『ブログキャスター』という雑誌を本屋で見つけたときは、「おっ」と思った。
手にとって、ぱらぱらと読んでみた。
…つまらない。
素直にそう思ったけど、ネタに購入。家に帰って、もういっかい読んでみることにする。印象が変わるかもしれないし。
で、家で読んでみた。
…やっぱ、つまらない。
正確にいうと、読んでない。見出しは読んだし、気になった記事はさらっと流し読みをしたけど、何が書いてあるか理解する程度までは読んでない。
だって読む気にならないんだもん。
なんで読む気にならないんだろう。考えた。
えっと、文末がダメ。謳いあげてる。下手な社説がずらずらと並んでる感じがする。
うーん。このつまらなさは、深刻だなあ。
例えていえば魚。水の中で生き生き泳いでた魚が、水揚げしたとたんに干からびてしまったような。
あるいは陽射し。日陰で何やら面白いことやってたのが、さんさんと降り注ぐ陽射しのもとにさらされた途端、陰影が消えて、凡庸でのっぺりした漬物石にでもなってしまったような。
「ハレ」と「ケ」?
もうちょっと具体的に考えてみる。
まず、書く側の問題。この雑誌、ブロガーの書き下ろしを基本線にしているのだけど、印刷媒体への書き下ろしということだからか、なんか文章に力が入りすぎている気がする。それは、文末の「謳いあげ感」にもあらわれていると思う。技術の問題ではなくて、意識の問題だろう。
次に、作る側(編集サイド)の問題。表紙には「ブロガー・市民記者が書く雑誌です」と高らかに謳いあげている。まえがきやあとがきを読んでも、相当、気合が入っていることが読み取れる。そうか。書き手の「謳いあげ感」は、編集サイドが発信源だったのかな。「市民記者」というワードを持ち出してくるあたり、かなり「ふるってる」と思う。
ブログというのはたぶん、たんなるツールにすぎないのだけど、個人発信の敷居を低くするという側面のインパクトが強いゆえに、一種の文化にもなっていて、それがこういう気合の源でもあるかもしれないが、無名人・有名人を問わず、敷居の低さがもたらす「ナマ」感が魅力なのだろう。その魅力を誌面に表現できているとは思えない。むしろ、「ナマ」感が抜けてしまっている。これは編集サイドの技術の問題なのか、それとも、メディアの問題なのかはよくわからない。後者でないことを願う。
そして、読む側の問題。金を出して買うからには、見返りを求めている。ふつうの媒体のように有名人で釣れるわけではないから、中身が欲しい。書いてるひとがブロガーでも市民記者でも誰でもいい。情報性はどうだ…残念。思わず唸る視点とか意見とかはどうだ…残念。少なくとも、ふつうの媒体を上回っているとは、感じられない。
ここでいう市民記者、というのは、市民的感覚を持った職業的記者、のことではないよね多分。「ふつうの一般人でありながら記事を書く人」という意味だろう。これに、真鍋かをりとかの有名人ブロガーも加えて、「ブロガー」と総称しているのだと思う。
市民記者=無名人ブロガーに話を絞ってみると、その価値はたぶん、2通り。
(1)ある話題に関して、業界人なり関係者なりが書くインサイダー情報。
(2)業界人でも関係者でもないし何の情報も持ってないけど市井の率直な感想を綴ったりする。
記事単体で価値があるのは(1)。ブログ発の魅力的な媒体を作るには、こちらを軸にするしかない。
いっぽう、ブログの大半は(2)。記事単体で価値があるブログも、まれにあるけど、多くは、世論を読む的な価値ということだろう。
たぶん編集サイドもそのへんはわかっていると思うから、言わずもがな、なのだろうけど。
でも。インサイダー情報を持った「売れるブログ」はブログのごく一部。考えていくと、ふつうの取材で探し当てた人に執筆依頼をするのと、あんまり変わらないんじゃないかという気もしてくる。狙い撃ちをすればするほど、いわゆる「ブロガー」とはズレていく。
いっぽうで、ブログの面白さの大半は、ブロガー単体ではなく、そのつながりというかコミュニケーションというか、関係性に起因していると思うんだけど。それって既存の媒体で構成できるのかなあ。
PS.
『ブログキャスター』 編集部日記の、
「では、今日はこのへんで。」
って、くどいよ絶対。