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2010年09月 アーカイブ

2010年09月08日

“ネット界”というハッタリ

「ネット界で評判」だとか「ネット界で人気」だとか、はたまた「ネット上の世論」だとか。たとえばこんな。

民主党の代表選挙は、これまでに前例のない展開になってきた。新聞・テレビなどの大手メディアと、それ以外のメディア、特にネット上の世論が大きく分かれているのだ。
[ link ]
はたしてネット界とは何か、そしてネット上の世論とは何か。
インターネットにはさまざまなコンテンツやコミュニティが存在する。学校裏サイト的な掲示板もあるし、旅行や食べ歩きのブログもあるし、特定のソフトウェアに関するフォーラムもある。
これら全てを含めて「ネット界」「ネット上」というわけではなく、たいていは特定の部分を指している。「ネット上の有名人」という場合によく挙げられる人名があるが、彼らが認識されている世界といっていいかもしれない。
(ネットの有名人といっても、インターネットユーザーの中で彼らを知っているのはほんのごく一部だと思う。具体名を挙げればわかりやすいけど、ここでは出さない。…ええと1つだけ。勝間はわりと誰でも知ってると思うけど、切込隊長はネット上の有名人。「勝間vs切込隊長」がわかるのはネット界だけ)
インターネットにはいろんな小部屋があるけど、そのなかでも大部屋というか、広場みたいなものがネット界、という認識もあるかもしれない。多くの人に興味のある話題を扱うから広場なのだと。
しかし本当にそうなんだろうか。「ネット界」というのも、実はインターネット上に無数に存在する「小部屋」の1つにすぎなくて、「ネット上の世論」なんて、その小部屋での話にすぎないのではないか。
いまは、ネット上の世論は小沢支持だという。たしか去年、自民vs民主のときはネット世論は自民支持、ネットは右寄りだと言ってたと思う。
ほんとうにそうか。
小部屋で行われている、特定の(偏った、といってもいいかもしれないけど)人たちによる議論を、あたかもインターネット上の意見の大勢のように伝えたり、思い込んだりするのは、違うんじゃないのか。
たとえばその「ネット界」が、1万人程度の規模だったとする。小部屋としては大きなほうかもしれない。でも、インターネット利用者全体からみればほんとに少数だし、ネットにつないでいない人も含めた日本語圏全体からみたらいっそう少数だ。
いわゆる「ネット上の世論」と、より広い世論(←変な言い方だけど)が違うことはよくあるし、ネット上の世論がはっきり示した結果の通りに世の中が進まないことが往々にしてある(というか大抵そう)ことは、経験値としてあると思う。
(思うんだけど、たとえば政治とか社会問題とか、たしかに多くの人の関心事ではあると思うけど、それに対して、ネット上で意見を表明したりとかを、どれだけの人がするのかということについて考えてみると、ほとんどの人はそんなことしないはずだ)
いわゆる「ネット界」が居心地いい人は、そこにいればいいと思う。意見のあう人同士、わあわあやっていればいいと思う。でもそれは、社会一般に対してなんの影響力も持たない、ごく少数派のグループ内での盛り上がりだ。
ということを頭のいいいわゆる知識人が気づかないわけはないと思うし、気づいていて知らんぷりをしているのであれば、なかなか狡猾だなあと思ったりするわけだ。
…と、文章としてはまったく稚拙なままにしとくけど、ぼくはネット界だとかネット上の云々だとかに対して非常に懐疑的な意見を持っていることをここに記す。

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2010年09月12日

協調だけでは生き残れない。

ラジオに安倍なつみが出てて「野菜ソムリエ」や「ジュニア食育マイスター」の資格をとったことを話していた。
それを聴いてて思ったこと。
芸能人やタレントは個人のキャラを立て、輪郭をはっきりさせることで食っていく稼業だ。
使う側にしてみれば、ほとんどのタレントは、「こういうポジション」という構成演出上の要求があって、それにハマるタレントを使う。たとえば「かわいくて、チャイナ服が似合って、そこそこ知性が感じられて、できればスタジオ回しもそつなくできる子」みたいなリクエストだったりするのだけど。
この企画会議の場で思い出されないタレントは使われないし、逆に、いつも思い出されるタレントはよく使われる。
キャラがはっきりしないタレントは使いづらいという以前に思い出されないから仕事が来ず、結果食べていけない。
また、タレントが焼肉屋とかやってることは多いけど、これも、一般にキャラが浸透しているからこそ、その知名度が使えるわけだ。
キャラを立てるというのはある意味で勇気のいることだ。ある意味で「烙印」を押されるということで、いったん押された烙印を変えることはできない。でも、それをしないと前に進めない。
タレントはもちろん事務所が戦略的にキャラを作ることもあるけど、若いうちはそんなロボット戦略も使えるけど、年季が長くなってくるとそうはいかない。本人みずからのキャラ、指向性でどれだけやっていけるかが重要になる。
という意味で、安倍なつみの「野菜ソムリエ」や「ジュニア食育マイスター」は、本人によるキャラ立て戦略なんだろうと思う。
…というようなことは、ぼくのようなフリーランスはもちろん、組織に所属して働く人にとっても、今後どんどん重要になってくるんじゃないかと思う。
長谷川滋利がたしかどこかのインタビューで、協調性だけでは生き残っていけない、個性がないと上には行けないし、多少問題を抱えていてもそうした個性のある集団でないと強くなれない、みたいなことを語っていたと思う。
空気を読んで合わせるだけではいずれ淘汰されてしまう。個の核というか、他と違う部分をある程度前面に出すと、必ず誰かとある程度の衝突を起こすことになるんだけど、それを恐れていたら、いつか蹴落とされて、忘れられてしまう。
そうならないようにしていきたいと思う。

2010年09月14日

PTA問題は金で解決すればいい。

PTA問題と言うのが適切かどうかはともかく、ツイッター上でのぼくのレス

上からの押し付けでなく個別に解決すべきと思いますが。 QT @Rsider: A(略)PTAの自由な入退会に関する署名より。 http://bit.ly/9Y5qek 携帯はこちらから。http://bit.ly/aBRpJb
その続きの、
…だって各々の意識が変わらなきゃだし地域ごとの違いもあるし。いっそ自治会やPTAは強制加入でもいいと思う。ヒマ人団体は無意味。あーツイッターじゃちゃんと書けないや。
から、まとめて意見を書くことにしました。

ぼくは小学生以上の子を3人持つ父親ですが、これまでPTAについて深く考えたことも調べたこともなく、基本的にカミさんに任せきりです。積極的にかかわる気は今後も起きないと思いますが退会する気もありません。…という立場です。この文章も、事実をよく調べもせずほとんど主観で書きなぐっています。あとPTAと自治会をごっちゃにして書いています。その点はご了承を。

友人が以前某テレビで一般人としてひな壇参加したとき、田舎の実家から都会のマンションに引っ越した理由として「ドブさらいなんかしたくないから」と発言してました。自治会主催の地域のドブさらい、それに象徴されるうっとおしい地域社会を離脱したかった、という意味のぶっちゃけ発言だと受け取りました。口に出さないにしろ、こう考えている人は少なくないはずです。
(マンションを維持するには住民のつながりが戸建て以上に重要だったりしますが、それはそれとして)

ぼくもかつてはそうでした。ひとり暮らしとか、結婚したての頃とか、好き勝手にやってました。「文句言われてないし、何やったって勝手じゃん」と、けっこうご近所にお住まいの方に顰蹙なことを色々やってたと思います。「なんでうちに市の広報が来ないんだ」と市にクレーム電話したこともあります。自治会に入ってなかったんですけど。

それがしだいに、子どもができ、保育園に通い出し、小学校に上がり…カミさん中心としてしだいに地域とのつながりができてきました。決定的だったのは自治会の班長になった1年間。最初は抵抗して、会長さんが説得に来たりしてたんですが。しぶしぶ班長になって、そしたらくじ引きで自治会役員になって。あれやこれやで忙しく、ちょうど仕事もたてこんでいたので、ほとんど寝ないまま会合に出て、うつらうつらなんてこともありました。大変だったのですが、おかげで地域の方とも打ちとけるようになり、やってよかったと思います。

「新しい公共」を支える市民には自覚と責任が必要です。以前かかわったNHKスペシャル「変革の世紀」(2002年放送)で、これまで行政と企業が支えてきた(牛耳ってきた?)社会に、新たな担い手としての「市民」という存在を知りました。たしかに「市民」はすでにいます。でもそれは、ごく一部です。ほとんどの人はこれまで通りでいいと思っています。余計なものを引き受けたくないと思っています。だから、僕らが新しい公共を担う市民になる道はなお険しい。まだまだ、僕らの意識が変わるには時間がかかる、そう思っています。

もしPTAが任意加入になったら(というか今でも本当はそうなんですが)どうなるでしょうか。たぶん全国で大混乱が起きると思います。ある学校では、強い声の人に押されて、PTAが実質なくなってしまうかもしれません。あるいは別の学校では、人徳のあるPTA会長の奔走によって、これまでとほとんど変わらないかもしれません。学校によってPTAがあったりなかったり、あるいは年によって(保護者の考え次第で)PTAができたり消えたりするかもしれません。あるいは任意加入を主張する人が、旧勢力(?)によって村八分を受けるかもしれません(←すでに事例あるかな?)。

僕らは、ここでは日本人はといってもいいかもしれませんが、同調圧力に弱いと思います。たとえば10人の集団がいて、意見が割れたとする。でもたいていは10人が自説を主張しあうのではなくて、数人の対立になって、多くは様子見をしている。風向きを見て、強いほうに巻かれる。ぼくらは集団になるとそういうところがかなりあります。ネットの炎上でもそうです。議論の風向きが変わると、なだれを打ったように一斉攻撃が始まる。

もし文科省がPTAを任意加入としたら(いや、いまでもそうなんですが)、現場ではさまざまな対立が起きるでしょう。多くの人は風向きを見て、どっちかにつくでしょう。いくら文科省が任意加入といったって、そして本人が退会したくたって、ボス(=ボス的な人)ににらまれて立場が悪くなるとなったら黙ってそのままでしょうし、逆に本人がそのままでいたくてもボスににらまれて抵抗できずに退会なんてこともあるかもしれません。

(あのー、ぼくは男なので、女社会のアレはよく知らないんですが。間接的に聞く限りでは色々と大変らしいですがPTAも。かりに会長は男だとしても)

そういう状態が子どもにとって果たしていいものかってことですね。

ちなみにうちの子の通う小学校は、PTAはうまくいっているようです。一部に異論もあるらしいですがそれは当然として。数年前、PTAでTシャツを作りまして、希望者が注文して、ぼくも持ってますが、運動会なんかで教師も親も同じTシャツを着てたりするといい感じです。いまも、会長さんがPTAだよりを発行してたり、地域のお年寄りを参加させたり、いろいろがんばってるようです。田舎の、出入りのあまり多くない、土着の住民が多い、小さな学校だからかもしれませんが。
…というように、「個別の解決がきわめて困難」という状態がデフォルトだとは僕には思えないわけです。

で、いきなり解決策の提案ですが。
妹が住んでるとこはいわゆる「入会権(いりあいけん)」のあるかなりの田舎でして、聞いたところでは、入会地(いりあいち)の管理、草刈りだとか何だとかでけっこう駆り出されるようなのですが、働いているのでなかなか参加できない。で、参加できない時には代わりにお金を払う。つまり金で解決しているのだとか。
PTAも自治会も、任意といいながら実際には学校や自治体の下部組織としてほとんど公的に位置づけられているのだから、その矛盾を解決するために、いっそ強制加入にすればいい。入会権のような土地は持ってないんだけど、地域とか学校というパブリックを共有するというような発想(←ちょっと表現変かも)。地域はみんなのもの、学校はみんなのもの。だから全員で支えましょう。そのかわり報酬は少なくとも役員についてはきっちり出す。パートを休んでそれに見合うだけのというのは無理だと思うけど。仕事が増えるかもしれないけど。
加入しない人は金を払う。報酬を支えるわけなんで実質加入してるわけなんだけど。

ということでどうかなあと思ったりしたのです。これなら現行とあまり摩擦は起きない。退会する人も、「金払ってるんだから問題ないだろ」と開き直れるし、自分だけ楽をしてと良心の呵責にさいなまれることもない。堂々と退会できる。

知り合いに、地域の自然保護活動をしている人がいるんだけど、彼のモットーは、地域の自治会のおっちゃんともちゃんと折り合いをつけていくこと、なんだそうです。旧態依然、悪弊だらけの古い組織かもしれないけど、そこの人たちにもちゃんと仁義切って、良い関係を維持していかないと、継続的な活動はできない。そんなことを以前言ってた気がします。
しょせん人のやることですから。

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2010年09月19日

「認知・判断・操作」とオープンソースな言論空間

言論を車の運転にたとえて、「認知・判断・操作」で考えてみる。

認知:情報をインプットする(ベースとなるファクト)。
判断:意見をまとめる(新しい考え方の提示)。
操作:発言する(誤解を招かない表現)。

記者、ジャーナリスト、ライターなど、既存マスメディアで発言している・文章を書いている人にとっては、この「認知・判断・操作」はいずれも重要だということは、いわずもながら。ぼくが携わっている報道ドキュメンタリー番組もそう。発言・放映が与える社会的影響が大きいほど、慎重にならざるをえない。

で、ネットが普及した現在では、以前にはほどんどなかった「既存マスメディア以外からの発信」が著しく増えた。ネットを通じて、誰でも簡単に意見を発信することが可能になった。量ばかりではない。社会的影響力、その比重も高まりつつあるのは否定できない事実だろう。
ネットの特徴としては、ある発信がどれだけ広がり波及するのか、どれだけの影響力をもたらすかが、あらかじめわからないことだ。たとえばTwitter。ネットの片隅でちょこっとつぶやいたつもりが、RTにつぐRTで爆発的に広がる、なんてことも可能性としてはありうる(もちろん、ほとんどの発言は「ネットの片隅」どまりの影響力しか持たないのだけど)。

だから、これまで「プロ」だけが意識していた、言論の「認知・判断・操作」を、すべての人が意識して、責任ある言論空間を構成する、その必要が高まっていくのではないかと思う。
現状では、間違った事実認識(=認知ミス)、当然ながらも間違った考え方(=判断ミス)、誤解を招きかねない表現(=操作ミス)が多く見られ、ネット言論空間は暴走車で混乱しているようにも思われる。

でもこれをもってして、「馬鹿は発言するな」で片付けるべきではないと思う。各々の発言者は「プロ」ではないので、ある程度は仕方ないと思う。だいたい、普通の人にとって政治や社会の問題はメインイシューではない。自分の生活があって、余ったちょっとの時間を割いて、情報収集をしたり考えたり発言したりしているのだから。ぼくらは専門以外の分野はどうしても疎いし、それはしょうがないのだから。

お互いがお互いを補足していけばいいと思う。得意な領域もそれぞれあると思う。「認知」つまり情報収集のの得意な人、「判断」つまり考えるのが得意な人、「操作」つまり文章にまとめるのが得意な人、いろいろいると思う。オープンソース的なネットワークでみんなの言論空間を形成できたら最高だと思う。

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