変化を嫌う集団的無意識が「いじめ」の根源的エネルギーだと僕は思っている。
変化をすれば、軋轢が生まれる。現状で利益を享受していたのが享受できなくなったり、その逆もあったりするから。対立が生まれる。問題点があらわになる。解決しなければいけない根源を突きつけられる。そういう状態を回避し、いわば「臭いものには蓋」、見て見ぬふりをして、昨日と同じように今日を、そして明日を過ごしたい。そう願うのが変化を嫌う集団的無意識だ。
これはほぼ「和」と同義と考えてもいいと思う。
つまり、「和の国」に暮らす僕らにとってこれはごく基本的な態度だ。
僕らは変化を嫌う国民なのだ。
変化を嫌う僕らは、属する集団における問題が露呈するのを嫌う。根本的な問題に向き合うのを避けるかわりに、表面的な問題に向き合ってごまかそうとする。
それが「いじめ」だ。そう思っている。いじめとはスケープゴートであり人柱である。
きのう僕はこんなことを書いた。
ふと思うには、意識高そーな人たちが政府とか指導者とか要人とか官僚とか批判するのって、常におんなじトーン、おんなじ目線、おんなじ口調的。内容にはなるほど的な部分もあったりするけど、その種の意見がこれまで実効性を持ったことってどれだけあるかな。…つまり実質意味ないんじゃと。
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何故、頭のいい彼らは、実効性がないにもかかわらず、毎度の批判を繰り返すのか。これも「いじめ」と同じで、指導者らをスケープゴートにすることで、自らの平穏な日々を保持しようとしているのではないか。彼らは変化をとなえるかもしれないけど、実は変化などのぞんでいない。彼らのとなえるように指導者や社会が変わってしまったら、「批判する私」という彼らのアイデンティティが喪失される。頭のいい彼らは、自らの立ち位置を確保し、それを変えたくないがために、あえて、変わらぬ対象に対して石をぶつけ続けているのではないか。彼らは彼らの批判する対象を、彼らの批判を通して固定化する作業を繰り返しているのではないか。
とするなら、彼らこそが「変わらぬ現状」の根源ではないのか。
キレイゴトを唱え続ける彼らこそがこの国を誤らせ、いじめを生む根源ではないのか。
(論旨が飛んでる?)
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