間にいきなし停電したと思ったら雷が直近でどかーんと落ち、直後に雹が降り、そのあと晴天…という、なかなか劇的な天気に焦った。
なにしろサーバー動かしてるので。サーバーは無事だったけど、メインPCがやや…IMEが壊れたというか履歴とか単語登録とかが消えたみたいで入力がめんどくなった。
たまりまくった紙資料の整理をしていた。
もともとがリサーチャーなので、新聞の切り抜きを筆頭にしたアナログ資料の整理は習い性のようなもの。
朝日新聞社説(2005年9月4日)「子ども部屋で話そう」より引用。
[ゼロからのリスタート]で書いたように、今回のW杯は小野にとって残念な結果に終わった。
その後、いくつかの記事を読んでいると、中田が代表チームに、主にメンタル面でマッチしていなかったらしいことが見えてくる。
九十九里浜にある「海の家」の強制撤去が始まったことを知った。
以前千葉県に住んでいたこともあって、九十九里は好きでよく行っていた。でも、海の家がらみで嫌な思いをしたこともあり、しだいに足が遠のいた。
運営していた掲示板(いまは閲覧のみ)に、一昨年の夏、「海の家の悪行」という投稿が寄せられた。
九十九里浜は、日本一評判の悪い海水浴場ですよね 砂浜目の前の駐車場って国が作ったものって知ってた? よく海の家の馬鹿面したにーちゃんが『オーライ!オーライ!はい、OK!それじゃ一人1000円です』 なーんて詐欺行為をしている。投稿を受けて町役場に電話、事実確認もした。詳細はリンク先参照。
で、数年前、和歌山県の南紀白浜に行ったときには、そのあり方のあまりの違いにびっくりしたけど、公共の場なんだからこっちのほうが当たり前なんだと納得。
海水浴場はみんなのものです。
以前、司馬遼太郎がインタビューや対談、エッセイなどで発言した内容を調べたことがある。
たぶんこれは「街道をゆく」について述べたことだったような記憶があるんだけど(あるいは本文中の記述?)、
異邦人のように…というフレーズがあった。
ある土地を訪れるとき、私は異邦人のような視点でその土地を見る。日本国内であっても、異邦人の視点を持つことで、いろんな発見がある。
…なんかそんなような内容だったと思う。
この「異邦人の視点」は、ものすごく重要だと思う。
こないだ眼科でもらっていたパンフ「近視のはなし」(提供・参天製薬)。
以下、一部引用。
近視の原因は現在のところ、よくわかっていませんが、遺伝的な要素と環境が関係すると考えられています。
(中略)
一般的な近視の場合、環境も影響すると考えられています。勉強、読書、テレビ、コンピューターゲームといった近くを見る作業を長く続けていると、目が疲れ、好ましくないのはいうまでもありません。
しかし、こういったことが近視の原因になるかどうか、はっきりした証明はありません。
本屋で「自遊人」という雑誌を買った。特集は「市場へ。港町へ。
旨い魚を求めて、ぶらり、ひとり旅。」。全121ページの大特集、とある。こういうマトメ情報は嬉しいので、保存用に購入。
mixiの日記に書いたものを以下転載。あ、mixiをクローズドなネットワークだとはボクは思ってません。だから、mixiだからといって人に読まれては困ることを書いたりしないようにしましょうね。
「本名登録推奨の件」の続編。匿名だからといって安心は禁物という話。
「日本の女性は、美しい。」というのは資生堂TSUBAKIのコピーだけど。
きのう、ふと思ったんだ。日本が世界に誇れるコンテンツはなんだろうって。
流行を追うのは、消費者としてはもとより、生産者としてもコストが高い。
…について考えた。
問題提起のエントリー。
…というコミュをmixiに立ち上げました。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1626217
(mixiユーザー限定)
北海道新聞06/25「「喜んで買う消費者も悪い」 ミート社田中社長」より。
田中社長は「なぜそういう肉(偽装肉)を作らなければならなかったのか。(安い肉の注文が)どんどんと来るでしょ」と述べ、偽装に手を染めたのは、安い肉を求める食品メーカーの注文に応え、コストを切り詰めた結果だったことを示唆。「(食品メーカーは)最初から適正な価格で売ればいいじゃないですか」と批判した。
このひとに言われたくはないけど、まあ、そうだね。企業努力のベクトルは間違ってるけど。
「給食費を払っているのに、子どもにいただきますと言わせるとは何事だ」。こうしたクレームが先日、保護者から寄せられて困っているという話を、ある学校関係者から聞いた。
裏日本ニュース「駅弁フェアで売られる駅弁は「本物の駅弁」ではない!?かも」に衝撃を受け、元記事を読んでみてさらに衝撃。
⇒別ブログに移動しました。(2007-7-7 23:33)
参照先:ホントウに必要なの? コンビニ「24時間営業」の見直しを考える
そだね。かつては「コンビニ店主家族離散残酷物語」のもとになった24時間営業だけど、要らないなあ。最近は規則正しい暮らしをしてるせいか、コンビニの世話になるっていったら銀行ATMとか急な雨の傘とか山頭火のカップ麺だとか、ほとんど用途が限られてるし。
かつては三食コンビニ弁当で「コンビニなしには…」って暮らしだったのが嘘みたいだ。
「もったいない」だとか地球に優しくだとかいうんなら真っ先にヤリ玉に上がるべきだよなあとか思うけど。
これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。 ?オバサンの性的欲望は少年へと向かう
そうかもね。大変だ。
思い出した。20年前もオバさんたちはジャニーズに夢中だった。ぼくが大学を卒業、プー生活を卒業して某所で働いていた頃。そこにいたor出入りするオバさんたちはジャニーズの話題で盛り上がっていた。歳月がすぎ、ぼくもかつてのオバさんたちと同世代になった。
自分を奮い立たせる、前向きにさせる支出はできるだけ削ってはだめだ。自分を最後に支えるのは自分自身だから。
…と、たいした根拠もなく感じている。
「仕事があるだけ幸せと思えという世論操作」についての疑念を前回書いた。その疑念はいまも変わってない。SONYも赤字だそうだが、トヨタもSONYもその他メーカーを含む大手企業軒並みそろって世界同時不況を喧伝しそれを根拠に派遣をばっさばっさと切り結果世界にいち早く業績回復するつもりではないか世界同時不況を派遣切りの口実に利用しまくってないかメディアもそれに乗っかってないか今は不況喧伝が売れるコンテンツだということではないかと思ったり思わなかったり。
「ベストを尽くす」がモットーと語る若い女優さんのインタビューを見てて反射的に思った。
これは(ぼく同様に)長らく自営業だった某氏に以前言われたアドバイス。
いつも目一杯やるんじゃなくて、ふだんはそこそこ、で、ここぞと思ったときだけ目一杯やること。
ああ、なるほどなあ、と思った。
いつもベストを尽くしてると、それがデフォルトになっちゃう。そこから少しでも落ちると、人から、サボってるように思われてしまう。ベストの状態をキープし続けるのは簡単ではない、というかたぶん無理。無理な状態に自分を追い込んではいけない。いざという時のふんばる力まで奪われてしまう。
だから、ふだんは少し手を抜いておく。で、ここはと思ったときに、ふんばってフルパワーを出す。そのほうが自分のコンディションも維持できるし、周囲からの評価もきっと高い。
もちろん、少し手を抜いた状態を標準とするには、相応の地力も必要だし、高いセルフマネジメント能力も求められるから、決してサボリを奨励するわけではない。
家族ファシズムということばに、何を連想するでしょうか。
このアトム化した社会、最小の構成単位である家族をあまりに大切にするあまり、社会的規範から逸脱してしまうことを、ぼくはこのことばから想起します。
…んーと、あとが続かないのでひとまずこれで。自省も含めて。
…だと、城繁幸氏の言説を引用しながらZopeジャンキー日記が書いている。
そうですね。
そうですね、なんですけど、これまでなかなか、こういう話が出てこなかった。
が、どうも最近そういうモードになりつつあるのではないかと、具体的には書けないけど別のエピソードからも思うんだ。
親が子に「生まれてきてくれてありがとう」、子が親に「生んで(産んで)くれてありがとう」と感謝するのが最近ブームのようでありますが、ぼくは違和感感じます。
だって、人生いろいろ、時には辛いこと悲しいこともあるではないですか。そんなときに「産んでくれてありがとう」なんてぼくは思わない。むしろ、「あーなんで生まれてきちゃったんだオレ」と嘆き、恨むほうで。
子どもに対してだって、バブちゃん(乳幼児期)は別として、大きくなればいろいろあるじゃないですか。ときに「なんでこんなガキを作ってしまったんだオレ」と嘆き、恨んだりしてさ。
なんでありがとうなんて言うのだろう。そんなにハッピーばかりの人生なんてあるのかな。もしくは平板?
ありがとうを口にすることで一種の勝利宣言と思えなくもない。でも人生これから長いし、ぼくは勝ち組とか負け組とか信じないから、さっさと勝利宣言も出さないし敗北宣言も出さないし。
それにしても。オレはいったいいつまで生き続けるのだろうか。まだまだやり残したことがたくさんあるのでとりあえず生きるつもりではあるけど、かといって、全部やりつくしたらその瞬間にバタンキューってわけにもいかないだろうし。
みんなどう考えてるんだろう、そこんところ。
エプソンPM-A850にエコリカのリサイクルインクカートリッジを使ってみたが、これはダメだ。
かすれる。印字が汚い。クリーニングしてもダメ。ほんとにダメな不良品が混じっている。残量計測が不正確らしくインクが切れたまま何枚も印刷した挙句にインク切れ表示。
なにがエコだ、結果的に紙を大量に無駄使いする結果に。手間と時間もだ。
もう使わない。
けさ見たNHKニュースによれば裁判員制度は「参加したくない」が多数だそうだ。
その一方ぼくらは品行方正で怒りっぽい。これはネット界だけのことではない。
つまり正義を振りかざし他者を糾弾するのは好きだがそこに責任がともなうのはイヤだというきわめて無責任で自分勝手な姿がぼくら自身だ。
…ちっとも変わってない。
という週刊誌(アエラ?)記事をいま大野勢太郎さんが紹介、「この記事、行きすぎじゃないですか」とコメントしていた。
でもなんか最近「ママ・ファシズム」「ママ至上主義」とでもいいたくなりそうな雰囲気がなくもない。(←表現は不正確、あくまで感覚的)
渋谷スクランブル交差点でベビーカーを押したママ数人一列ですごい勢いで歩いてくる。人込みがクリアになったとたん眼前にあらわれるその姿にあわてて避難。まるで「そこどけママのお通りよ」とでもいわんばかり。
というのはあくまで一例。
たしかロイター伝だったか、イギリスではベビーカーはステイタスの証なんだとか。
なるほど。
若い頃、とある編集プロダクションに入ろうと思ったことがあった。
(プー太郎から脱出しようと思って)
そこの社長はこう言った。
引き出しが増えるからキャバクラで女にモテるぞ。
…いや、当時はキャバクラじゃないか、スナックか、キャバレーか…。
旅行ガイドブックで引き出しでモテモテか。
あれから××年。猛烈な引き出し数で引く手あまた的モテになっててもおかしくない気がするんだが。
あ、飲みに行かないからか。
でも守秘義務のある引き出しが多いからなあ。
いずれジイさんになったら老人会とかで披露してバアさんにモテたりするのか。
ともかく「引き出し」って言葉自体が嫌い。やらしいから。愚直に1つのことだけを地道のコツコツと続けてる、無口な職人は、なかなか開かない引き出しが1つあるだけだけど、それでいいじゃん人間。
ごくせん的フレーズ「ずっとおまえらの味方だから」が、いま世にあふれてる気がする。ラジオの投書なんかでも、我が子に対するメッセージで、「世界中が敵になっても、父さんはお前の味方だから」とか。
それでいいのかと違和感。
それは極悪非道の犯罪者でも味方になるってことになりますが、「ぼくが(わたしが)どんなに悪いことをしても味方になってくれる人がいる・信じてくれる人がいる・許してくれる人がいる」と思わせることって、本人を甘やかすことになり、結果よくないんじゃないですか?
母子カプセル状態で母親が子どもと精神的に一体化してると思い込んじゃってるような状態ではこのような発言が生まれるのもわからなくはないのですが、でもそれはたんなる勘違いだし、そういう思い込みって、裏を返せばDVになるんじゃないですか。
いくら近しくても人は人、ある程度の距離感がないとヤバくないですかね。未成熟を是認、それを助長してしまう言葉ではないですかね、これって。
まあ、フィクションなんで、大げさに考えなくてもいいのかもしれないし、じっさい演じてる役者たちはそう思ってると思いますが、現実と虚構の区別がつかないひともいるかもしれないし。
きょう運転免許証更新で運転免許センター(埼玉県鴻巣市)に行った。更新時講習で、講師が「交通事故の数は減少の兆しを見せない」といった主旨を語っていた。
おかしい。
以前、「「交通事故死者数は劇的に減少していた!」と書いた(2007年11月05日)。
で、最新のデータを確認してみた。
統計(警察庁)から平成20年中の交通事故の発生状況を見てみた。
これのどこから「減少の兆しを見せない」云々と言えるのだろうか。
講師が嘘をついた。
交通事故が減っていることは以前に書いたのですが、ふと気になって、犯罪の統計も調べてみた。
認知件数は平成14年に戦後最多を記録したが、その後連続して減少。
![]()
凶悪犯。認知件数も犯罪率も減少。殺人は平成19年に戦後最少を記録。
![]()
[ 平成20年の犯罪 - 統計(警察庁) ]
(というか「犯罪の概況」pdf)のほうが早いかな。
…ということで、おおむね減少傾向。安全になってることはとにかく喜ばしいですね。詳細はリンク先を参照。
日本の総人口データ(5歳階級、推計人口(平成21年11月概算値) )をグラフ化してみました。
人口の多い年齢階級ベスト5は、
35-39歳 973万人
60-64歳 946万人
55-59歳 907万人
40-44歳 859万人
30-34歳 857万人
…高齢化社会と言われている通り、55歳以上も多いのですが、30代が意外と多いのにびっくり。
※総人口なので日本人人口ではないです。
前記事(いま、日本は35歳から39歳が最も多い。)につづく第2弾。
「平成20年10月1日現在推計人口」から、首都圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)と首都圏以外の人口をグラフ化してみました。(単位 千人)
首都圏人口は全国の27.4%と、3割に届きません。7割以上が首都圏以外に住んでいます。東京都だけだと全国の1割。
都道府県ごとにみれば東京都の人口がもっとも多いのですが、それでもわずかに1割に過ぎません。
誰がやったって同じだ。護送船団方式に慣れきって、痛みも責任も引き受けるつもりのない人たちがこの国の多数派を占めているかぎり。
「街の声」を聞くと時々腹が立つ。自分だけは特別[ Link ]なんて絶対ない。ぼくらは次の代に引き継いでいかなければいけないのだ。間違ったものを引き継いではいけないのだ[ Link ]。
逆円錐形の劇場。そこに鳩山さんは立っていて、オーディエンスに降りてこいと呼びかけている。ぐるっと囲んだ観衆は「お手並み拝見」とかいいながら高みの見物。火の粉が飛んでこない高い所に陣取って、見下して、ネタにして。
ぼくらは後の世代から、「何も引き受けようとしなかった無責任な世代」と評価されてしまうんだろうか。
インターネットが登場したとき、これは少数派の福音だと喜んだものだった。
リアルなつながりの中で同志が見つからなくても、インターネットの海を探していけば、どこかに同志と出会える。
具体的にいうと、アメリカの片田舎でDune Buggy遊びをしてるおっさんとダイレクトにコンタクトできることを知った衝撃。
ところがインターネットが普及し、誰もが使うツールになると、多数派のツールに変貌してしまった(ように見える)。
いわゆる「ネット界」は多数派の覇権を狙う人の良さそうな野心家たちの巣窟となり、多数派工作、同調圧力の雨嵐。
彼ら多数派の特徴は、その場にいる多くの同意を前提とした発言をする点。少数派が常にアウェーの風にさらされているのと対照的に。
多数派工作なんか興味ないし同調圧力に流されたくもない。インターネットはぼくにとってやはり少数派のツール、雑音にまどわされずに本来出会いたい人と出会いたい。
…という本筋をつい忘れがちになるので、改めて初心表明。
私が子どもの頃は気温が30度を超えると「今日は暑いねえ」と言ったものだが、今や最高気温35度、36度も当たり前になった。昔とは暑さの質が変わったのである。
これは今朝(2010年8月8日)、朝日新聞声の欄(9頁)に掲載された“「エアコンは体に悪い」見直そう”という投書。神奈川県藤沢市在住51歳男性から。
こういった話は時々見聞きするのだけど、ほんとだろうか。
と思ったので、気象庁の過去の気象データ
から、ぼくの住む埼玉県熊谷の最高気温データを調べてみた。データがある1961年から、去年まで。
確かに最近の最高気温が上がっているような気もするけど、昔も充分暑かった。「最高気温35度、36度も当たり前」なのは変わってないと思う。51歳男性が14歳だった37年前、1973には38.7度の最高気温だったし。男性が住む藤沢ではないけど、横浜では1962年に37.0の最高気温が出ている。
明治時代からの「日平均気温の月平均値」もある。7月・8月の平均気温値も、グラフにはしなかったけど、まあざっと見て25度前後って感じで、少なくとも大幅に上がっているようには見受けられない。
ということで、この男性が書いていることは正しくない。「昔とは暑さの質が変わった」とすれば、気象ではなく、現代の生活環境、たとえば家屋の構造だったり、緑+土からコンクリートに変わったりして、実際の生活で感じる暑さが変わった、ということではないだろうか。
なりたい自分になれるはず、というのは、ほとんどありえないだろう。
なるようにしかならない、というのが、現実的な線だろう。
「なりたい自分になれるはず」というフレーズや考え方がいつからどのように登場したのか。戦時中はありえないから、きっと戦後のある時期からだろう。勝手な推測では、広告のコピーから始まったのではないか。つまり売りたい商品を買わせるために、消費者に刷り込んだ考え方ではないか。このフレーズを信じれば、なりたい自分になるために、消費者はどんどん(無駄な)支出をする。
がしかし、これはあくまで無責任な広告コピーであって、商品やサービスの購入をすることで(=努力とかそういうことをショートカットして)なりたい自分になれるというのは、とても虫がいい考え方。ただ、ほとんどの人は、「なりたい自分になれるはず」という泡沫(うたかた)の夢にいっとき酔うために、ちょっと財布のひもをゆるめてみる程度だろう。酒を飲んで酔っ払うのと同じだ。やがて現実に戻って、現実に向き合って生きていく。でも、その夢から醒めない人はどうなってしまうのか。
ぼく自身は、子どもの頃に「将来の夢」を持ったことがない。と思う。少なくとも記憶にない。こんな大人になれたらいいなというぼんやりしたイメージはあったけど。もちろん、夢を持ち、夢の実現に向かって努力するのはいいことだ。だけどそれが、外圧的に与えられた夢だったら。売り上げアップという「企業の夢」を実現するためにバラまかれたものだったら。
戦後日本は企業社会だった、ということができると思う。地縁が解体し、“社縁”がそれにとってかわるようになった。かつては社内恋愛で結婚→出産のサイクルが促進されたし、会社がアイデンティティでもあった。いまもある程度、企業社会的構造は続いていると思う。“市民社会”が実現するとしても、それはもっと先のことだ。日本社会を支配しているのは企業だ(ちなみに企業はなかなか叩きにくい。政治や行政といった公の組織には記者クラブもあるし名目もあるし叩きやすいけど)。日本経済には内需拡大だとか消費回復とか言われたりするけど、「なりたい自分になれるはず」という呪文をかけた副作用の責任は誰もとらない。
…ということを、最近起こったとある痛ましいニュースから考えた。
「なりたい自分になれるはず」というのは戦後突如発生した、たんなる広告コピーではないのではないかという気もする。明治維新後の日本そのものではないか。一等国を夢見て、一等国に成り上がって、そこから転落していく過程。当時政府指導者層や軍中枢、官僚の彼らも、「なりたい自分(=日本)になれるはず」と夢見たのではないか。知識人やジャーナリストも、技術者や科学者も、商人も、労働者や農民も、みんなが「なりたい自分になれるはずと思ったのではないか。国全体が同じ夢を見ていたかどうかはともかく。