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Twitterについての若干の危惧。

Twitterは輿論か世論か。

少なくとも日本国内ではいまのところTwitterユーザーは限定的。一部の人しか使っていない状況から、輿論的空間と見ることができるかもしれません。

だけど、これがもし仮にひろく一般大衆のツールとして普及したらどうなるでしょうか。

Twitterは熟慮の末に紡ぎ出される責任ある理性的意見というよりはむしろ、反射的かつ情緒的なつぶやき(ホンネ)に向いたツールですから、本質的には世論的空間でしょう。

と考えると、Twitterの大衆化によって、「無責任かつ無軌道な煽動ツール」に変貌してしまう可能性があります(←いまはそうじゃないという仮定での表現)。その意味では、Twitterは危険性を秘めたツールであるかもしれません。と、自戒をこめて書き記しておきます。

もちろん、そうならないほうがいいに決まってますが。

なお、輿論と世論についてですが、『輿論と世論』を読むと、
・世論とは世上の雰囲気、責任ある輿論とは異なるもの
・輿論=意見、世論=感情
・輿論=理性的討議を中核とする市民的公共圏、世論=街頭での情緒的共感から生れる大衆的公共圏
…等と説明されています。

追記2009-11-15 09:51

この記事を書いたあと、Twitter上でリアクションがありました。

テレビの話はここでは省きます。テレビ(orメディア)と大衆の相互関係についてはたぶんメディア論のイロハだと思いますし。

もちろんテレビも「無責任かつ無軌道な煽動ツール」化する危険は常にはらんでいるわけで、テレビ屋、放送人としてはそうならないよう常に肝に銘じている必要があるわけですが、ではTwitterはどうでしょうか。

個人差はあるものの、ほとんどのTwitterユーザーは、少なくとも↑のような仰々しい自覚や自戒といった意識はないものと思われます。だって、気軽な「つぶやき」ですからね。

でも、非常にたくさんのフォロワーがいるTwitterユーザーはどうでしょうか。たぶん彼らはすでに、気軽につぶやくわけにはいかない重苦しさのような感覚を、すでに持っているのではないでしょうか。なにげない「つぶやき」に大量のリプライが発せられる。個人ですべて対応する限界を越えて。…これはテレビの送り手と受け手の関係に似ています。

ぼくはかつて、某番組ホームページで視聴者からのメール対応を担当していたことがありましたが、あまりに届くメールの数が多すぎて対応しきれませんでした。自分たちがいかにマスな視聴者に向けて番組を送っているのか、そのときは強く実感しました。

この非対称性という1点においては、まったく同じことではないかと思います。

メディアは受け手の数に規定される部分がかなりある、ぼくはそう思っています。同じTwitterというツールを使っていても、フォロワーが数十人レベルと数十万レベルではまったく別のメディアではないかと。フォロワー数が増えるほど、マスメディアに変質していく。

それとRT。たとえフォロワー数十人であっても、つぶやきがRTの連鎖で広く、しかも瞬く間に伝わる可能性もある。これはうれしい面と、悩ましい面と両方あります。自分の発言をふだん読んでいない人に、RTされた短いフレーズが正確に理解されるとは限りません。我田引水的に、脊髄反射的に理解され、思ってもいなかったリプライやRTを受ける可能性もあります。

たぶんユーザーが増えていけばいくほど、Twitterというツールの大衆化が進み、↑のような現象が増えていく。

その意味ではtwitter失速は嬉しい気持ちもあります。

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