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ああ言えばこう言う国ニッポン。

先日、とても納得できる新書を買った。山本一郎氏の『リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?』。

なかでもいちばんうなずいたのはp110の「何を追及し、何を諦めるか」のところ。

国民は、官僚批判を繰り返し、国家の問題の過半が官僚の私利私欲によって引き起こされていると政治家が喧伝するとこれを喝采する一方、自身の生活を振り返って考えると国立大学に我が息子を入れるための受験戦争に身を投じ、将来の希望に公務員と書く親子の割合はなかなか減りません。 増税はけしからん、官僚の数を減らせと言う割に、市民サービスの切り下げのは反対であるとか、もう無理筋という言論がたくさん表出してしまう。確かに矛盾しています。そして、このような意見の矛盾や行動のちぐはぐさは生まれてしまう理由は、極めて簡単です。国民自らが何を望んでいて、何に優先順位を置いているから、何を追及すべきで、何を諦める必要があるのか、国民自体が分からなくなってしまっているのです。 ……空間軸の両側に位置する都会の住民の要求と、地方の要求は往々にして対立します。そのとき、両方の意見を聞いて、両方の意見に首肯し賛成してしまう人々が後を絶ちません。日本人らしい、と言えばそれまでなんですが、日本人の和をもって尊しとする精神とはまた別に、高度成長の折に強烈に体験した「折り合っておけば、パイが勝手に成長して分け前が増えて、問題が時間が解決してくれる」という思考停止が、恐らくそこにはあるだろうと思うのです。

結局のところ、ぼくら自身の問題。

見渡せば、あっちにもこっちにも「ぶらさがり」だらけの国、ニッポン。これだけ大勢の「ぶらさがり」を抱えてりゃ、スピードもパワーも落ちるわ。

まあ、ぶらさがる側にもそれなりの言い分はあって、そこは日本人らしく、律儀にぶら下がっているような気もするのだけど。

また、それとはあんまし繋がりないけど思い出したから書いとくけど、明治以降の日本は「狭い国土・貧しい国力」という自己認識を基本にしてきた。革新官僚の統制経済って発想もベースはそれで、「国力は貧しくとも皆がひとつになれば大国と互角にわたりあえる」と考えての国家総動員だったんだろう。かつ、「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」と官僚たちは考えていたんだと思う。ただ実際には戦前・戦中の統制経済は彼らがイメージしたほどにはうまくいかなかった。当時はコンピューターなんてないから計算尺とかで必死に計算したんだけど、経済の隅々までごく少数の頭脳でコントロールするなんてどだい無理だったし、実際には統制と市場のコラボ、壮大な実験だった。おそらく、強力な国家統制が実現し、それが最も効を奏したのは敗戦後復興期の2〜3年。だが以後も「統制×市場」のコラボは続き、「狭い国土・貧しい国力」という自己認識に基づく「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」という官僚の考えは継続され、今に至るんだけど、これだけぶら下がりが増えてしまったら、それも制度疲労ではないだろうか。自己認識からupdateする必要があるんではなかろうか。

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