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市民と輩の狭間

既存メディアの、一般市民(一般ピープル略してパンピーともいう)の描き方には、2つのパターンがあるように思う。

パターン1:市民
なにか良いことに取り組んでいる。模範的な市民。なんらかの市民団体だったり、最近ではNPOが多い。なにか社会的なムーブメントとして描きたい場合には、団体のほうが都合がいい。誰か個人がやってるだけじゃ、ムーブメントにならないから。取材先である市民団体はネタ元でもあり、あまり悪くは書けないという事情もあるだろう。市民団体側としてもメディアを味方につけれるメリットがあるし。まあ、行政との関係とかと一緒ですね。影響力の強いメディアが批判的に書けば、小さな市民団体などはつぶれかねないという事情は考慮しなければならないと思うけど、善人だらけの市民社会なんて非現実的だし、どうも気味が悪い。リアルを描けてない。

パターン2:輩
ネットの闇みたいなテーマを描くときに登場するパンピー像は、得体の知れない輩=個人。たいてい、サンプルとして仮名で個人が出て、けっこーモラル的にヤバいことを平然と言ってのけたりとか。そりゃまあわかるけど。匿名になった途端にこの扱いはないだろとも思う。ネットが典型だと思うけど、オーガナイズされていない、よくわかんない輩ってゆーか、ばらばらな個人の烏合の群れみたいなものをネガティブに描く傾向ってあるよね。そうかなあ。これもまた市民。

で、たぶん、既存メディアがくっきりと描き分けるこの2つの市民像の中間に、リアルな市民というのが存在してるんじゃないかと思う。

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