退屈なネット社会を語ってみたりする。
東日本大震災以来、ぼくはインターネット上の言論空間、とりわけ、いわゆるSNSから距離を置いている。かりにシステムがよくできていても、実態としては、かなり無意味で、不毛と感じたから。
いまとなっては、こんなこと、言わずもがなだが、多くのユーザーは、自分の見たいものだけを、見たいように見ているだけなので、実質的には、引きこもりの一人部屋のような閉鎖的空間にコトバや思考がループしているような状態となっている。SNSの言論空間は、異物同士が摩擦してできるような、発展的な生産性に乏しい。初期のインターネット空間の「わくわく」感に比べて、ひらべったく、退屈だ。
という認識を書いたあとに、中川淳一郎氏が語ったというインタビュー記事から抜粋。
右も左も、自分の主張を通すためにはデマを流してもかまわないと考える愚民が蔓延(はびこ)っています。http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/
「ほんとうのこと」など、どうでもいい、と思っているから、こういうことがネット上では常態化する。自分自身の、ガチでリアルな日々の暮らしに直結することだったら、ほんとうのことなんかどうでもいい、とはならない。
例えば謝罪会見を見た人が「お辞儀の仕方がよかった」とか「仏頂面で反省が見られない」とかネットにコメントするわけでしょう。今や謝罪会見は「競技」となって、それをみんなで「審査」している状態です。http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/2
つまりは、自分に直接関係のない、いわば対岸の火事の見物客。どうでもいいこと。一日、いや、数時間もすれば忘れてしまうような、時間つぶしのネタ。
視聴者参加型の、テレビのバラエティ番組。ネットにあふれる情報なんて、そんなもんかな。で、それに参加してるユーザーというのは、単に、通勤電車の暇つぶしでやってるだけ、だったらいいけど、たぶん、多くのユーザーはそれよりものめりこんでいるはず。刹那な自己実現にハマって、現実から遊離しているはず。
現実から遊離した状態で、生きていられるということは、豊かな証左。それはよかったですね、という、しょうもない話で終わります。
2017-01-07 11:12追記。
そうしたインターネット上の言論空間を支えているもの。
いくつかの具体例を書きかけて、やめた。
つまりは、リアルではまともな社会生活を送っている、会社やら地域やら家族やらの所属集団では一定の安定的な地位にある、いたってまともな人たちが、その所属集団外では、他人の痛みをまったく無視したような、傍若無人言語道断な言動に出るケースを、いくつも経験してきた。
少なくとも日本では、年長者を無条件で絶対視する文化、社会規範が、いつからかはともかくとして、現存している。それは、既存社会の秩序や価値観が無条件で肯定されていることを意味していると思う。日本社会で生まれ育つ、多くの人々は、おそらくそうした、ある種の絶対性を是認、容認している。所属集団においても、そうした規範に従順にふるまうし、集団外でのふるまいにも、そうした規範が適用される。
「部長」は、ネット社会に出ても、「部長」的にふるまう。とりわけ安定した社会的地位にある人はとくに、所属集団を離れても、相対的にではなく、絶対的にふるまう。
つまり、いまのネット空間を支えているのは、本質的に保守的な現実社会だ。たとえそれが幻想であったとしても、磐石な現実社会、磐石な日本社会があるからこそ、人々は、声高に主張し、評論し、こきおろす。
一介のフリーランスである僕には、確たる社会的地位が存在しないので、なかなかそんなふるまいはできない。