以前、司馬遼太郎がインタビューや対談、エッセイなどで発言した内容を調べたことがある。
たぶんこれは「街道をゆく」について述べたことだったような記憶があるんだけど(あるいは本文中の記述?)、
異邦人のように…というフレーズがあった。
ある土地を訪れるとき、私は異邦人のような視点でその土地を見る。日本国内であっても、異邦人の視点を持つことで、いろんな発見がある。
…なんかそんなような内容だったと思う。
この「異邦人の視点」は、ものすごく重要だと思う。
「ニュースの現場で考えること」の高田さんは、「豆腐屋の四季」と市民型ジャーナリズムで、
市民型ジャーナリズムが何か新しいものを生み出すのだとすれば、それは、ネットかブログか紙かYouTubeかといったツールによって完成するものではない。ツールも非常に重要ではあるが、必要なのは、いま既存メディアが伝えていないことをどう伝えるか、にある。そしてそれは、「正義」や「国家」といった概念を、抽象的な言葉を用いてこねくり回すことではなく、豆腐屋の四季が描いたような、足元の世界とそこから見える社会と世界のありようを活写することだと思う。…と書いている。残念ながら、それは「マス」になりきってしまった既存メディアには、なかなかできない仕事だと感じている。それを達成する可能性が一番高いのは、今も現に一生懸命働いている一人一人が文字や映像で、それを伝えることだと思う。もちろん、日々忙しい人は、その仕事を他人に伝える暇など、なかなかありはしない。そもそも、一般社会に広く「伝える」ことに、価値などを見出してはいないかもしれない。
まったくそのとおりで、本人がブログを書いたり動画をアップしたりするのが一番良い。
…と思ったんだけど、いっぽうで、「異邦人の視点」つまり第三者の視点も、やっぱり大事だと思う。
第三者の視点が客観的なものか主観的なものかはまた別として。
ぼくは、河北新報の「ニッポン開墾」のような、地域(とくに都会ではなく田舎)のいいところを再発見するような取材をこれから積極的にしていきたいと思っているのだけれど、再発見するには「異邦人の視点」は欠かせないものだと思っている。
重機とか使って地面を掘り返してお宝を発見するわけではなく、その土地で暮らす人たちにとっては見慣れた、あたりまえのモノの中に、再発見すべきものが静かに眠っているのだから。