« 二番煎じ | メイン | いかに削るか »

取材という罪深き行為に対する後ろめたさ

取材という罪深き行為に対する後ろめたさ、について考えてみる。

視線にも重力の法則があって、水と同じように上から下へと流れる。」ことに対する自覚の念が、まず必要。ほっとくと取材者は上限なしの傲慢野郎になってしまうので、常に自戒をしなければ。

そして、取材という行為には宿命的に、取材者の主観がともなう。あるがままの世界から、取材者が興味を持ったアイテムだけを抽出し、それを再構成することによって、取材が初めて意味を成す。世界を再構築し、必要なものと不要なものを振り分けるという、神をも恐れぬ不遜なことをするのだ。

ほんとうは、あるがままの現実がすべての源泉であり、取材対象があるからこその取材者であり、取材とは泥棒猫みたいな行為にすぎない。プロの新聞記者だろうがアマのブロガーだろうが、やってることは何も変わらない。

後ろめたい気持ちを、忘れないようにしたい。

トラックバック

この一覧は、次のエントリーを参照しています: 取材という罪深き行為に対する後ろめたさ:

» 懇切丁寧なニュース報道 送信元 街中の案山子
夕飯の準備中、テレビのニュースが懇切丁寧に「長男」の親との関係、学校での様子、本人が何に不満を感じていたかと、よどみなく伝えている。伝えられていないのは名前だけ... [詳しくはこちら]

Powered by
Movable Type 3.33-ja

track feed