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個人能力の限界

子どもの頃に平等な教育をうけ、職業選択の自由のなかで大人になる。ぼくたちにとって、それはあたりまえのことだ。でも、このやりかたには限界があるんじゃないかと、ときどき思う。ぼくらの大半は生まれつき凡才なわけで、物心ついてからの頑張りだけで評価されてしまうのは、ちょっと酷じゃないかと。

ぼくらが個人能力を発揮するためのベースは学校教育。その上に、就職後のOJTで専門的なスキルやノウハウを身につける。流れとしては、だいたいそんな感じでしょう。逆にいうと、それだけしかない。個々人の才能と努力だけで結果を出すことを求められているわけだ。結果が悪ければ、すべて自分のせい。
とくにシビアなのが、社会に出てから習得する専門的なスキルやノウハウの部分。社会に出てたった数年の下積みだけで通用するには、よほどの才能と努力の持ち主か、あるいは、誰でも比較的簡単に習得できる程度のスキルやノウハウなのか、どちらかだ。
才能にめぐまれた一握りの人はいい。おのれの力だけでのしあがっていける。でも、大部分の「ふつーの人」はどうなんだ。誰でもできる程度のハードルしか、実質的に存在しない。しかも、高度経済成長時代のころとは状況がちがう。戦後50年以上経ったいま、どの業界でもたぶん、先人達の経験則の積み重ねの結果として、仕事が効率化している。マニュアル化した仕事でも、それをやりがいのある目標とみなして頑張るのか、それとも、「あほくさ?」と放り出してしまうか。どちらかしかない。
いわゆるフリーター増加というのは、この「なんでも選べるけどなんにもできない」という、個人の力ではどうしようもない状況のなかで、構造的に生まれたものではないのだろうか。引きこもりにしても同じく。やる気を出せと言われてもねえ、と立ちどまるばかり。

昔はよかった、と先人たちはぼやくかもしれない。そう、昔はよかった。日本社会全体が敗戦というどん底からの上り坂一辺倒で、頑張れば頑張るだけ目に見える成果が出ただろう。終身雇用年功序列のなかで給料もどんどん上がり、貯金もどんどんたまっただろう。世の中がどんどん良くなっていく。働きがいを感じたことだろう。…少しぐらい、ぼくら次世代のために、残しておいてくれれば良かったのに。

職業選択自由のなかで生まれたのが学歴競争だけど、これは、ほんとの能力はとりあえずおいといて、学校教育での結果だけでその後の優位をも勝ちとってしまおうというもの。職業の多様性とか、職業ごとの適正とかはあまり考えないで、学業優秀順に条件のいい企業に就職できるというもの。頭がよけりゃツブしも利くでしょうという発想で、大企業優位だからそれでもいいのだろうが、でも、頭がいいだけでこなせる仕事のレベルってなんだかなあという気もする。このシステムで救われる人もいるだろうが、万人向けではないだろう。

また、いま流行の早期教育というのは、あくまで個人能力に立脚するのだけれども、スタート時期を人より早めることで、わが子を優位に立たせようとする試み。これがさらに進むとどうなるか。子どもが生まれてからでは遅い、生まれる前から、親が専門分野に特化してしまい、そのスキルやノウハウを子が受け継げばいい。音楽やスポーツの分野ではよく見られる。これがさらに進むと、世襲制となる。一世代だけではない、先祖代々のスキルやノウハウを受け継げるので、すごいアドバンテージになる。さらに、世襲制の世帯があつまれば共同体となる。かつて、ぼくらの大半の祖先が暮らしていた農村共同体がこれにあたるだろう。…というように、ぼくらは早期教育からさらに先祖帰りをしていくのだろうか。
では「選択肢を用意してあげたいの」と、子どもが小さいうちからいろんな塾とかに通わせるのはどうか。先祖帰りはしたくない、職業選択自由の中で子どもを勝たせてあげたいという親心か。子どもにとってそれはいいのか悪いのか。

子ども時代に夢を抱くのは自由だ。でも、大半の夢はかなわない。挫折のなかで自分の限界を知って失望し、現実的な選択になんとか生きがいを見いだす。または、夢に挑戦しつづける中で、自分のスキルやノウハウの底の浅さを実感する。
これが持続可能な社会なんだろうか。

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