日本のネットは国際的にみて特異的に匿名志向が強い可能性がある、らしい。
きのう仕事に向かう電車のなかでふと思いついたのでmixi日記に書いたんだけど(さいきん下書き代わりに使うことあり)、
アイデンティティ(同一性)の問題じゃなかろうか。
日本人は「ネット上の俺」「職場での私」と複数の人格を使い分けてるので、同一性がバレるとマズい(逆にいうと、その落差を暴露するのもオモシロい)。
一方、アイデンティティを大事にするアメリカなんかでは、バレてもさほど困らないし、暴いても面白くない。YouTubeもMySpaceも、アメリカ人は下手すりゃ露出狂かと思うほどに自分をさらしアピールしてる。そんなのを見てると、彼らのアイデンティティ志向はよくわかる。
ではなぜ日本人は複数の人格を使い分けるのか。ぼくは、これを日本人の生来の特質だとは思えない。ぼくらの先祖の多くは狭いムラで一生を過ごした農民で、複数の人格を発揮する場がなかったハズだから。田舎のジイさんバアさんの人格はきわめて素朴でシンプルだし。
戦後企業社会が地域社会に代わり、職住を遠ざけ、複数人格を生んだのではないかというのが、ぼくの推測。つまりはアプリオリな属性ではないと思う。
…とmixiに書いたら、複数の知り合いから反論があった。ひとことでいうと、多重人格は日本人の生来の特質ではないかという。ハレの日の無礼講とかがその土壌では、とか。
でも、かつてのムラ社会は、
・家庭でのオレ
・地域社会でのボク
・職場でのワタシ
が接する相手が同じ面々だった。
そこでハレの日に多少酒飲んで暴れても、振れ幅の範囲内。と思えます。
たまに、「え、この人がこんなことを!」的な変貌を見せる人がいても、それも含めた全人格ということで許容されてしまう(あるいははじきだされてしまう)。
いっぽう、いまのネット人格の使い分けは、家庭とか職場とかとの集合体がダブらないところでの、まったく違う人格で、振れ幅も大きく、(暴かない限り)統合されることもない。
たとえば田舎のじいちゃんばあちゃんを例にとる。普段はニコニコ、好々爺然としたじいちゃんが、いざパソコンに向かうと人格豹変、傍若無人、罵詈雑言の限りを尽くす。…というようなのが、日本の匿名ネット社会で日々行われていることなんだけど、これはちょっと想像しがたい。
だからやっぱり、土着地域社会に根付いてきた人たちのメンタリティが日本の匿名ネット社会のバックボーンにあるとは、ちょっと考えづらい。
日本人の集団帰属意識が強いから、と考えられないだろうか。
かつての帰属社会は自分が住んでるムラだけだったから、人格も1つでよかったんだけど、いまはいろいろあって、その場に応じて人格を使いわけなきゃいけなくて、その延長上に、ネットで新たな人格を形成するということになるんだと思う。
「人」という字のように、日本人のアイデンティティは帰属社会に支えられて立っているものだから、帰属社会の数だけ、アイデンティティが必要。…となると、ネットで発揮する人格って何だろう?
ブログは個の発露の場であり、全人格を表現する場。ネット人格で匿名で書いてても、匿名性を保つのはなかなか難しい。たいてい、そこここに個を特定できる(あるいは絞り込める)データをバラしてしまうから。かなりリスクのある自己表現方法だと思う。もともと全人格的に生きていれば、矛盾も起きなくていいんだけど。アルファブロガーな人たちは、ブログのこの全人格性をうまくいかして自分を表現、読者をつかみ仲間をつくり、場合によっては仕事や転職にも生かしている。本来的にはこう使うべきだろう。
人格を使い分けつつもブログで自己表現したいというのは一見矛盾してるけど、組織に帰属した立場にいながら、エンパワードされた個人になりたいという、願望みたいなものがあるのかも。
…ま、ネット人格でガス抜きできる分、アメリカ人よりもずるがしこく処世術に長けているのかもしれない。