インターネットが情報の送受信ツールとして優れている点はいろいろとある。
旅情報を例にとってみる。「夏に楽しむ蒸気機関車の旅」でも「総力特集・夏の花火」でもいい。今日コンビニでそんな感じの雑誌特集やムックを見た。パラパラめくって楽しむには、雑誌やムックがいい。場所を選ばないし、印刷はきれいだし、情報はよく整理されている。一方、同じ特集をネットコンテンツで組んだ場合はどうか。本文の文字数等がないので、必要なだけのコンテンツで構成できるし、リンクで他サイトの情報ソースも参照できる。また、複数の筆者で構成したり、読者からのコメントもリアルタイムで反映したりも可能だ。つまり、雑誌やムックに比べてより広く、より深いコンテンツを作ることができる。だからインターネットは面白い。
…と思うのだけど、ブログをはじめ、現実にネットにあふれているコンテンツはどうか。「一億総評論家時代」という一昔前のワードを地で行くような、意見表明のオンパレードには、正直言って、げんなりする。もっと意見表明が精選されていればいいのだけど、玉石混交な上に、ものすごい数の意見表明がネット上にあふれている。ギブアップ。
おそらくそのひとつに、ジャーナリズムへの誤解がある。ジャーナリズムとは意見するもの、という見方は間違いではないけど、独自に取材を積み重ねた上での意見であって、現地に足も運ばす、新聞やラジオの二次情報だけに依って、何か気の利いたことを言うのは少なくともジャーナリズムではない。頭の回転が早い人の脳内消費にすぎない。また、ワイドショーのスタジオコメンテーターは何らかの肩書きを持っているので、「だれそれがこんなことを言った」という「だれそれ」に、意見を発する前から意味が与えられている。一般人が、二次情報だけに依って、何か気の利いたことを書いたとしても、そのほとんどは無意味。知り合いだったら「あいつがこんなことを言ってる」という意味はあるだろうが。また、誰が書いたかはどうでもいいからあちこちの書き込みをまとめて、「一般人はこう思っている」と分析できれば意味があるだろうが。ただし、一般人でもものすごく気の利いたことを書けるひとは別格。こういうひとはいずれ頭角を現すのだから。でもそれはかなりの確率で、これを読んでいるあなたではない。
話を戻す。
ブログなどで書かれている内容の多くは、お店や商品、映画やニュースの評など、消費者としての意見。ぼくも書いているからあまり人のことを言えないかもしれないけど。100%消費者としてのスタンス、「消費者は神様」的な考え方、またそれを疑いもしない(らしい)態度などは、結局のところ、生産者と消費者をより遠ざけてしまうだけに終わってしまうのではないかという危惧も感じる。
見方を変えよう。ブロガーの多くは時間にある程度の余裕があるが、その時間の余裕を自分の空間の中で消費している人たちだろう。また、その消費の目的は、他者に自分をより高く認めてもらいたいという欲求だろう。いわば自己実現的なモチベーションであるが、自己実現というのは、理想の社会を実現するのではなく理想の自分を実現するのであるから、いたって内向きな欲求である。つながること、生み出すことを志向しているのではなく、それを装いつつも、きわめて自己完結的な欲求である。そうした欲求を充足させるために自分の時間を消費しているという意味で、生産ではなく、やはり消費だといえる。
ぼくはこれまで、つながること、生み出すことを志向してきた。コンテンツも、誰もが日常の範囲内で発信できることに重点を置いてきた。誰もがコンテンツホルダーであり、豊かなコンテンツ社会を築く一員であり、それが多様性に富んだ次世代の市民社会を築く重要なファクターになると考えたからだ。しかし、現在のところ、その努力は徒労に終わっている。ブログという、情報発信の強力なツールを得ながらも、多くは生産よりも消費を好み、社会に無意味なコンテンツを発し続けている。
そのいっぽうで、一般市民でありながらも、クリエイティブなコンテンツを生産する人たちも多く出現してきた。いわゆる「プロ顔負け」ってやつである。彼らはおそらく、業界的なぬるま湯とは無縁に、スタンドアローンでこのコンテンツの海に立っている。ぼくも、負けてはいられない。
というわけで、そろそろ方針転換をしようと思う。一次情報にあくまでこだわり、そこで得たものを、ぼくならではの、オリジナルなコンテンツとして、発信していきたい。つながることに希望を捨ててはいないけど、まず「つながり」ありきではなく、まず足元をしっかりと見つめて、そこから始めていきたい。