「個人発信のコンテンツはどうあるべきか」が、ぼくにとってかなり以前からの課題だったし、最近の悩みでもあったんですが、先に結論。
「パブリッシュされるものである限り、個人発信といえどもパブリックなものであり、かなりの部分、既存メディアのコンテンツ発信ルールが適用されなければならない。」
…とまあ、当たり前なこと。ごくごく、ふつーにやりましょうってこと。
もともとは、違うことを考えていた。
「プライベートとパブリックの中間、いわばグレーゾーンに、個人発信のコンテンツ(とくにネットコンテンツ)は位置する。」
…と、考えてきました。そして、プライベートの領域がどんどん拡大していく。プライベートに見聞きしたことが、するっと、リアルからバーチャルに、ボーダレスにアップされ公開されていく。個人体験が共有されていく。プライバシーがだんだん薄くなっていく。インターネットはそうして、豊かなコンテンツの海になっていく…。
ぼくはそう考えていました。いま流行のweb2.0なんかも、そんなトレンド上にあるような気もするから、完全に見込み違いだったとは、今でも思っていません。そんな考えのもと、特ダネ掲示板をやっていたし、その延長上に取材屋.comもあった。
でも、一般的なひとびとのリテラシーが思ったより低いことが、爆発的なブログブームのなかで次第に明らかになってきたような気がします。それが最大の理由か。ぼくが言うところの、「無責任な消費者」という代物。いや、ぼく自身の無責任さもあったのだろう。反省しなければいけないと思っています。
インターネットに公開してるからって、世界中の人間が見るわけじゃない。データを閲覧可能な場所にただ置いてるだけ。チラシと一緒。だからいいじゃん。そう思ってました。いや、じっさいのところ、大半はそれで済むんです。ほとんど人目につかないのだ、どうせ。
なのだけど、みんながみんな、そう思って、わりかし無神経に、いろんなデータをいろんなとこに置いてる状況は、どうもよろしくない。インターネットは、テレビなどと違って、それぞれを見に来る絶対数は、ほとんどの場合が少ないのだけど、一方で、ある日いきなり、どえらい大勢の人たちが見に来る可能性も、ゼロじゃない(←いわゆる「祭り」状態)。物理的には可能。自宅サーバーとか、物理的にプアな環境に置いたのなら別だけど。
たとえば、ふと思い立って誰かの悪口を実名で書く。それが、全世界中とまではいかないにしても、日本中に読まれたらどうなるか、という、そこまで責任を持ってコンテンツ発信をしてるか。
してないよね。ネットだもん。
自分が良かれと思って書いたことでも、人の迷惑になることもあります。とある行きつけのお店を紹介する記事を書き、結果的に、お店が困ることもあるんです。
「会社に訊ねてきた取引先の人に、社名を出して社内の様子をブログに書かれた。誉めていたけれど、なぜかいい気持ちがしなかった」(35歳・女性会社員)?AREA 2005.5.2-9より
…この「なぜか」というのが、すごく引っかかっていました。
それと同時期。愛知万博をネタに書いてる個人ブログで、気になることが。こことかここには書いたんだけど、店員の顔は出しても、自分がわの顔は塗りつぶした写真を平気で載せてること。旅行日記系の個人サイトでは、ブログに限らず、これに類したことはよくあって、見るたびにイヤな気分になる。
撮られるほうは、たんなる記念写真に応じてるつもりだろう。ネットで公開することまでは伝えてないだろうし、伝えたら拒否される可能性もある。どうせ誰も見に来ないからと考えているんだったら自分の顔も出すだろうから、顔を隠すということは、プライバシーという言葉の意味が理解できてて、ネットに公開する=パブリッシュという認識だということでしょう。なのに店員の顔だけ平気で出すのは、…おそらく、無責任な消費者として店員と接しているから?一見の客だから?
万博で市民記者やってた知り合いが、
最初は一般市民の顔をして話を聞いて、記事にしたいなと思ったところで名刺を出して、「実は市民記者をやっています」…とやっています。たいていの方はその瞬間、態度が硬くなりますね。
というようなことを言ってましたが、いろいろ考えた挙句としては、
態度が硬くなるのは致し方ない。パブリッシュすると決めたところで身分を明かすのはまったく正しい。それが取材相手に対する必要なマナーであり礼儀であり、それをしないのは姑息で反則。
…ということになります。ただ一方で、こうした個人的な体験記となった場合、「ここのお店で感じたことをパブリッシュしてもいいですか」と了解を求めるのもなんだか変だし、お店の人の返答如何でパブリッシュしたりしなかったりするのもまた、媚びてるというか是是非非の原則に反してるというか、そんなことしてたら「ちょうちん記事」ばかりになってしまうのでむしろ反対したい、「ちょうちん記事」なら金をくれ、みたいな話になる。
たぶん、相手に無断でパブリッシュしていいかどうかについては、このように、ケースバイケースで判断していかなければならないことになると思う。とてもめんどくさいことだけど、避けては通れない。ちなみに前出の店の件の場合、内容的にはいろいろ気をつかって書いてはいる。写真も一切撮ってない。
つまりは、書く立場、伝える立場としては、こちらにR30氏のコトバを引用しましたが、そういうことです。誰かの発言内容をパブリッシュすることで、発言主にダメージを与える可能性があるとすれば、そういう可能性に対する責任も持ってパブリッシュする。発信責任というのは、そういうことです。既存メディアの人間なら、その言葉の重みはわかっているはず。
「胃に穴の1つや2つ開かなきゃ、一人前のプロデューサーじゃない」なんて、若い頃に聞かされました。これはテレビの話。ぼくはプロデューサーじゃないし、胃に穴は開いてないけど、開きかけたことはあります。若かりし頃、取材のストレスで。結果的に、取材協力者を批判する内容だったから。ホテルのシングルルームで、深夜、激痛に冷や汗を流してました。とまあそんな話はやめといて、取材をするというのは本来、そういうことまで引き受けなければいけないこと。そこから逃れるのは無責任。
そうとしか、ぼくには考えられません、結局のところ。
ずっと追求してきた「リアル」の実現は、その大前提をふまえた上で、「誠意」という、最もベタなところで、求めていかなくちゃいけないものではないだろうかと、ほんとに当たり前な結論に達しました。
いくら機材が安くコンパクトになり、インターネットの時代、誰でも簡単にコンテンツを作って発信できるようになったとしても、根っこの部分は変わらない。豊かな発想、丁寧なリサーチ、誠意ある取材。
つきつめれば、人と人との関係。常に原点を忘れずにいたいと思います。