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2013年07月 アーカイブ

2013年07月17日

「夢」のインフレ

ぼくは子どもの頃、将来の夢がなかった。
多分なかったと思う。記憶にない。
なんとなく、「こんな感じの大人になりたい」的な希望像はあったけど、それは夢ではない。

高校の頃は2つの夢があった。
1.音楽でプロになる(当時は甲斐バンドとかのイメージ)。
2.薬師丸ひろ子のマネージャーになる。

大学入学で上京後、これらの夢はすぐに消え飛んだと思う。

いま、しきりと「夢を持とう」と夢保持が推進されているが、たとえば、「サッカー選手になりたい」という子どもが増えると、日本サッカー界の底上げにはなるが、子ども一人一人が夢にたどり着く確率は、その夢を持つ子どもの増加と反比例に低くなる。JがJ1からJ3までできればそりゃJでのプレー確率は高まるが、結局のところ、日本で世界で一握りのサッカープレイヤーになれる確率はどんどん狭き門となる。もちろんそれだけステイタスは高まるわけだが、そのステイタスは多くの夢の人柱の上に成り立っている。

みんなが夢を持てば、こうした「夢のインフレ」状況となる。
それはいったい、誰が望むことだろうか。

夢なんかなくたって生きていける。

2013年07月18日

「迷惑」考

「迷惑」について、考えている。

「誰にも迷惑かけてない」というのは、自分の行為を他人から責められた時に使う常套句だ。

コミュニケーションはお互いの「前提」の上に成り立つものだから、このフレーズが有効だということは、「人に迷惑をかけてはいけない」ことが社会の基本ルールとして理解認識共有されているということになる。

それは、「人に迷惑をかけることでなければ、それをするのは個人の自由だ」という考えにもつながる。

こういう考えが日本で定着したのは、いつ、どうやって、だろうか。
これは西欧由来だろうか、それとも日本古来の考え方だろうか。

勝手に想像すると、戦後の民主主義時代において、(それまでの全体主義的な思想から180度真逆の)個の尊重ということが言われるようになり、かといって何のルールもタガもなしにでは社会崩壊してしまうから、その前提条件として「人に迷惑をかけることでなければ」が共有認識されるようになったのではなかったか。

果たして、この前提条件は正しいのだろうか。というか、個の尊重ってそんなに大事なんだろうか。

たとえば「持続可能な社会」という考え方には、ある程度、個を犠牲にする要素がビルトインされていると思うんだけど、全体(国家、社会、世界…)と個人との調和というかバランスというか、丁度いい加減なところで釣り合いをとったほうがいいんじゃないだろうか。

「人に迷惑をかけてはいけない」ことを前提にした社会とは、裏を返せば、「何をしようが勝手じゃん」って社会であり、僕らの芯に「何をしようが勝手じゃん」がビルトインされている限り、僕らは(悪い意味で)いつまでたってもこのままではないかって気もする。

それでいいのかな。

※数日前にも、「高校を卒業して上京するとき、父親に、「よそ様に迷惑だけはかけるな」と訓令されたことを覚えている…」と書きました。これはその続き。

2013年07月23日

過酷な夏、個体の強弱

今年生まれたメダカの稚魚が一匹、藻にからまって亡くなっていた。

たくさん生まれたメダカの稚魚たちが、全匹元気に育って成魚になることはない。強い個体だけが生き残る。

植物もそうだ。うちは「ほったらかし畑」で、その環境に適応した種の、強い個体だけが残り、あとは枯れていく。

もちろん、メダカも作物も、人工的に環境を整えてやれば、生存率はあがるはずだけど。でも、タフな「彼ら」を見ているのは好きだ。

農薬をほとんど使わないし、基本的に不耕起だし、雑草も刈る程度なので、うちの庭にはいろんな生き物がいる。虫とか、たぶん余命いくばくもなさそうな個体が、それでもなんとか羽をばたつかせて動いたりしている。

生き物はみんな必死で生き残ろうとしている。

それにしても、夏は過酷な季節だ。おそらくそれは温暖化とかヒートアイランドとか以前から、多くの生物にとって過酷な季節であったのではないか。僕らはエアコンとか、いろんな文明の利器で暑さをしのげるけど、彼らは裸一貫で夏と対峙しなければならない。

メダカもそれなりの暑さ(陽射し)対策をしたりしているけど、今日も元気いっぱいにエサを食べてるけど、一匹でも多く生き延びてほしい。

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