市民記者があちこちに生まれている。ここでいう「市民」とは、市民税を支払うひと、という意味ではもちろんない(と思う)。「21世紀の市民社会では、企業と行政という既存2大勢力に加えて、市民が社会の担い手として台頭する」というような文脈で使われる「市民」だろう。
純粋な市民、という言い方も変だけど、企業マンでも行政マンでもなく、主婦とか学生とかリタイヤした高齢者こそが市民である、と考えるひともいるかもしれないけど、むしろ、企業マンや行政マンが、企業マンや行政マンでありながらも市民としても振舞う、つまり、市民としての属性を備えた企業マンや行政マンらも市民とみなすべきだし、その社会的なパワーから見ても、また、従来の悪弊を是正する意味から見ても、彼ら企業マンや行政マンがどんどん「市民化」していくべきだと思う。
市民とはそもそも何か。
たとえば、ある会社が、その会社の利益にはなることだけども社会的に不利益になることをしようとする。談合でも詐欺でも環境破壊でも不法投棄でも何でもいい。それを素直かつ忠実に実行するのが企業マン。一方で、そいつはおかしいんじゃないか、そんなことはできん、おれの良心に反する、と言って会社に逆らうのが市民。
ごく単純に言ってしまうと、そういうことになるだろうか。つまり市民の属性とは良心そのものであり、組織人である前に個人として立脚するというありかただ。自分の良心に照らし合わせて、いいものはいい、悪いものは悪い、つまり「是是非非」で行動する。それが市民。そのあり方、めざすところに異論はない。
(これがなかなかできないから難しいのですけど)
でも、考えてみると、記者の基本スタンスも「是是非非」。市民の属性とそっくりダブる。つまり、市民記者=記者であって、あえて市民とつける必要はなくなる。
まあ、職業的な記者と区別するためということに加えて、目指しているものも違うのだろう。ぼくはそれを、(意識の高い)市民の代表という何やら輝かしいものというよりもむしろ、ふつーのひとが記事を書く、というところに求めたいのだけど、そういう視点で市民記者の記事を読むと、どうもしっくりこない。
ひとことでいうと、「オリジナルなやつ、ください」となりますか。職業記者に対する市民記者のアドバンテージがあるとすれば、それは、生活実感、実生活の重みだろう。職業記者にとって、伝えるべきことは遠くにあるけれども、市民記者にとっては、それはすぐそば、日常の暮らしの中にある。そこに目を向けなければ。職業記者の模倣をしても勝ち目はない。
一例。朝日新聞1996年1月21日付「声」の欄より。日立市、44歳の主婦の投稿。正月に里帰りした実家でネズミ退治をした翌日、掃除機のコンセントが燃えて、信心深いじいさまが、ネズミのたたりかと青くなった。それに対するご本人の答え。
「父ちゃん、これはありがたいご利益よ。すぐ気付いて消せたということが何よりの証拠だっぺ。いつも前向きに良い方に考えっぺよ。農に生きる者は、虫を殺し、小動物を退治し、その上で感謝の気持ちを育てていく。まっとうで厳しい生き方だっぺ」
この記事は切り抜いて大事に保存してある。こういうのは、かなわない。
以下、ぼくが2003年に某所に書いたらしいものを引用掲載。だいたいこんな感じです。
NPO型インターネット新聞「JANJAN」というのがあります。サイトのヘッダには、「『JANJAN』は市民が記者になってニュースを送るNPO型インターネット新聞です」とあります。
http://www.janjan.jp/
じつは私も記者登録をしているのですが、これがはたして市民の情報発信なんだろうかという思いがあります。市民(個人、と言い換えてもいいと思いますが、企業や行政といった組織の立場から離れた存在)が情報を発信するとはどんなモノなのか、発信するコンテンツとは何なのか、といったモデルがまだなく、これまで情報発信者だったマスメディアの模倣の域を出ない現状があります。
市民の情報発信には、まずモデルづくりが必要です。それを作り上げていきたいと思っています。
(JANJANについての私の考えは以下にまとめてあります)
http://frat.jp/field/raib.cgi?lg=1&md=hf&no=588&pn=588
(9月10日)
マスメディアは、感動の最大公約数を伝えようとします。そこにはストーリーは1本しかないし、ストーリーに盛り込むアイテムも、1テーマにつき1個だけしか選択できなかったりします。それはマスメディアの面白さであり、つまらなさでもあります。
市民は、無数のストーリーを立てられるし、似たような素材を何個並べたっていいんだと思います。伝える市民それぞれに思いがあるし、受け取る市民それぞれにもまた、違った思いがある。思いのそれぞれはばらばらでも、その、てんでばらならな思いの束がどっさりと飛んでくるところに面白さがあるし、新しい発見や感動があると思います。
こないだ、庭のオートバイのカバーに、セミの抜け殻がついてました。夜の間に、庭の土から出てきて、そのカバーを木のかわりにぶら下がり、脱皮していったようです。セミにとっては厳しい夏だったかもしれませんが、セミなりにがんばって生きていることが伝わってきました。そのセミは、多くの感動を呼ぶことはできませんが、少なくともわたしとその家族らの感動を呼びました。市民が伝えるべき、あるいは、伝えられるものは、そんな小さなものでいいんじゃないでしょうか。
(9月8日)
市民の情報発信は、映画ともテレビとも違います。マスメディアは1対多ですが、市民の情報発信は多対多です。1市民のメッセージがマスメディア同様の強いインパクトを持つのではなく、たくさんの市民の多様性の束こそがパワーを持つのだと思います。市民はプロではないので、すぐれた作品を作り上げる必要はありませんし、それを求められてもいません。当事者として、現場に立つ者として、自らコンテンツを持つ者として、素材を発信することに価値があります。伝える内容は客観的事実ではなく、伝える者の主観的事実です。客観的事実などは定点観測のライブカメラにでもまかせましょう。自分が何を見て何を感じたか、その事実こそがコンテンツではないかと思います。
(9月7日)
マスメディアに対して、憧れと侮蔑という相反する感情が存在するのは、マスメディアの影響力の大きさゆえではないかと思いますが、売れるネタがなぜ売れるかといえば、結局は私たち市民がそれを望んでいるからであって、パパラッチまがいのあざとい取材をなくすことができるかどうかは、私たち自身にかかっているのではないでしょうか。そうした意味でも、私は市井の皮膚感覚を持つ「市民記者」が登場することに、期待しております。
(4月21日)
市民特派員とワードは似てますが、市民記者、市民ジャーナリスト的な方々が、生活感覚や市民感覚を大事にしつつ、現場からナマの情報を発信していけば面白いのではないかと思っています。
テレビをはじめとするマスメディアは、「よく取り上げてもらえば宣伝効果抜群!」の一方、「悪く取り上げられれば社会的に抹殺されてしまう!」(とくに個人)の危険もはらんでいます。ですので私は、市民自身がテレビに登場することに対しては積極的に賛成できません。
しかし、インターネットによって個人の情報発信が容易になった今では、これまでマスメディアが一身に担ってきた情報発信者としての社会的な責任を、これまで情報の受け手であった個人も引き受けることが必要になっています。
テレビに出たあとで取り上げられ方をああだこうだ言うのではなく、市民の側からマスメディアに対して積極的に情報発信をし、その情報の取り扱いが適正かどうかを常にチェックしていくような存在が求められてくるのではと思います。
現場のナマ情報を発信する市民記者は、たとえば被取材者のプライバシーを尊重する、パパラッチのような行き過ぎた取材を自重する、現場でのモラルを守るなど、さまざまな配慮が必要になります。これらは普通の市民感情では「あってはならない」ことですが、自ら取材現場に入ってみれば、それを自制することの難しさを実感するかもしれません。しかし、市民とメディアの二面の感覚を持った市民記者だからこそ取材できるネタがあるでしょうし、マスメディアが行き過ぎた取材や誤った報道に走った場合、それを抑止する効果が充分にあるものと思います。
この愛知万博に、市民記者が生まれるのを望んでいます。
(4月21日)
市民特派員という発想は面白いと思いますが、「特派員」そのものが「1対多」つまりメディアから一方的に送信された情報が大量消費されるというマスメディアの構造に立脚した存在なので、あまり21世紀的だと思いません。(「特派員?スゴーイ!」という無邪気な感動は、それが一部の選ばれた人であることと、それをたくさんの人が同時に視聴しているということに起因しています)
(4月19日)