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旬を追うことの虚しさ

以前にも似たようなことを書いたかもしれないけど。

今が旬、というのは、もともとギョーカイ用語だったんじゃないかって気がするけど(未検証)、いまではいろんなとこでいろんな人が使うようになっている。
旬のネタが成立するためには、ベースとなる情報や価値観を共有している必要がある。つまり、同一化や均質化が前提。そのうえで、「いまの話題といったらこれだよね」と同感できないと旬は成立しない。ムラの噂話と同じだ。旬のネタには、一種の踏み絵としての機能もある。このネタがわかんなきゃダメだよねーみたいな。当然ながら旬とはドメスティックなものであり、グローバルなものではない。考えるほどに、旬とは内向きなものだ。

また、旬のネタにはライバルが多い。みんなが同じ方向を向いているので、当たればでかい。一発当てようとする人たちが息せき切って群がる。ワイドショーの現場のようなものだ。報道被害も起きやすい。また、競争率では、当たる確率は低いので、おいしいネタとはいえない。

それに、旬が成立するのは、当然ながら今だけ。生鮮食品なみに賞味期限は短い。賞味期限を過ぎれば、価値ゼロとまではいかないが、価値は著しく落ちる。その繰り返しは、虚しい。

いろいろ書いたが、そもそも、芸がない。誰もが同じ方向を向いてて、同じものを見てる。そこに向かっていく大群の中にまぎれてしまうのは、あまりに安易で、何も考えてない。ぼくはだから、旬はなるべく追わない。変わらないものの中にも、伝えるべきことがある。ムラの中に、ではない。ムラの外に。そこではオンリーワンになれるというメリットもある。というか、オンリーワンにならなきゃ、取材者として意味がない。

ところでブログ。ブラウザ上で簡単に書けるし、コメントやトラックバックもつけられる、というのがウリだが、これはいずれも、ふつうのhtmlサイトでも可能なこと。それを簡単にして、スピードアップしたシステム。簡単にしたことで、発信者が増えた。発信量も増えた。それはいい。一方、スピードアップしたことで、リアルタイム性、つまり、旬を追う傾向が生まれた。ぼくらの同質性があらわになった。同じネタに同じように反応した大量のエントリーが生まれ、その直後にネタとしての鮮度を落としていく。その繰り返し。もしそうだとすれば、たんに馬脚を現しただけで終わってしまう。

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