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2012年03月 アーカイブ

2012年03月13日

データとイメージ。

原発事故による放射能汚染に関して。

岩手・宮城のがれき受け入れは基本的には問題ないと思う。
もちろん放射線測定はやった上でのことだけど。

科学的知見に立てば、それ以外の考えにたどり着くことはないと思うのだが、反対している人がいるらしい。

それが理解できないから、考えた。

彼らが依拠するのはデータではない。イメージだ。放射能汚染という、イメージだ。
放射能という、五感で感じることができないものに対しては、あくまでもデータで対峙するしかないと思うのだけど、彼らはどうもそう思わないらしい。
「けがらわしいもの」というイメージで、程度、濃淡の区別なく、ばっさり斬り捨てる。
それはたぶん、これまでずっとイメージで生きてきたからではないか。
「キレイキレイで手を洗えばバイ菌もすっきり!」的なイメージで、ものの価値判断、行動基準を決めてきたからではないか。
…つまりは広告の言うなり、メディアの言うなりだ。

よく「子どものために」というけど、子どものためを思うなら、広告やメディアの言うなりではなく、自分で考えることを教え諭すべきではないか。

自分たちを反面教師に。

(これまでを「国家とエリート」の時代とすれば、原発はそのロジックの中で産み落とされたものであり、これからを「地方と非エリート」の時代とすれば、原発は同然否定されなければならず、同時に、自らが考え、リスクを引き受け、行動していかなければいけない。判断を人まかせにしたり、企業が営利追求目的で作り上げたイメージにふわんと乗っかって調子こいてるようでは生き残っていけないんじゃないかなあ…)

あと気になるのは世論調査で多い「どちらともいえない」の回答。たぶん日本のマジョリティはこの「どちらともいえない」層だ。彼らは場合によって、声高な少数派、賛成側になびくかと思ったら次は反対側になびく。「空気」という、得体の知れぬものによってふらふらと動き、それによって大勢が動く。

主体性がないくせに、「ああいう意見もあれば、こういう意見もあるよね」的な視野の広さ・懐の深さ(?)をしたり顔でアピールしたりして。自分では何も決めず、ただの日和見で、リスクをみずから拾うのが恐いくせに、賢者のふりをする。

そうして歴史は繰り返されるのか。

2012年03月14日

指導者たちへの罵声について。

この国の指導者たちはひどい罵声を浴びせられ続けている。
いったいいつからこんなことになったんだろう。

彼らが罵声を張り上げるには、一定の条件がある。
自分に賛同してくれる人が大勢いる。少なくともそう思える状況下でしか、彼らは罵声を上げない。

それは「炎上」に似ている。
炎上のパターンはこうだ。まずは風向きのはっきりしない複数の書き込みがある。と、そこに1つの強い声が書き込まれる。するとそれに触発されるように、たてつづけにその声に同調する書き込みがされる。これで風向きが決まる。あとは面白がって参戦する便乗組も加わって、一方向に非難する書き込みが大量になされる。
ようは、声高なのはごく一部なのだけど、多くの「どちらでもない」層がそれら強い声に引っぱられるようにして、一瞬、一方向になびくのだ。
この「どちらでもない」層、たいていは事態を静観しているだけの、変化を好まない中間層が非常に厚いボリュームを形成しているのが日本社会の特質ではないかと勝手に考えているのだけど、そういうことを研究している社会学者とかはいるのかな?

ぼくも罵声を浴びたことがある。それはとある趣味のMLだった。ひどい罵声に、彼らはいったい何故こんなに僕を一方的にこき下ろすのだろう、その根拠は何だろうと考えたのだった。たどりついた仮説としては、彼らMLのコアメンバーはオフ会でも互いに顔なじみの面々であり、オフラインの場で、「あいつ生意気で気にいらねえ」という話ですでにまとまっていた、のではないかと思う。ぼくはオフ会にまったく出ないし、コミュニケーションよりも情報共有って派だったから、そういう話になっていても不思議ではない。とにかくそこでぼくが学んだのは、「自分への賛同票が多数と見込んだら彼らは口汚く人を罵倒する」ということだった。
いい人生勉強になった。

しかしそれはいったい正しい態度だろうか。

これは「いじめ」の構図とおなじ、卑怯な態度なのだから、たとえ仮に言っていることが正しかったとしても、そういう態度を人に対してとるべきじゃないと思う。
少なくとも、子どもたちの模範となるような行為とはいえない。

だから、指導者たちにひどい罵声を浴びせる行為はつつしみましょう。

2012年03月25日

小江戸川越だとか。

川越の観光用の通りには、観光客がうじゃうじゃ歩いている。あの数そのものが異質だけど、さらに、観光客の顔をみると、ほとんどが埼玉の顔をしてないから(←地方地方に特有の顔があるので)、いっそうに異質に感じる。
もともとあった通りを、誰にでもわかりやすく、「彩度」や「輪郭」をいちだんとアップさせて、非日常な(異常な)劇場空間をこしらえれば、観光客がわんさとやってくる。…というのは、何なのだろう。本当のモノには客を呼ぶ力はなく、過剰な演出を施してやっと客がやってくる、となれば、そうした客は本当のモノになんか興味はなく、ただ一過性のブーム的に、さっと表面をなでて、ああ面白かったねといって去っていく、そうした浮気な客を次々と引き寄せることでしか成立しえないビジネスというのは、金儲けのほかに何か意味があるんだろうか、そんなことでしか成立しえない地域おこしって意味あるんだろうか、そしてマスメディアはこういうくだらない循環構造をますますくだらない構造にすることしかしてなくて、だいたいそんなこと意味あるんだろうか。
最近ラーメンが嫌いなんだけど、これもそうだ。コンビニとか行くと有名ラーメン屋監修のカップ麺とかあって、ラーメン屋名は難しい漢字を使ったりしてて、パッケージにこうるそうなオッサンが難しい顔で腕組みしたりしてて、まあ最近のラーメンてそんな感じなんだけど、で、スープは何時間煮込んだだとかの「ストーリー」が過剰にまぶされてて、それをおいしそうにいただくって構造。しかも、その手の、雑誌やムックに載るような「有名ラーメン屋」には「ラーメンブロガー」的な連中が遠路はるばるやってくる。彼らは時につるんだりしてて、「わざわざ来た」感がただよってて、で何故かニヤニヤしてて、写真撮ったりするんだよなあ。ああそうそう、アイホンとか持ったりしてる若夫婦とかがいて、時代の最先端ヅラをして済ました顔で商品写真撮ったりしてるんだよなあ。…あ、それはラーメンじゃなかったなカキ氷だった。
つまりそういう、商品サービスの提供側と消費側のなんともいえない化かし合いというか、まあ、企業努力で客は金を払って満足かつ売り上げアップという、互いに満足の構造なので、それに文句つけるのも何だって気もするけど、でもひっかかる。
あのニヤニヤ面が、いちばんひっかかる。いやだ。

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