遂に出た!「ブログ新聞」
を入り口にいろいろ読んでたんですけど、なんか違和感が…。
このネットは新聞を殺すのかblog、時事通信の記者の方が書いておられるようで、「参加型ジャーナリズムの確立を目指して」と銘打ってあります。
まず、「じゃーなりずむとは何ぞや?」というところで、はて。何だったっけ。新聞記者とイコールじゃないよね、テレビも記者いるし。しかしテレビ記者がジャーナリストを名乗ってるのを聞いたことないし。では報道系、ドキュメンタリー系の番組ディレクターはどうだ。誰か「おれはジャーナリストだ」と言ってたっけな。やっぱ記憶ないし。うーんとじゃ、雑誌系のフリーライターはどうだ。フリーライターとジャーナリスト、どう違うのだ。イラクとかに行く自称フォトジャーナリストはどうなんだ。みんなでジャーナリストを自称していろんなところに出かけるのが参加型ジャーナリスムなのか。やっぱ違うし。
「ジャーナリズム」の意味を、infoseek マルチ辞書の「大辞林 国語辞典」 で調べてみると、「新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど時事的な問題の報道・解説を行う組織や人の総体。また、それを通じて行われる活動。」とある。また、「ジャーナリスト」は、「新聞・雑誌などの編集者・記者などの総称。」とある。ふむ。合ってるような合ってないような内容なのでとりあえず無視することにする。
既存マスメディアの一方的な情報発信から、情報の送り手と受け手が渾然一体かつインタラクティブに(?)情報を紡ぎだしていく形に、という方向性には疑問なし。それは、脱ダム以後の国交省が、各地で地元市民との協働によって「川づくり」を進めていこうとしているのにも通じるし、いろんな自治体が市民との協働を打ち出しているのにも通じるし(コスト削減狙いだとしても)、企業の消費者本位・顧客本位への転換にも通じる。「やりっぱなし」から「一緒にやりましょう」への動きは既存マスメディアにも起きているが、まだまだ。(←客に媚びてどうするよ、という方向性への疑問もありますが)
ぼくは、発信ソースは市民に移っていくと考えています。
これまで、消費者と生産者、あるいは、行政と企業と市民というように別物に考えられてきましたが、行政マンも会社のサラリーマンも近所のおじちゃんおばちゃんも、消費者であり生産者であったりするわけで、所属組織の構成員としてではなく、一個人としてのスタンスがすなわち市民。
というわけで、これからは市民の時代。「組織の一員としてのコメントじゃなくって、あなた自身はどうなのよ」という問いに答えられなきゃ。
そういった市民が発信源で、それをすくいとり、編集・構成して、それを再び市民にフィードバックする。既存メディアには、今後、そういう機能が求められてくると思うし、その比重はかなり高くなるものと思います。
(既存メディアがこれまで築き上げてきた、記者クラブとか支局ネットワークとかと並存する形で)
ですが、ぶろぐって、じゃーなりずむ?ですか?
ぶろぐって、日曜討論とか、朝まで生テレビとか、そういうものでしょ。「おれはこう思う」「わたしはこう思う」という、意見ですよね。意見って、ジャーナリズム?
たしかにジャーナリストは意見する。「おれはこう思う」という主張がある。でも、意見するだけだったら評論家。ジャーナリストは取材が基本では。現場に行く。取材する。事実を追う。その過程で生じる意見なり視点なりだからこそジャーナリストであって、取材もせず、事実に肉薄する努力をしないままに、「おれはこう思う」では、ワイドショーのコメンテーターと変わらないじゃん。
ぼくもこうして、ブログで「こう思う」「ああ思う」とか書き連ねてはいますが、これはただ単に、思ったことを仕事の合間に書けるし、書きたいから書いてるのでありまして、ほんとは取材に行きたいんです。コンテンツをアップしたいわけです。そっちのがプライオリティ高いんです。でもそれはすごく時間がかかるから、なかなかできない。で、書くだけで済んじゃうブログで発散してるって感じ、かなあ。だからこのブログ、あんまし読まれなくてもいいんです。
そんなわけで、意見もいいけど、市民の現場発信も増えていくといいですねえ。