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2011年09月 アーカイブ

2011年09月01日

冷たいテレビ番組。

こないだテレビを見てたら、被災地の仮設住宅の話をしていた。画面に、仮設住宅の窓ぎわに干した洗濯物が映っていた。いちばん手前は男モノのパンツ(トランクス)だった。

それを見て思った。

もしぼくがこのパンツの持ち主(履き主?)だったら、この映像を見て、嫌な気がするだろう。自分のパンツが干されてる映像を全国に流されて、喜ぶ奴はいないと思う(変態以外は)。

カメラマンも、ディレクターも、編集マンも、プロデューサーも、それに気づかないのだろうか。
…うん、気づかないんだ。彼らは、被災地の話を単なるネタの1つとしか思ってないから。

つまり、表面的にいくら被災地に寄り添うかのような編集をしコメントをしていたとしても、内心はそんなこと思ってないんだ。

冷たい連中が作った、冷たいテレビ番組。

2011年09月05日

脱カオナシヘと考え中

現代日本に生きる僕らは、大なり小なり、みんな「カオナシ」だ。悪魔に魂を売ってカオナシになれば、メディアも広告も商品サービスもこぞって僕らをもてなしてくれる。ひとりではとても生きていかれない、馬鹿で間抜けでいいかげんでその場しのぎでお調子者で怠け者な僕らだけど、まるでそうではないかのような幻想を彼らは与えてくれる。その夢のような時間を、僕らは無駄な金を支払って得る。ばらばらに分断され、アトムとなった僕らを、彼らが心地よくもてなしてくれる。すべては金次第。

無数のカオナシを相手にした商売がビッグビジネスと思われてきた。しかしそこは今や効率化とコストダウンでしか生き残れない不毛の大地と化している。カオナシ争奪戦から抜け出して、違う世界に行かなければ、僕らはやがて滅亡する。顔のある世界へ。

でも現実の商店街はシャッター通り化している。顔のある世界は、ローカルにつながっていなくてもいいはずだ。インターネットはもともと、カオナシの群衆が力の論理でうごめく不毛の世界である以前に、遠く離れた少数者が手をとりあうためのツールであったはずだ。

2011年09月08日

かつての僕は「つながる」最前線で落胆した。

久しぶりに思い出した。

かつて、テレビと視聴者をインターネットで「つなぐ」現場にいたことがある。当時のぼくは最前線にいたといってもいいかもしれない。
「つなぐ」とか「つながる」とか、今ではすっかり陳腐な物言いになってしまってる感もあるけど、当時はまだ新鮮な響きをもっていたと思う。
視聴者とつながることで、テレビは変わる。その可能性とインパクトを、当時のぼくは楽観的に信じていた。

ふたを開けて、ぼくらは落胆した。がっかりした。
視聴者からのドアを通じて寄せられたのは、吐き捨てるような番組批判だった。
番組批判、番組批評じたいはまったく問題ない。番組がつまらなければ、正直につまらないと言ってもらって一向に差し支えない。
問題なのは、「吐き捨てるような」という部分だ。
そこで気づいた。ぼくら(テレビ番組と視聴者)は、お互い高めあっていけるような、そんな関係ではなかったんだと。視聴者にとってテレビ番組とは自分をいっとき楽しませてくれる数多くの選択肢の1つにすぎず、つまらなければチェンネルを回したり、あるいはゲームとか別のことをすればいい。
別の言い方をすれば、視聴者はカオナシだ。おいしいものを呑みこむだけ呑みこみはするけど、ただそれだけ。建設的なアウトプットなんか最初からする気がない。せいぜい、食えなかった部分を吐き出すくらいだ。

あれから何年も経った。
いまはどうだろうか。テレビと視聴者との関係に、何か変化は起きただろうか。視聴者は、「顔のある」存在に、少しでもなっただろうか。

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