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2009年06月 アーカイブ

2009年06月05日

美人時計をやめろと切込隊長が言っている

美人時計をやめろ - 切込隊長BLOG(ブログ)

なるほど。

2009年06月06日

新聞記事についての拭えない疑念。

日々、地方紙記事(含全国紙地方版)を見てネタ拾いをしていると拭えない疑念。はたして新聞記事というのはリアル社会を反映させているというより、むしろリアル社会と乖離した世の中、一種のパラレルワールドを紙面に構築させているのではないか。ぼくらはメディアを通じてぼくら自身を認識しているので、ぼくら像が彼らによって歪められているのではないか。公益性の仮面をかぶった私利私欲がいかにもそれらしい衣をまとって紙面を飾る、ある種の利権誘導に加担しているというより最も有効な装置として機能しているのではないか。基本的に「お代官様メディア」であり悪名高い「大本営報道」の時代から本質変わってないのではないか。それを彼ら(←基本は現場記者とデスク)はどれほど自覚しているのかいないのか。

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2009年06月16日

低コスト高品質のネット発雑誌(案)

こないだ週刊朝日を買って読み丸山タケシというコラムニストがテレビドラマを「メッタ斬り」してる文章を読んでこりゃひどいと思った。いまどきこんな文章ネットでタダで読めるレベルだというかむしろネットでシロートがノーギャラで書いてる文章に劣るとも。いまライター稼業はこんな比較のされかたをされてしまうから大変だなあと同情もするがしかし文字だけで食っていくのだからそれなりの才覚は必要だろう。

もともと雑誌を買わないのに最近さらに買わなくなって、買ったと思ったらこれで、しかし考えてみると雑誌のレベルも低下したかもしれないけどむしろ相対的に下がったというか、ネットで良質な文章が読めるようになったからだといえなくもない。

うーむ雑誌も大変だと思ったけど、そうだ逆に、ネットの良質な文章をかきあつめて雑誌作ればいいじゃん!アウトプットとしては週刊誌でも月刊誌でもいいけどとにかく現役雑誌編集者ライクなeditで、表紙も紙質も。グラビアはFlickrあたりから持ってきて。コラムはブログで足りるだろう。スクープというか取材記事というかは少し知恵が必要だけど業界インサイダーの書き下ろし的な文章とかどうだ。編集には才能が必要だけど原稿料は圧縮できるからコストダウンになるのでは。

あ、以前、たしか東洋経済だかが雑誌出したことありましたけど、あれは編集が残念。

2009年06月23日

「Twitterは、危険なツールだ」

[Twitter,イラン騒乱でソーシャルメディアの主役に]…のような「Twitterフィーバー」が生まれている。

(#iranelectionの発言一覧は↓)
#iranelection - Twitter Search

ぼくはこう書いた↓。

イランの件、よく調べたわけでもなく勝手なつぶやきですが、なんかキナ臭い気がする。 #iranelection [ link ]
たとえば政治的な操作がなにげに介入してたとしても僕らはそれを区別できない。 #iranelection [ link ]
政治的操作に限らず、世間の注目が集まるところにはまたそれを利用しようとする勢力も集まる世の習い。 #iranelection [ link ]

Twitterパワーに注目し、それを利用しようと考える人はいま、全世界じゅうにいるだろう。当然ながら善意の一個人、一市民に限らず、テロリストなど僕らにとって危険と思われる集団も。

かつての戦後占領期、日本国内で共産党の猛威が吹き荒れた時代があった。彼らは革命を起こすために社会に混乱を発生させようとし、工場の機械のメンテナンス中止を呼びかけたり、職場放棄&上京を呼びかけたりした(→その煽動に乗せられた結果、多くの方が職場を失ったという話だ)。当時Twitterがあれば、彼らは使っただろう。もしかしてTwitterパワーによって革命が成功したかもしれないし、いまの日本とは全く違う日本になっていたかもしれない。

Twitterは、危険なツールだ。…特定の職務につく人たちは、今回のイラン騒乱(…という名称でいいのか?)を通じて明確に認識したに違いない。

…という認識も、いっぽうであっていいのではないかと思い。

※「かつての戦後占領期」云々のくだり、改めて事実確認したわけではないが、以前に調べた記憶に基づいている。事実誤認が含まれているかもしれないが、おおむね間違ってはいないはず。

2009年06月28日

「引き出し」が嫌い。

若い頃、とある編集プロダクションに入ろうと思ったことがあった。
(プー太郎から脱出しようと思って)

そこの社長はこう言った。
引き出しが増えるからキャバクラで女にモテるぞ。
…いや、当時はキャバクラじゃないか、スナックか、キャバレーか…。

旅行ガイドブックで引き出しでモテモテか。
あれから××年。猛烈な引き出し数で引く手あまた的モテになっててもおかしくない気がするんだが。
あ、飲みに行かないからか。

でも守秘義務のある引き出しが多いからなあ。
いずれジイさんになったら老人会とかで披露してバアさんにモテたりするのか。

ともかく「引き出し」って言葉自体が嫌い。やらしいから。愚直に1つのことだけを地道のコツコツと続けてる、無口な職人は、なかなか開かない引き出しが1つあるだけだけど、それでいいじゃん人間。

メディア再分配が逆効果を生むのなら…

いま、日本国内のメディア分布はテレビに極端に偏った構造になっています。たぶん。

メディア分布というのは勝手につけた適当なネーミング。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍、映画、そしてインターネットといろいろある中で、受け手の多さ(全国くまなく老若男女)、それに連動してメディアとしての影響力の強さと、流れ込むカネの多さ。

(テレビと一口に言っても、圧倒的なのは地上波全国放送に限られます)

ふだん作り手として視聴者の数を意識することはありません。見えないから。マスに向けて流すという意識は持っていると思いますが。

かつて国民的人気を誇ったとある番組の立ち上げ期にホームページを担当したことがありました。そのときはまだ国民的人気というほど安定した視聴率ではなかったのですが、番組あてに届くメールの数がハンパではありませんでした。毎晩、通常業務を終えてからせっせせっせと返信を打っていました。多くは再放送の問い合わせなどテンプレ処理できる内容のものでしたが、それでも間に合わず、たしか1千通ぐらいの未処理メールの山になってしまいましたが、あのときばかりは目に見えない視聴者の数を実感できました。貴重な体験でした(どんな番組でもこのように山のようなメールが届くというわけではありません)。

さて、テレビに偏った分布を正そうというか、ぶっちゃけ、「君んとこばっか独り占めしてないでこっちにもよこしてよ」というのがいまの潮流であると思います。利益再分配ですね。

デジタル化の本質は、アナログで使いすぎているテレビの帯域を通信向けに再分配すること(ですよね)。ディレイ(遅延)が発生するために時報はなくなります。これはテレビの、テレビならではのリアルタイム性という特徴を失うことになり、津波速報などで人の命にとって致命的な結果をもたらすことになると思っていますのでぼくは大反対なのですが(津波では1秒が生死を分けます)。

モニターも、ブラウン管のほうがずっと美しいのに液晶というのは、「テレビなんてこんなもんの画質でいいでしょ?」と言われてるような気がして。有機ELの時代にならないかな早くと切に願っております。

このメディア再分配はほんとうに意図したようにうまくいくのでしょうか。ネットだって最重要ソースは結局テレビ。マクドナルドでオバさん2人が「みのさん」の話題で盛り上がっているのと根は一緒。テレビにぶらさがって成立するネット言論界。「旬の焦点」が定まればネットイナゴよろしく、直射日光の虫眼鏡よろしく、一点集中で焼き尽くしてしまいます。

ネット中継だって「ごっこ」、テレビの安直な再現にすぎません。

だから、テレビ自身は一点に集中するのではなく、分散して事象を照らしていくべきだと思うのです。
いわゆる調査報道の重要性は高まる、というか、高めていかないといけないと思います。

それが責務。

2009年06月29日

5W1Hなんかどうでもいい

うちの小学生から新聞記者ごっこの宿題プリントを見せられた。テーマを自分で設定し、5W1H(プラスアルファ)の各項目を埋めていくものだった。

5W1Hなんかどうでもいい、いちばん大事なのは何を伝えたいかだ。なにに「おー」と思い、なにを感じ、読む人に何を伝えたいかだ。

というようなことを力説したが、伝わったか?

…ほんとは5W1Hも大事ですよ、でも、それを埋めれば記事になるんだったらロボットでいいじゃん。

2009年06月30日

ネット失望の時代、でもインターネットは素晴らしい。

みんなが情報発信すれば、いろいろな問題は生じるだろうけれど、基本的にはいいことで、ウェブによって世の中はどんどんよくなっていくと信じられていた。そうした純真無垢な進歩思想の時代はどうやら去り始めた。 [ 「ネット失望の時代」がやってきた - 歌田明弘の『地球村の事件簿』 ]

同意。

以前ある仕事関係(テレビ)の方に、ぼくがブログをやっていることを批判的に言われたことがあった。「なんて破廉恥な」…みたいなニュアンスだったと思う。ちょっとショックだったけど、ブログ、って、そんなものでもあったりするよね。

ぼくはブログ(Web Log)が出てきたとき、これは便利だと思った。すでにサイトはやっていて、Dreamweaverとかでいちいちページ作ってFTPして…というプロセスがめんどくさく、ブログだったらその手間が省けるから、中身(取材と執筆)に専念できると思ったのだ。じっさい、書く量は増えたと思う。ぼくにとってブログは日記ではなくツールだった。でも。

手軽に書けることが、ぼくらの「正体」を暴露した。もともとぼくらはそんなにお上品な存在ではなかったのだが。なんか、これまで鏡を知らなかった原始人が鏡で自分の顔を見てぎょっとしたような感じ。

ぼくは「どんどんupしよう!」という主義で、その意味を込めたアイコンもデザインして使っている。でも、最近どうも…書くのはまだいいんだけど、画像が。

撮影って世界を手中に収める行為じゃないですか。征服欲の発露ですよね。エゴですよね。なんかそのいやらしさを自覚することなく隠すことなくうれしそうに。家族写真もある種、父権を振りかざした家族の征服。

いや話がずれたぞ。

時代というのは…歴史というのは代々の為政者を軸に語られてきましたが彼らはたしかに歴史を動かしたかもしれませんがその陰に多数の庶民が面々と営みをつむいできたように、スポットライトが当る時代を語る部分というのはインターネットでもごく一部にすぎないわけで、インターネットの本来の魅力というにはむしろ日の当らないところ、世界中でも同好の士が極めて少ない趣味の情報の交換だとかそういうことにおいて衝撃的だったのです。ぼくがインターネットにさいしょ感動したのはDune Buggyの個人サイトin英米にダイレクトにアクセスできるという点で、これはどのメディアにもかなわない。ぼくはだから地味なところをあくまで追求していきたい。インターネットが豊かになるというのはそういうことだと思う。

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