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2013年10月 アーカイブ

2013年10月05日

SNSは保守的なツール

SNSは流れるタイムラインに表面的に反射するだけでいいので、「変わらないで済む」。自分の根本の考え方とかライフスタイルとかを。だから基本的には保守的なツール。

接着剤、とも言えるだろうか。
(良くも、悪くも)

ごくざっくりと一般的には、人はこの世界を自分が理解したいように理解する。それがいくら間違った理解であっても、人はそれを望む。
伝える場合も、人は自分が伝えたいように伝える。
だから、伝えたい人の理解も、伝えられる人の理解も、事実とは違ったものであっても、彼らがそれを望む限り、彼らの望むように理解され、そして納得され、あたかもそれが事実であるかのように接着され、揺るがぬ見方となっていく。

…という状況をぼくはあまり好きではなくて、「ほんとうのところはどうなんだ?」が気になるんだけど、まあ、みんながそう思っているわけでは、ない。
ただ少なくとも、メディアで伝える立場にいる限り、それには自覚的であるべきだと思うんだよなあ。

2013年10月18日

命あるところに死がある

うちの小さな庭は、できるだけ生き物の豊かな状態にしたいと思って、雑草を抜いていない。伸びた雑草を刈り取るだけにしている。おかげで、虫とかトカゲとかカエルとか、いろいろな生き物が跳んだり鳴いたり走ったりしていて、なんか楽しい。

で、そうした生き物たくさん環境には、まあ当たり前なんだけど死骸もたくさんある。虫の死骸はそこらじゅうにある。なにかふっと、息切れたような感じで。メダカの泳ぐ池に浮いていることもよくある。アリとか。なんで泳げないのに水に向かうんだか、理解できないんだけど。

彼ら小さな生き物は、たぶん何か考えて生きてるわけではなくて、ただ生きている。本能のおもむくままに動いて、長生きしようとか太く短く生きようとかそういうことも考えず、ふと、天敵に食われて終わるやつもいれば、僕ら人間になにげに踏みつけられて一生を終えるやつもいるだろうし、あるいは寿命で体が弱ってきて、よろよろとただ前に進もうとして、息果てるやつもいるだろう。

そんな彼らの姿を見ていると、命あるところに死がある、という、きわめて当然すぎることを思う。

死のないところには、命もない。僕らは死ぬのが怖いし、死を畏れるけど、それよりも恐ろしいのは、命もないことではないか。

2013年10月21日

「癒されるうー」考

癒されるということは、傷ついているということだが、人が普段の日常生活で日々傷つくということは、どういうことだろうか。日々傷ついたメンタルをいわゆる「癒し」で回復させてまた日常生活に戻っていくというのは、何だろうか。

そもそも、特段に傷ついてなくてもフレーズとして「癒されるうー」を発することは充分にありえるのだが、とりあえずそれはおいといて。

たとえばうちで飼っているメダカがそのような状態に日々置かれているとするならば、それは水が腐ってるとか、PH的にどうだとか、つまりメダカの生育環境に不適な状態にあるということで、世話主としては水換えをするだとか、何らかの対策が必要になる状態だといえる。

ということは、癒やしを求めるということは、そもそも、その人の生育環境が「向いてない」ということになるのだろう。そして、それは癒しを求める人に固有の問題というよりも、僕ら自身が果たしてこういう現代社会での生活に向いているのか、という問題になるのだと思う。

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