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「認知・判断・操作」とオープンソースな言論空間

言論を車の運転にたとえて、「認知・判断・操作」で考えてみる。

認知:情報をインプットする(ベースとなるファクト)。
判断:意見をまとめる(新しい考え方の提示)。
操作:発言する(誤解を招かない表現)。

記者、ジャーナリスト、ライターなど、既存マスメディアで発言している・文章を書いている人にとっては、この「認知・判断・操作」はいずれも重要だということは、いわずもながら。ぼくが携わっている報道ドキュメンタリー番組もそう。発言・放映が与える社会的影響が大きいほど、慎重にならざるをえない。

で、ネットが普及した現在では、以前にはほどんどなかった「既存マスメディア以外からの発信」が著しく増えた。ネットを通じて、誰でも簡単に意見を発信することが可能になった。量ばかりではない。社会的影響力、その比重も高まりつつあるのは否定できない事実だろう。
ネットの特徴としては、ある発信がどれだけ広がり波及するのか、どれだけの影響力をもたらすかが、あらかじめわからないことだ。たとえばTwitter。ネットの片隅でちょこっとつぶやいたつもりが、RTにつぐRTで爆発的に広がる、なんてことも可能性としてはありうる(もちろん、ほとんどの発言は「ネットの片隅」どまりの影響力しか持たないのだけど)。

だから、これまで「プロ」だけが意識していた、言論の「認知・判断・操作」を、すべての人が意識して、責任ある言論空間を構成する、その必要が高まっていくのではないかと思う。
現状では、間違った事実認識(=認知ミス)、当然ながらも間違った考え方(=判断ミス)、誤解を招きかねない表現(=操作ミス)が多く見られ、ネット言論空間は暴走車で混乱しているようにも思われる。

でもこれをもってして、「馬鹿は発言するな」で片付けるべきではないと思う。各々の発言者は「プロ」ではないので、ある程度は仕方ないと思う。だいたい、普通の人にとって政治や社会の問題はメインイシューではない。自分の生活があって、余ったちょっとの時間を割いて、情報収集をしたり考えたり発言したりしているのだから。ぼくらは専門以外の分野はどうしても疎いし、それはしょうがないのだから。

お互いがお互いを補足していけばいいと思う。得意な領域もそれぞれあると思う。「認知」つまり情報収集のの得意な人、「判断」つまり考えるのが得意な人、「操作」つまり文章にまとめるのが得意な人、いろいろいると思う。オープンソース的なネットワークでみんなの言論空間を形成できたら最高だと思う。

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