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下ノ畑ニ居リマス

ローインパクトな暮らしがしたい。出会った少しのひとに、少しのインパクトを与えるような、そんな余生、そんな日々、そんな仕事がしてみたい。
マスメディアというハイインパクトな世界に群がる、有象無象の、欲に目がくらんだ、濡れ手に粟のぼろ儲けだか一攫千金のビジネスチャンスだか知らないけど、そんな脂ぎったひとびとと無縁の、欲のない、身の丈にあった、ささやかな場所に身を置いてみたい。

ぼくが仕事してる現場には、そういう匂いはあんまりなくて、だからこそ長く続けてこられたと思うんだけど、むしろ周囲がね。

ぼくの理想は「下ノ畑ニ居リマス」と黒板に書いた宮沢賢治。

去年5月に書いた、21世紀的な創作活動では、

著作権者のビジネスチャンス、ということで考えるならば、これまでの「一発当てるとウハウハ」というギャンブル的な創作活動ではなくって、もっと細く長く、好きな創作活動をして、それを支える小さな規模のコミュニティがあちこちにあって、お互いに少しづつ支えあいながら、つつましく暮らしていければいい、というようなビジネスチャンスが好ましいんだけどなあ。
宮沢賢治もきっと、そんな状況下にあったらずいぶん助かったんじゃないかと思うんだけどどう?

これにはぼく自身、今後そうありたいという願望も含めています。
マスメディアって、良くも悪くも反響大きいですよね。現場では、いろいろ苦悩というか、やだなーって思うこともあるわけです。メディアの影響力を利用したい人が、あっちにもこっちにもいて、利権の奪い合いになったりするわけです。行政も、企業も、そして市民も、マスメディアを使ってうまいこと宣伝をして、その利益にあずかろうとするわけです。

そういうとこで心身をすり減らすんじゃなくって、もうちょっと健康的なところにいたいんですよね。ローインパクトな世界。はやりコトバ的にいうと、スローライフ的なメディア。
ぼくが考える、21世紀的な創作活動というのはそんなイメージ。

みんなにデクノボーと言われたりとか、「下の畑にいます」だったりとか、そんな日々がいいんだなあ。ぼくももう歳だしねー。

と、もうこんなことを書いてたのか。

2002年に書いた、コンテンツは原則タダである。でも、

宮沢賢治は後世に残るすぐれた作品をたくさん残したが、「下の畑にいます」と、汗水流して働いていたではないか。彼に金を与えれば、もっとすぐれた作品が、もっとたくさん生まれていたのだろうか。

と書いている。コンテンツ制作で収入を得るということそのものに、なにかずっと負い目がある。

以下は「下ノ畑ニ居リマス」情報。いつかそこに行ってみたいと思う。

宮沢賢治巡りと題して、花巻空港そばにある「賢治の生家」を
見学した。小さな家で、今は花巻農業高校の敷地内にある。高校が鍵を管理しているため
日曜・祝祭日は、あらかじめ電話で問い合わせが必要である。
(下の畑にいます。と書かれた黒板がある。)

from:旅日記(写真つき)

近くの花巻農業高校内に移築された賢治の家「羅須地人協会」を見る。黒板に「下の畑にいます 賢治」と白墨で書いてあり、当時の生活が目に浮かぶようだ。
from:張り扇日記2004年

「下の畑にいます、けんじ」の黒板、知ってますか?羅須地人協会(花巻市郊外)の黒板にあるそうで、薄くなると上からなぞるんですって。
from:陶芸ブログ/さるのやきもの

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