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「頑張る」はすでに美徳ではない

頑張る、とは何か。

僕らの文化では、頑張ることは基本的にイイコト、美徳とされている。怠け者は「もっと頑張りなさい」と言われるし、頑張っているマラソンランナーには「頑張れー!」と声援が飛ぶ。

一方で最近では「頑張らなくてもいいんだよ」的に言われることもあるけど、それも、「頑張る=美徳」を否定するものではない。頑張るのはイイコトだけれども、それだけだと息がつまる、プレッシャーで失速してしまうから、もっとリラックスして、というような意味合いで使われる。

頑張る、とは普通、「月月火水木金金」的に、ろくすっぽ休みもとらず一心不乱に仕事や何かに打ち込むことをイメージする。海軍なら猛訓練、受験生なら猛勉強、スポーツ選手なら猛練習。

そうした取り組みが効果を発揮する局面も、たしかにある。

だが、一方で、国家滅亡の危機に直面した一国の指導者がとるべき態度は、こうした「頑張り」だろうか。
もちろん違う。
じっくりと考えてか、瞬時にかは状況によるが、必要な情報を集約し、適切な決断を下し、それを実行することだ。
冷静な思考判断を求められる一国の指導者が「頑張って」しまってはいけないはずだ。

つまり、「頑張る」が美徳とされるのは、たとえば国家の統治構造でみた場合には、末端というか現場というか、命令を実行する立場においてである。
何をすべきかがはっきりしている立場においてである。

それはしかし、誰にでも言えることなのではないか。

何をすべきか、すべてはっきりしている人なんていない。いたらそれはロボットだ。僕らは常に、何をすべきか、頭で考えながら日々を暮らしている。
「頑張る」とは、思考を停止する状態だ。

僕らがいつも頑張ってしまったら、つまりいつも思考を停止してしまったら、誰がその代わりに思考するのか。たぶん会社であればそれは上司だったりするんだろうが、それでいいのか。思考をアウトソーシングしていいのだろうか。
「忙しいから」と、多忙を言い訳に、考えることを停止し、他の誰かの決断にすべて委ねてしまっていいのだろうか。

それは危険だ。

日本はもともと村落共同体(=つまりムラ)の社会であるから、共同体の決定(=自分ではない誰かが決めたこと)に従うことに抵抗はない。むしろそれが、正しいことと思われている。共同体の決定に従順に、精一杯頑張ることが正しいムラビトの姿であった。それは日本が戦後企業社会へと変貌しても残った。会社の決定に従順に、自分は何も考えず、精一杯頑張る姿がエコノミックアニマルであったし、高度経済成長時代のサラリーマンであった。

しかしもはや、正しい決定を下してくれる、自分が何も考えず従属すべき共同体などは存在しないのではないか。ひとりひとりが考え、決断をすべき状況にあるのではないか。

となれば、「頑張る」はすでに美徳ではない。
頑張ってはいけない。

ぼくら自身が各自納得しうる判断を下すためには、決して頑張らず、一国の指導者と同様、必要な情報を集約し、適切な決断を下し、それを実行することが大切ではなかろうか。

以下、今年になってから書いたこと。

2012年02月19日:
真面目に働くのは正しいことか?

2012年7月24日:
作業効率を上げ、作業時間を延ばし、つまりひたすらタスクをこなし続けること、イコール、がんばることだとは決して思わない。

2012年7月25日:
猛烈に頑張ってる状態のときにふと思うのは、もしかして破滅に向かって猛烈に頑張ってるんじゃねえだろーなーという、妙な感覚。

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