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田舎は死んだ

30年ほど前、当時の国鉄が大々的に展開した「ディスカバージャパン」のキャンペーンである。田舎の古い町並みの一画でバアさんが何か仕事をしていて、それを若い女性の観光客が眺めていて両者の間には親しげなムードが漂っている、という写真のポスターが全国の駅という駅に貼られた。

それを見て、「ああ、田舎は死んだ」と思った。かつて田舎には、田舎でなくともちょっと前の京都でも、共同体がしっかり生きている地域には、他所者を排除する視線というバリアーがあって、ディスカバージャパンのポスターのようなことはありえなかったからだ。光景を逆にしたら事態はよくわかる。田舎のジイさんバアさんが、東京のオシャレなオフィスで働く女性の様子を、机の脇に立って興味深そうにジロジロ見てる、なんてことが許されるかどうか。視線にも重力の法則があって、水と同じように上から下へと流れる。下から上への逆流は難しいのである。(『別冊太陽 日本の町並み ? 関東◎甲信越◎東北・北海道』p53、藤森照信)

入手の容易な本ではないので、ちょっと長いがコラムの一節をまるまる引用させていただいた。いろいろと考えさせられる文章。こういう深みのある文章に、webではなかなかお目にかかれないのも残念。
ぼくらは共同体(ムラという地域社会)を崩壊させることでいまの暮らしを手に入れた。自由で、便利で、いびつで、不安な暮らし。とはいえ、共同体がしっかり生きている地域(つまり田舎)も、まだまだけっこうあると思うんだけどね。観光地でもなんでもない、そのへんの田舎とか。あるいは愛知県とか。
視線の法則というのは、たしかにそうかもしれないと思った。とすると、撮影するというのは常にエラソーな行為といえるわけで…。

コメント (2)

>共同体がしっかり生きている地域

しがらみの無い僕の考えが受け入れられているようで、だけどしがらみが無い分、誰も動いてくれない浅草って、それだから面白いのかもしれないですね。
僕の「今の生活」を考えるのに、とっても面白いと思いました。

それにしてもローアングルの撮影、小津さんはエラソーに撮りたくなかったと言う事だろうか?

アングルの上下にかかわらず、カメラを向けるという行為自体が、被写体に下の関係を強要してしまうという指摘には、感覚的にうなずけるものがあります。現場ではもっと謙虚にならないと駄目ってことですね。
また、写真を撮られるのがイヤって人がいますね(若い頃のぼくがそうでした)。「魂を抜かれる」なんて言うのはバカバカしいと思っていましたが、案外当たってたりして。
また、視線の法則に従うと、
被写体<カメラマン<読者(視聴者)でありまして、
ガイドブックやテレビを見て行楽に出かける観光客の視線というのは、無意識のうちに、非常に傲慢なものになっているかもしれません。
などといろいろ考えてしまいました。

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