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わかりやすさという幻想

マスメディアが伝えるわかりやすい情報を信じ、目の前のリアルな現実を信じようとしない、倒錯した認識。市民ジャーナリスト、およびその周辺の人々の多くが、「マスメディアに対峙する市民メディア」というわかりやすい構図に立脚しているような気がしてならない。
つまり、みな幻の世界で踊っているだけ。中国の故事でそんなのあったよね。

まず、マスメディアはマスメディアであるがゆえに、わかりやすくなければならない。時折、マスメディアのコンテンツは、その内容に精通した専門家から厳しい批判を受けることがある。その多くは、複雑な事実をわかりやすくエンコードしていく過程で生じる。エンコードの仕方が悪いのは、批判されてもしかたがない。それはたぶん、技術的あるいは道義的な未熟さから生じる。つまりは使えないソフト(ディレクターあるいは構成作家)でエンコードするとそうなる。中にはエンコードそのものに納得できない専門家もいる。「食い足りない」という批判がそれにあたるかもしれない。が、その批判は的外れ。だってマスメディアとは、ある内容を、その内容について知らない、多くの人々に伝え、誤解なく理解してもらうためのシステム。そのために専門家に取材するが、専門家から取材した内容を、同じ専門家に伝えるためのシステムではない。そんなメディアはそもそも不要、マスメディアの役割ではない。その内容の専門家は、伝達対象外。マスメディアは情報の受け手を利するためにあるのであって、情報ソースを喜ばせるためにあるシステムではない。

(これについては以前、真実とわかりやすさでも同じようなことを書いた)

マスコミの「わかりやすさ」とは、複雑な事実を深く取材し、把握したうえで、それをいかに、視聴者に誤解を与えることなく、正確に、しかもわかりやすく伝えるかという努力の結果。また、そうでなければならない。
しかしどうも、それを受け取る視聴者は、マスコミの努力を理解していないひとが多いようだ。もっとインスタントにさくさくっとコンテンツが作られたような誤解をしている。いいコンテンツを作るには大変な手間がかかるのだという、制作側にとって当然のことが、理解されていない。ぼくのようなバックグラウンド系の仕事がなかなか理解されないのもそうだし、ロケ現場にたくさんの制作スタッフがいるのを見てびっくりするのもそう。いっぱい撮られたけどちょっとしか使われなかったって不満もそうかな。おそらく、一般人のつくるコンテンツのクオリティが低いのは、その意識の差ではないだろうか。ゴールの設定地点が異様に近く、ちょこっと走っただけで「こんなもんでいいだろう」と満足してしまうような感じ。

で、完成品だけさくっと受け取って、それをさくっと消費してしまう。マスにむけて発信している以上、それを受け取った視聴者の個々人が、こっちの苦労も知らずにさくさく食ってしまうのは宿命だからいい。しかし、消費する側が、あたかもそれが、自分たちがさくさくっと食ってしまったと同じようにさくさくっと作られてしまったかの如くに錯覚してしまうところに問題がある。消費行為自体があまりに簡単であっけないので、人々はしだいに、それを作られた作品としてではなく、あるがままの事実と誤認するようになってしまったのでは。飲み込みやすいように、わざわざわかりやすくシンプルに仕立てたものを、あたかもそれが事実そのまま生き写しであるかのように思い込んでしまっているのでは。

マスコミ批判の多くは、マスコミという内実複雑で定義も難しい対象を単純に記号化し、図式化して認識してしまっている。それでは、細部に目を向ける努力を放棄してしまう危険性がある。「神は細部に宿る」のかもしれないのに。記号化、図式化による決めつけは、ただの喚きで終わるか、さもなければ、異端の排除という独善的で不幸な結果をまねくかもしれない。あなたがマスコミを記号化、図式化してとらえているのは、マスコミが伝える「わかりやすさ」の、粗悪なコピーではありませんか?

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