さきほどのNHKおはよう日本で障害者ホームのことが取り上げられていた。牛久市で障害者ホームを運営する方だったと思うが秦さんという女性が、当初地元にあった反対運動について、
「反対している人は、数は多くないが声が大きい」
と語っていた。
だから、反対を説き伏せるのではなく、賛成を増やすのだと。
なるほどと思った。
たとえば学校のいじめ。
いじめている子どもは、数は多くないが声が大きい(=クラス内での存在感、影響力が大きい)。いじめられている側は何度も誰かから物を取られたりしていると、あたかもクラスじゅうが敵であるかのように思い込む場合もあるかもしれないが、たいていは特定の誰かが繰り返しやってて、それを大半は見てみぬふりをしている、というのが通常のパターンではないか。
たとえばネットの炎上やいじめ。
叩いてくる人は、数は多くないが声が大きい。炎上でよくあるパターンは、まず誰かが強い語句で叩く。それだけでは空気は動かない。もう一人か二人、それに同調する強い言葉を書き込むことで空気が動く。空気を読んだ大多数の同調派や野次馬が参入して、炎上になる。
あるいか狭いコミュニティでのいじめも、特定の誰かがたとえば複数のIDを使ってあたかも多数が同じ考えであるかのように個人攻撃をかけたりするのが多く見られるパターンだろう。
たとえばある集団が間違った方向に行こうとしている。それを引っ張るのはおそらく「数は多くないが声が大きい」人たちだ。そしてたとえばその集団の中のある人が、「おれは内心、反対だった」と事後に語る。それを聞く限りでは、見識ある人のようにも思えるが、果たしてそうか。内心反対だった彼は、まさにその最中、その集団のなかにおいて公然と反対の声を上げなかった。おそらくその集団の大多数が、彼のように内心反対、表面賛成であったはずで、まさにそれこそが集団を間違った方向に向かわせたエネルギーであったのではなかったか。
公然と意見を表明することにはリスクがつきまとう。「あの時お前はああ言ったじゃないか」と結果責任を問われる可能性がある。だから言わない。後出しジャンケンをする。…というのは、無責任で、ずるい。
ぼくらはその「ずるさ」の責任を自覚することなく、この平和な日本を生きている。