朝日新聞2010年9月19日付「声」の欄。大事にとってあったもの。あえて全文紹介する。
「事件風化させぬ」何度も聞いたが無職 中村佑
(山口県下関市 69)2001年の米同時多発テロで、次男の匠也が犠牲になった。「事件を風化させないためにぜひお話を」。何度同じ言葉を聞かされただろう。
事件後1、2年は素直にそうだなと記者の言葉にうなずいていたが、やがてその言葉が非常に煩わしく聞こえるようになった。風化させぬ大義のため、あなた方の質問にしぶしぶ答えなくてはならんのか?ある時「私たち家族の中では絶対に事件は風化しません」と言い返していた。
多くの記者は「風化させない」という大義をかざして取材に来る。だが何人かはお定まりの言葉を口にせず、むしろ私の気持ちを軽くした。がんと闘い、死と向き合った後に復職された記者の言葉は優しかった。平和をたずねて日本中を歩き、痛哭のドキュメンタリーを出版された方の話には、私が身を乗り出した。
事件取材をきっかけに、今も折々連絡をくれる記者もいる。日本のメディアが総選挙に向いていた時も、「元気ですか」といたわりの電話をくれた。そして11日「変わりはないですか」と、その記者は電話をくれた。巡ってきた9度目の11日を、重たい気分で迎えていた私の心が一瞬はずんだ。
思うに、「取材記者」と名乗るのはたいてい新聞社の社員か放送局の社員・職員であって、ようは取材記者である前に被雇用者でありサラリーマンである。ちなみに僕もその肩書きを名乗ろうとした時がかつて一瞬あったが、一般人にたちまち誤解されたのでやめた。取材記者イコール新聞社の社員か放送局の社員・職員という図式が(間違って)浸透してしまっている以上は仕方がないが、もともと明治の新聞発生当時にはそんなことはなかった。話を戻すと、彼ら社員・職員が優先順位の筆頭からその安定的な立場を外すことは滅多にない。これは取材姿勢、報道姿勢に決定的な影響を与える。彼らはいわば自らの身の安定を第一とするばかりでなく、そのために事件事故を利用しているとすら思うときもある。また、これも絶対ではないが、記者と名のつく方々のなんて傲慢、高慢、プライド高く人を見下す態度であることか。フリーランスなど彼らにとっては虫けら以下であろう。ということで、考えてみれば取材記者が安定的な高給取りである必要はさらさらないのだから、新聞社と放送局は彼らをいったん全員クビにし、改めて業務委託契約を1年おきくらいで結び、ギャラを下げて僕並みにし、それで嫌なら転職してもらい、残った方々も厳しい生存競争を勝ち抜くというシステムにすれば、人件費はぐっと抑えられるわ、取材と報道の質も上がるわ、志のある者だけしか残らないわでいいことずくめではないかと無茶な提言をしたりしてみるのである。