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ブログはニュースソースとなるか

ジャーナリストは、エラソーだ。エラくない人ももちろんいるけど、ジャーナリストというだけで、なんか、立派な匂いがしてくる。(←旧体制的価値観で培われた匂いという気がしないでもないけど、それはおいといて)

ジャーナリストというのは、職業というよりもスタンスだろう。だから自称ジャーナリストでかまわない。というか、フリーで仕事してるジャーナリストはたぶんだいたい自称だろう。おおむね、原稿を書いて生計を立ててる人が多い。いっぽうで「フリーライター」を自称し、それにこだわる人もいる。ぼくは違いがいまひとつわからない。たぶん意識の違いだろう。

さて。ブログは意見するツール。それがコンテンツとして一般社会に対し意味を持つとすれば、「一般大衆はこんなことを考えてるんだぞ」ということだったり、「業界関係者にはこういう意見もあるぞ」という部分だろう。これまでは街頭でマイクを向けたり、業界内の知人に取材して得ていた部分を、ブログで代替することが可能だと思う。社会面に掲載されている、ある事件事故についての識者をふくむコメントだったり、「声」の欄の投稿だったりする部分。でもそれだけでは新聞やニュース番組は構成できない。

でも、ニュースソースっていうのはとどのつまり人間が発信するわけでして、ま、既存マスメディアは記者クラブとか支局とかのニュースネットワークを駆使して、それをつかんでくるわけですけれども、逆にいうとそれが既存マスメディアの限界点だったりするわけですね。そこを補填するのが、いわゆる調査報道だったり、週刊誌系ジャーナリズムだったりと、それはそれで色々あると思うのですが、市民が、これまでのニュースネットワーク頼みじゃなくって、ブログでダイレクトに発信すればいいんじゃないかと思うわけです。市民というのはつまり、渦中の企業の社員が、企業マンとしてではなく、一市民として問題を告発するとか。あるいは、地域とか身の回りで起きた問題とかを、ささいなことかもしれないけれども発信してみる、するとそれが、「うちも実は」という連鎖反応が広がっていき、ミクロからマクロへと、ニュースが生まれるかもしれない、それがぼくら自身を変えていくものになるかもしれない。
などと、ぼんやりとイメージしてます。

そんな、市民発のニュースネットワークがもし太平洋戦争中に構築されていれば、大本営発表ばかりをしていた当時マスメディアにも対抗できたと思うのです。
ただし。ぼくら自身が大本営発表以上に好戦的だったりすると、かなり大変なことになりますけど。
ともあれ、ブログが自らニュースソースとなれば、「マスメディアはぼくらの映し鏡」(←持論です)というのが、いまよりさらに、ダイレクトにわかりやすくなって、とてもいいんじゃないかと思います。

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