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コンテンツはタダが原則?

ブログを書いても、原稿料は出ない。
2ちゃんねるに書いても、やっぱり原稿料は出ない。
滝マニアや棚田マニアが、美しい写真や詳細なアクセス方法など、持っているコンテンツを惜しげもなくサイト上に公開しても、やっぱり原稿料は出ない。地元自治体や観光協会が提供するコンテンツより、ずっと役立つコンテンツであったとしても。(←じっさいそう)
いま、たくさんの個人が、有意なコンテンツを無償で制作し、提供している。

いっぽう、新聞、雑誌、書籍など、旧来の情報ソースはどうだ。まず新聞。DBで検索しても、ろくな記事が出てこない。朝日新聞朝刊だけは相変わらず読んではいるが、当たりの記事になかなかめぐり合えないので、切り抜く頻度は減っている。
雑誌。大宅文庫の検索システムは新しくなったが、やっぱり肝心の記事が出てこない。なんで出てこないのか、首をひねっていたが、ある時に気がついた。そうか、大宅文庫のスタッフのせいじゃないんだ。雑誌そのもののクオリティが落ちているんだと。
書籍。ジャンルによっては、情報ソースとしての有用性は相変わらず高い。とくに古いものについては、webではほとんど情報を得られない。しかし、本屋や図書館に出かける頻度は確実に減った。
以上、情報取材専業者としての実感。

これまでコンテンツはプロの手によって作られ公開されてきたが、もう、その図式そのものが形骸化しつつあるのではないだろうか。いま、文化を担っているのは誰なのか。(→「それは市民ですっ」と言ってしまうと、そこで話が終わってしまう)

宮沢賢治はどうだ。彼はたくさんの素晴らしいコンテンツを後世に残したが、生前はあまり評価されなかったようなので、本人にとっては、ほとんどタダ働きのようなものだ。いまのブログ作者と変わらない。というか、いま、無償でコンテンツを公開しつづけているたくさんの人の中に、第二、第三の宮沢賢治がいるのだろう。

もしいま宮沢賢治が生きていて、彼のコンテンツがWinnyで出回ってたらどうだろう。彼はどう思うだろうか。著作権法違反だと怒るだろうか。それとも自分の作品がたくさんの人にシェアされていることを、うれしく思うだろうか。

彼がほとんど無償で作り上げたコンテンツを、いまのコンテンツ産業界が利用して、そこで食ってる人がいる。ついさっきもNHK教育テレビで、四万十川をバックに「雨ニモ負ケズ」を地元方言で語るおじさんを見た。このVTRを制作したスタッフは、宮沢賢治コンテンツを利用して食っている。

コンテンツは、もともと、タダが原則なのか。コンテンツを作りたい人は、金が欲しいから作るのではなくて、ただ作りたいから作る。みんなに見て・聞いてほしいから公開する。それがコンテンツ制作の原点。だからそれは、誰でもいいわけで、無名の一個人でいいわけだ。無名の一個人が作った無料のコンテンツが、コンテンツ自体の魅力で、自然に広まっていく。企業が広告費ガンガン使って売るよりもずっといい感じ。で、まあ、それをコンテンツ産業界で働く人々がすくい上げ、メシの種にする。

というのが、文化としてのコンテンツの正しいあり方であるのかなあ。

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