データとイメージ。
原発事故による放射能汚染に関して。
岩手・宮城のがれき受け入れは基本的には問題ないと思う。
もちろん放射線測定はやった上でのことだけど。
科学的知見に立てば、それ以外の考えにたどり着くことはないと思うのだが、反対している人がいるらしい。
それが理解できないから、考えた。
彼らが依拠するのはデータではない。イメージだ。放射能汚染という、イメージだ。
放射能という、五感で感じることができないものに対しては、あくまでもデータで対峙するしかないと思うのだけど、彼らはどうもそう思わないらしい。
「けがらわしいもの」というイメージで、程度、濃淡の区別なく、ばっさり斬り捨てる。
それはたぶん、これまでずっとイメージで生きてきたからではないか。
「キレイキレイで手を洗えばバイ菌もすっきり!」的なイメージで、ものの価値判断、行動基準を決めてきたからではないか。
…つまりは広告の言うなり、メディアの言うなりだ。
よく「子どものために」というけど、子どものためを思うなら、広告やメディアの言うなりではなく、自分で考えることを教え諭すべきではないか。
自分たちを反面教師に。
(これまでを「国家とエリート」の時代とすれば、原発はそのロジックの中で産み落とされたものであり、これからを「地方と非エリート」の時代とすれば、原発は同然否定されなければならず、同時に、自らが考え、リスクを引き受け、行動していかなければいけない。判断を人まかせにしたり、企業が営利追求目的で作り上げたイメージにふわんと乗っかって調子こいてるようでは生き残っていけないんじゃないかなあ…)
あと気になるのは世論調査で多い「どちらともいえない」の回答。たぶん日本のマジョリティはこの「どちらともいえない」層だ。彼らは場合によって、声高な少数派、賛成側になびくかと思ったら次は反対側になびく。「空気」という、得体の知れぬものによってふらふらと動き、それによって大勢が動く。
主体性がないくせに、「ああいう意見もあれば、こういう意見もあるよね」的な視野の広さ・懐の深さ(?)をしたり顔でアピールしたりして。自分では何も決めず、ただの日和見で、リスクをみずから拾うのが恐いくせに、賢者のふりをする。
そうして歴史は繰り返されるのか。