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近所のおばちゃんのウワサ話を信じますか?

先日、とある方から、マスメディアで頻発するねつ造やヤラセについて、現場の声を聞かせてほしいというリクエストがあり、会ってお話をさせていただきました。その後、ぼくなりに考えたこともあるので、それを書きます。ただ、とくに目新しいことはなく、これまでにweb上に書いて公開してきたものの中に、似たようなことを書いているはずです。

駅に置いてある観光パンフレットの写真。各地の観光地の、美しい写真。あれ、まるごとそのまんま信じますか。ガイドブックに載っている情報、ぜんぶそのまんま額面通りに信じますか。

「こないだテレビの旅番組で紹介してたとこに行ったんだけど、もうがっかり。テレビで見るのと実際に行くのとでは大違い」…これ、そんなに珍しいことじゃないですよね。あるいはその手の番組でありがちの、偶然を装った出会いや発見。さすがにそのまんま信じる人、まさかいないですよね。

それは演出です。許される範囲内での演出、ですよね?
「たまたま偶然出会った地元の人に教えてもらったかのような内容であったが、実際には事前に打ち合わせをした、シナリオ通りのお芝居だった。視聴者をあざむくねつ造であり、ヤラセである。許せない」
と、まさか目くじらをたてて怒りはしないですよね。

*おことわり:ほんとに偶然に出会ったり発見したりすることも、もちろんあるでしょう。あるいは、事前に入念なリサーチなりをしときつつ、あとはぶっつけ本番、ということも、あるかもしれません。「ぜんぶうそっぱちだい!」と言うつもりは、毛頭ありませんので念のため。

メディアのコンテンツというのは、見られてナンボのものですから、構成や演出を工夫します。当然です。テレビだろうが雑誌だろうがチラシだろうが。ありのままの事実を伝えているわけではありません。事実の歪曲?違います。だいたい「ありのままの事実」って何ですか。あなたが見たままの事実がありのままだとしても、それを人に伝えるときに、ありのままの事実を伝えられますか。あなたが見た事実、主観的な事実を伝えてますよね。メディアの伝える事実とはそういうもの。日々のストレートニュースでさえ、ポイントを整理したり編集したりといった作業を経ているので、ありのままの事実を伝えているわけではありません(ほとんど大学時代に受けたマスメディア論の講義に戻ってしまうので、この先パス)。

仮に、ありのままの事実を伝えられるとしましょう。それはたぶん、固定されたお天気カメラかライブカメラのような映像でしょう。据えつけられたカメラが、ただ淡々と現場の様子を映し出すだけ。たしかに演出なしの、ありのままの事実。でも、そんなコンテンツ、誰も期待していないでしょう。つまり、メディアのコンテンツに構成や演出が加えられていることはすでにお約束。

おおざっぱな話、「おもしろおかしく」です。井戸端会議をリードする、近所のウワサ好きなおばちゃん。それがまさにメディアです。ちょっと大げさに脚色演出した、近所の誰それさんの噂話。それがオーバーと知りつつも、ついつい引き込まれて聞き入ってしまう。そこに事実を淡々と語る沈着冷静なおじさんがあらわれたら、どうなるでしょうか。誰もそんな話を期待してない。退屈で苦痛で、みんなその場を退散してしまうのではないでしょうか。

つまり、メディアの構成や演出は、受け手との関係性があってはじめて成立する、相対的なものです。情報の受け手の了解があればこそ成立するもの。オーバーな話をそのまんま信じてしまったら大騒ぎ。多少は色がついてるんだろうなと内心思いながらも、それを許容することで、面白おかしい、ご近所のウワサ話は成立する。受け手側も共犯関係にあるわけです。

だからといって、何でも喋っていいわけじゃないのはもちろんのこと。いくらウワサ好きなオバチャンだからといって、根も葉もない作り話をべらべら喋るのは、舌が滑りすぎ。

過剰な演出がいいとは思っていません。むしろぼくは、コンテンツにリアリティを求めていて、それをコンセプトに掲げている"素材主義者"を標榜しています。うまい刺身と同じで、ネタが良ければ、小細工なんて不要です。ですが、いつでもどこでも、常にうまい刺身ばかりを求めるのって、ちょっとぜいたくすぎ。「一切の演出なしで楽しめる、面白いネタを寄こせ」というのは、視聴者として消費者として、虫がよすぎ。身の回りを見渡しても、世の中そんなにエキサイティングじゃないのに、テレビの中だけエキサイティングなわけないし。

まあ、多くの方は、そこまでメディアに期待してなくて、あくまでクールに、「またまた、そんなこと言っちゃって」と、寛大に楽しんでいただいているとは思いますが。メディアに多くを期待しすぎなのは、メディア依存症、つまり、主体的な判断をメディアに委ねてしまっている一部の方々なのでしょう。そうした健全なあり方を期待したいものだし、メディアリテラシーが目指しているのもそういうことのはず。

ところで、一家団欒、お茶の間の主役にテレビがでんと居座っているのは、ぼくら日本人にとっては当たり前ですが、ほかの国ではかなりレア、異常な状態らしい。知り合いのホームステイ先(アメリカ)にはテレビはなく、食事中も食事後も、ただただ家族団らんのみだったとか。テレビモニタに代わってリビングのソファの向こうにあるのはパソコンの17インチモニタで、たまにDVDでみんなで映画を見てたらしい。

ぼくらは、みんなで同じ方向を見て、同じ情報を共有する(=旬の話題というやつですか)のがデフォルトだと思い込んでるかもしれないけど、果たしてそうか。たんなるテレビ中毒、旬中毒ではないのだろうか。もうちょっと距離を置いて、突き放してみたほうがいいんじゃないのか。そんなギモンも浮かびます。

ときに過剰すぎる演出、というのは、なにも"マス"メディアに限る特性ではなく、メディアならどこででもありうる特性。意図するかしないかは別として。だから、ブログとか2ちゃんとか、個人発信メディアもそれと無縁ではないはず。それは常に、組織だろうが個人だろうが、ダメなものはダメってことで、みずから律していくべきことだと思っています。

ねつ造(でっちあげ)やヤラセ(作り話)は、エンターティメントとしてはアリですが、やってはいけない時と場合もあります。とりわけ、報道という、ひとびとが事実を求めるジャンルにおいては、絶対にやってはいけないのは、いわずもがな。また、情報バラエティなどのビミョーなジャンルにおいては、情報の受け手との関係性を鑑みて、娯楽番組として皆様に楽しんでいただきつつも、誤解を与えない範囲の演出にとどめるべき。

過剰な演出の行き着く先としてのねつ造やヤラセを、視聴率至上主義のせいだとかにしてしまうのは短絡。わかりやすくはあるけども、それこそ、おもしろおかしい話に持っていってしまっていることに。「情報の送り手としても受け手としても、メディアというのはえてしてそういうものだと自覚しないと、決して他人事では済まない」というのが、昨今の(っていうか、前からあるけどね)ねつ造やヤラセについての、ぼくなりの考えであります。おしまい。

PS.取材される立場って、不安でどきどきなんですね。ひるがえってみると、ぼくがこれまで取材してきた方々も、こんなように不安でどきどきだったのでしょう。それだけでも、取材を受けた甲斐はあったかもしれません。取材される立場に立った、誠意ある取材を一層心がけていきたいと思います(←ちょっと公式コメントすぎる?)。by2005年9月30日(金) 09時09分

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