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乖離する世界を埋めるには

今年5月、足で使っているトヨタ・カルディナのドライブシャフトブーツの破損を発見。あいにく愛車スタリオンのレストアで手一杯ゆえ、近所のトヨペットに修理に出した。簡単に交換できる分割式ブーツがあるというので、それを使用。部品代¥6500×2+工賃¥6,000。
約半年後。先日、タイヤ交換をしてたら、分割式ブーツの接合面が一部、外れているのを発見。再度トヨペットに行き、つけ直してもらった、はずだったが、きのうチェックしてみると、また外れていた。というか、見た目には何も変わりなし。またまたトヨペットに行き、クレーム扱いでブーツを新品交換に。

ぼくが愛車スタリオンをほとんど自前で直してるのは、三菱のディーラーにさんざんな思いをさせられたから。それ以来、業者がやった部分は、あとで必ずチェックするようにしている。プロといっても完璧な仕上がりとは限らない。というか、程度の大小はともかく、アラはいろいろ見つかる。トヨタだからといって全幅の信頼を寄せるわけにはいかないことが、よくわかった。

知人からは、
半割れブーツは簡単に取り付けできますが耐久性が良くありません、必ずつなぎ目か
らグリスがもれ出てしまいますし値段も普通のブーツの3,4倍します。
半割れブーツはお勧めしません。

とアドバイスされていたが、半年とは短すぎるし、整備士の兄ちゃんの話では、これまで、このようなトラブルの経験はないとのこと。モノも良くなっているらしいので、なおさら。「簡単に外れてしまうようなものを使うわけにはいかない」という話も、もっとも。耐久性では一体型ブーツに劣るだろうが、実用上の問題はないはず。部品精度の問題か、作業精度の問題か。しばらくはこまめに点検して、やっぱり駄目なら、今度はしょうがないので自分でやってみよう。

★楽々交換★ドライブシャフトブーツ分割式
ミヤコ自動車工業株式会社
分割式ドライブシャフトブーツ交換方法その1
分割式ドライブシャフトブーツ交換方法その2

プロのアラをシロウトが見つけるのは、シロウトにとって本意ではない。せっかく工賃払ってプロにやってもらってるんだから、仕上がり完璧なのが当たり前。それを、わざわざジャッキアップしてタイヤを外してチェックするのだ。面倒。自分の仕事ならともかく、プロの尻拭いはイヤ。でも一方で、プロ=下請け、と捉えると、話は変わる。こちらクライアントとしては、納品された商品の品質を厳しくチェックしなければ。下請けを全面的に信頼すれば楽なのだが、そんな牧歌的な時代じゃない。努力を怠れば、ブラックボックスを野放しにしてしまう。ブラックボックスは不正の温床となる。ガラス張りに、透明に。

クルマ好きを自称し、豊富なウンチクを語るヒトの中にも、自分の手を汚すことなく、一切をプロまかせにするヒトがいる。スタリオンのような、年季の入った、最初から信頼性の低いクルマでさえ、そうだ。人それぞれで勝手だけど、オーナーとしての努力を放棄した、無責任な態度だとぼくは思うのだ。「整備はプロにまかせるべき」みたいなことを平然と主張するヒトもいて、開いた口がふさがらない。安全上、そのほうがいいのだという。シロウトの仕事よりもプロの仕事のほうが優れているという、いたってシンプルな発想で、プロにとってみればおいしい客だが、プロって言ったってそんな神格化するような代物じゃないだろ。

たしかに、シロウトとプロとでは、スキルに差があるケースもある。整備環境の差も大きい。失敗確率の差もあるかもしれない。でも、スキルの差がほとんどない作業もある。というか、いまどきのクルマには、職人の経験が生かされるスキルフルな作業はほとんど不要。なにしろ、「ヘッドがいってしまった→リビルドエンジンがない→もう駄目ですね」、などと平気で言う整備士がいて、「腰下は生きているらしい→ヘッドのパーツ交換」という筋道をシロウトが示したりする昨今。ディーラー整備士がみな若いことからも、大した技術は必要ないことがわかる。

整備環境の差は、工夫と時間でクリアできる程度の問題だし、失敗する確率は、とりわけ初心者の段階では高いけれども、失敗は成功のもと。経験値を上げていくには、ある程度のリスクを覚悟のうえで、乗り越えていくしかない。もちろん、すべてをシロウトでカバーすることはできない。無謀なチャレンジはすべきでないし、知ったかぶりのカン違いも危険。場合によってはプロに頼むことも必要。だが、自分が乗るクルマのコンディションは自分がいちばんよく知っていなければならないし、そのためには、最低限なスキルは持っていないと。走行中に異常を感知したら、情報を分析してトラブルシュートを行い、的確な対応がとれるようでないと。自分でできる内容ならば自分で直し、できなければプロに発注する。その判断もできず、何かあるたびに、よくわかんないままに業者に持っていって見てもらう、自分はただ業者の言うことを鵜呑みにするだけで、何のツッコミも入れられないのでは、あまりに都合のいいお客さん。

近所のスーパーオートバックスにエンジンオイルを買いに行くと、はたち前後と思われるレジのお姉ちゃんに、「ご自分で交換されるんですか」とびっくりした顔で言われる昨今。自分でオイル交換すらしない「都合のいいお客さん」が、おそらく若い世代中心に多数派を占めていると思われる。理由としては、クルマの品質が向上し、乗りっぱなしでも壊れなくなったことが大きいだろう。聞いた話では、バブル時代、各メーカーは儲かりまくった金を研究開発に注ぎこめたからだという。
かつては、直せないと乗れなかったが、品質が向上した結果、直せなくても乗れるようになった。その結果、直す人と乗る人の間には、深い溝ができてしまった。
現代社会のいたるところで見られる、生産現場と消費現場との乖離のひとつ、といってもいい。

たとえば、食の生産現場と消費現場との乖離。その結果、不必要なほどに進んだ野菜の規格化とか、食物のブランド化とか、あほらしい現象が発生。あたりまえだが、野菜の規格化は流通の効率化のためで、おいしくて安くて栄養いっぱいの野菜が欲しいのだったら、田舎の朝どり野菜に限るのだし、ブランドを味わうという高度な嗜好を持たない限り、そのへんのもので充分。産直とか、生産者表示とかの試みはいいが、生産現場から乖離した消費者をターゲットにしたブランド商法という側面も。

コンテンツの生産現場と消費現場も、乖離がはなはだしい。コンテンツの消費者、つまり、視聴者や読者は、マスコミといえば、ニュース現場に殺到する報道陣や、無神経にマイクをつきつけるレポーターなどをイメージして、その低俗ぶりに顔をしかめ、もっともらしい批判をするけど、消費があるからこその生産。消費が膨大であるからこそ、生産現場にマスコミが大発生して報道被害が起こるのでは。乖離しているからこその批判では。ブログが両者の溝を埋めるかのような期待も一時はあったが、消費者が消費者としての立場に安住した上での発言である限り、それは幻覚にすぎない。乖離の溝は埋まらないどころか、むしろその関係を固定させ、ますます乖離を悪化させてしまう予感すらある。

この乖離する世界をどう埋めていったらいいのだろう。田舎はますます過疎となり、若者は次々と都会に行き、都会はますます膨張し、職場と住居はいっそう切り離され、職場は効率化が進み、郊外ベットタウンには母子カプセルが点在し、地域とか家族とか、社会の構成要素は経済によってずたずたに切り刻まれ、結果、無力な個として分断化されてしまった、きわめて経済的に構築された、いびつな世界に住むぼくらは。

20世紀は、効率化を推し進めた先に人類の幸福があると信じて疑わなかった時代。社会構造を徹底的に分業化し、経済行為に置換できるものはどんどん置換してきた。その逆をいくのが、おそらく21世紀的。新しいもの、面白いものを生み出すには、あえて非効率にいってみる。ぜんぶを自分でやってみるとか、反対に、分業化しないでコラボしてみるとか。経済行為に置換されたものを、置換前に戻してみるとか。

消費者が「面白いから」「楽しいから」という理由だけで、見返りに報酬を求めることなく、さまざまな形態でコンテンツを生産し、発信する。その中から、新時代の面白いコンテンツが生み出される。生産者は、消費者とコラボしながら、商用のコンテンツを生産し、消費者に還元する。いずれのプロセスにおいても、インターネットは中核的なメディアとして機能するはず。

プロでなくても、面白いコンテンツを発信することは可能。その可能性を模索することは、じゅうぶんに面白いはず。サービスを一方的に享受することに慣れきってしまったヒトたち、つまり、クルマはプロまかせが安全・安心と考え、規格化された味も栄養も薄い野菜を脳で味わい、情報も感動も作りもののメディアを介して受け取り、味気なく効率的な日常を、頭からっぽで過ごすロボット的なヒトたちに、能動性は残されていないだろうけど、埋没することに納得できないヒトたちも、きっと大勢いるはずだ。

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