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2009年08月 アーカイブ

2009年08月03日

浮気な集客ツール便乗の危険

映画のロケが各地で宣伝に利用されるようになって久しい。
いや、最初からそういうものだったかもしれず久しいかどうかはっきりわからないけど。
なになにという映画がどこそこで撮影されました、という謳い文句で集客する。映画という集客ツールに便乗しているわけだが、しかしただ映画が撮影されたというだけで客が呼べるというのはどんなもんか。映画は宣伝道具に成り下がってしまったのかと、まあ映画ファンでも何でもないんだけど。

映画に限らない。テレビでもそうだ。ドラマに限らず、テレビが取材に来ました的な宣伝文句で集客をはかろうとしたりする。

「飛んで火に入るNHK」…これは実際に目にしたフレーズ。

でもそれでほんとにいいんですかね。テレビにしろ映画にしろ宣伝メディアとして利用しうるし、箔付けにも利用しうるんだけど、それでやってくる客って多くは不特定多数、浮気な浮動票。そこから固定票をつかむ糸口にするという考えがあるにしても、いつしかそれを忘れ、いっときの集客にうつつを抜かし、気がついたら何も残らない、ってことになりませんか。

2009年08月30日

ネット既得権(的なもの)

インターネットは「オンデマンド」と「多様性」が最大の魅力だと思っている。既存メディア…といってもいろいろだけど、少なくともぼくがもっぱら働いているテレビメディアとはまったく異なるし、だからこそ面白い。テレビはピラミッド構造のいわば「△」、対するネットは頂点も底辺も存在しない、等価値のいわば「○」だと思っている。

世界には中心や頂点がある、という考えは、古いものだと思っている。たとえば東京と地方。これまでの価値観であれば東京が中心だったけど、かつて長渕剛が「とんぼ」で歌ったような「花の都、大東京」というイメージは、若い子を中心に薄れつつある。「ビッグになる→上京する」なんて馬鹿らしい、自分が生まれ育ったこの地元で夢を実現していこうよというのがこれからの主流の価値観になるだろうと思う。

たとえばステイタスとしてのクルマ。かつてクルマは豊かさのシンボルで、「いつかはクラウン」的な価値観が存在した。ぼくが免許をとった20年前は、貧乏な若者はミラージュやファミリアをまず手に入れて…みたいな構図があった。路上は一見平等に見えながら、実際には高級車が威張り、軽があしらわれるといったヒエラルキーが存在した。でも、いまの若い子は、そんな象徴としてのクルマの薄っぺらさに気がついてしまったのだろう、クルマ離れは止まらない。

かくして世界はフラット化していく。

が、フラットであるはずのネットに、山や谷を造成しようとする、あるいは造成したいと願う人々がどうやら存在するらしい。彼らの目標もしくはライバルは、既存メディアとくにテレビであるようだ。いずれはテレビにとってかわる存在になりたいらしい。テレビというピラミッドの最底辺(…よく言えば登竜門?)として位置づけられたいのか、もしくは今のテレビの一機能をそのまま置換したいのか。

たとえば、Twitterはインターネットらしいサービスでありながら、ライブ性をその特徴とする。それが多様にバラけているぶんにはいいのだが、じっさいには、ごく一部の「ネット有名人」にフォローが偏重している。そして、あたかも中心と頂点が存在することを前提としているかのような発言が散見されるような気がする。あくまで気がする、という程度で、具体的な指摘はできないのだが。そしてそれは、すでに「できあがった」、ブログ「村」的なコミュニティの構造をさらに固定化しているような、気がする。

あたかもそれは、市の指定業者が年を経るごとに癒着度合いを強め、新規参入の壁となるという、なんとも自民的な構造を想起させてイヤらしく感じる。

フラットでいいじゃん、とぼくは思うのだけど。

でもきっと、誰もがそれを意識的にやっているわけではなく、無意識のうちに、いわば集合知?的なものとして生まれ育ったものだろうと思う。みんなが熟成した気分、というべきか。たかが気分、されど気分。気分に抗うことは難しい。気分の正体もよくわからないし。でも、違和感があればそれを表明しておきたいと思った次第にて。

(これは特定の個人を指した言説ではまったくありませんので、決して誤解なさらないように。ぼくはトレンド的なことを指摘したいだけで、他意はありません)

※さて今日は衆院選の投票日。どうなることやら。

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