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「なりたい自分になれるはず」について

なりたい自分になれるはず、というのは、ほとんどありえないだろう。
なるようにしかならない、というのが、現実的な線だろう。
「なりたい自分になれるはず」というフレーズや考え方がいつからどのように登場したのか。戦時中はありえないから、きっと戦後のある時期からだろう。勝手な推測では、広告のコピーから始まったのではないか。つまり売りたい商品を買わせるために、消費者に刷り込んだ考え方ではないか。このフレーズを信じれば、なりたい自分になるために、消費者はどんどん(無駄な)支出をする。
がしかし、これはあくまで無責任な広告コピーであって、商品やサービスの購入をすることで(=努力とかそういうことをショートカットして)なりたい自分になれるというのは、とても虫がいい考え方。ただ、ほとんどの人は、「なりたい自分になれるはず」という泡沫(うたかた)の夢にいっとき酔うために、ちょっと財布のひもをゆるめてみる程度だろう。酒を飲んで酔っ払うのと同じだ。やがて現実に戻って、現実に向き合って生きていく。でも、その夢から醒めない人はどうなってしまうのか。

ぼく自身は、子どもの頃に「将来の夢」を持ったことがない。と思う。少なくとも記憶にない。こんな大人になれたらいいなというぼんやりしたイメージはあったけど。もちろん、夢を持ち、夢の実現に向かって努力するのはいいことだ。だけどそれが、外圧的に与えられた夢だったら。売り上げアップという「企業の夢」を実現するためにバラまかれたものだったら。

戦後日本は企業社会だった、ということができると思う。地縁が解体し、“社縁”がそれにとってかわるようになった。かつては社内恋愛で結婚→出産のサイクルが促進されたし、会社がアイデンティティでもあった。いまもある程度、企業社会的構造は続いていると思う。“市民社会”が実現するとしても、それはもっと先のことだ。日本社会を支配しているのは企業だ(ちなみに企業はなかなか叩きにくい。政治や行政といった公の組織には記者クラブもあるし名目もあるし叩きやすいけど)。日本経済には内需拡大だとか消費回復とか言われたりするけど、「なりたい自分になれるはず」という呪文をかけた副作用の責任は誰もとらない。

…ということを、最近起こったとある痛ましいニュースから考えた。

「なりたい自分になれるはず」というのは戦後突如発生した、たんなる広告コピーではないのではないかという気もする。明治維新後の日本そのものではないか。一等国を夢見て、一等国に成り上がって、そこから転落していく過程。当時政府指導者層や軍中枢、官僚の彼らも、「なりたい自分(=日本)になれるはず」と夢見たのではないか。知識人やジャーナリストも、技術者や科学者も、商人も、労働者や農民も、みんなが「なりたい自分になれるはずと思ったのではないか。国全体が同じ夢を見ていたかどうかはともかく。

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