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2013年08月 アーカイブ

2013年08月08日

見栄と恐怖のSNS

アイスクリームの上に寝そべったり、冷蔵庫の中に入ったり。コンビニなどのアルバイト店員たちの悪ふざけ画像がネットにアップされては批判が集まり、店側が謝罪する事例が相次ぐ。なぜなのか。対策はあるのか。

〔中略〕

明治学院大の宮田加久子教授(社会心理学)は、「若者にはソーシャルメディアを『仲間だけのメディア』だと誤解する傾向がある」と指摘する。
仲間内で「目立ちたい」「ウケたい」という心理は昔からあるが、世界に開かれたメディアを手にしているのに「見るのは友だちだけ」と勘違いしてしまうというのだ。「『デジタルネーティブ』と呼ばれながら使い方をしっかり学ぶ機会がなかったのではないか」

- 朝日新聞2013年8月6日朝刊33面


違う。
まず、「目立ちたい」「ウケたい」という心理は若者だけではない。ブログやSNSを見る限り、全世代共通の心理だ。ただ、年寄りはアイスクリームの上に寝そべったりせず、違うアプローチで他人の関心を得ようとしているだけだ。
そして、彼らは仲間うちだけで関心を得ようとしているわけではない。彼らは「自分もスターになりたい、人々の注目を得たい」と考えているのだ。ネットによってその敷居がずいぶん低いものになっているにもかかわらず、「ここまでやらなきゃ埋没しちゃうぜ」と、思い切った作戦に出てしまうのだ。そしてその結果引き起こされる事態が自分の想像をはるかに越えるものであったことに、事後、驚愕をするのだ。
(基本的に多くの人は、「自分になどパブリッシュできるコンテンツなどない」と考えるのがデフォルトだと思うが、SNSはその謙虚な気持ちを、一転してイケイケな気持ちに変えた)
やっていること自体は、街や店のそこかしこで、風景や、看板や、料理をバシバシ撮ってはアップして「イイネ」を獲得して喜んでいる若い女性と同じであり、同じ心理である。
みんな注目されたいし、イイネって言われたいし、リアルなマイセルフを超越した「劇画的かもしれないけど、イケちゃってる私/僕」を演出したいのだ。
そして、どんどん僕らのライフな脳内消費化していくのだ。
また、デジタルネーティブだからといってネット社会とスマートに付き合える、わけがない。僕ら非デジタルネーティブも、過去さんざんに失敗をやらかした末に、そこで学んだ教訓をもとにいまのネット社会を生きているのだ。

2013年08月20日

「風立ちぬ」は美しく、率直な映画だった。

先日、映画館で、スタジオジブリ・宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観てきた。

印象的だったのは、大正から昭和初期の日本の景色が美しく描かれていたこと。写真ではセピア色のモノトーンなイメージが強いが、フルカラーの当時の景色はこんな感じだったのかもしれないなあと思った。田舎も都市も建物も、とても美しかった。

主人公の堀越二郎はもちろん、同時代の人々がみな懸命に生きようとしていたのだ、というメッセージがしっかりと伝わってた。たとえば、線路の上を徒歩で都会を目指す人たちとか。

こんなに素朴で美しい国で、我々はただ、懸命に生きようとしていただけだったのに、なぜ、こんな無残で残酷で無様な結末(=終戦)を迎えてしまったのか。
なぜ、敗戦と同時に、これまでの一切、美しい記憶や、懸命に努力したこと、等々を全否定しなければいけなかったのか。
…というのが、宮崎さんより上の世代の胸中に、ごく率直な感覚としてあるように感じた。

まあ、懸命に生きた結果生じた負の歴史は当然描かれていないわけだが、正直で率直なところは好感を持ったし、素直に、いい映画だなあと思った。

観客には年配夫婦なんかもけっこう来ていた。彼らには映画で描かれた景色はとても懐かしいものに映ったのではないだろうか。
でも、ジブリアニメ見たさの若いママ+小さい子どもたちには、宮崎さんたちの気持ちは伝わらなかった、かもしれない。

ところで今夏の終戦報道は(あまり詳しくチェックしてないけども)ひどかった。「戦争の体験を風化させてはならない」とか、枕詞的に決まりきったことをリフレインするのだが、言ってる本人たち自身の内部で風化が顕著に進んでて、そんなこと口にしながら、実はよくわかってないんだろ、という印象がさらに強まった。
(とはいえ、ぼくも完璧に戦後生まれなので、同時代的な経験はないのだが)
なにか、これまでの「定説」「通説」を予定調和的に上からなぞるような、さらにそれを無批判・無自覚に強力ボンドで接着してしまうような、乱暴な言説。「世界を震撼させた特攻」だとか特に(安直にテンプレート化され神格化した「特攻」像?)。

…という現況から比較しても、地に足のついた、実感のこもった、率直な、いい映画だったと思う。

2013年08月25日

「のぼうの城」とかつての帝国主義

「のぼうの城」をDVDで観た。映画館で観たかったんだけど、気がついたら終わってたんで。

すごく、埼玉っぽかった。上下関係が適当なところが。

ぼくは愛知県の三河地方で生まれ育った。血筋的には生粋の三河人だ。三河は厳格なタテ社会。管理教育のベースでもあると思う。昔は三河ナンバーの暴走族といったらけっこう恐れられた存在だったはずだが、そっち方面も規律が大変厳しいと聞いた。

そんな三河では、「のぼうの城」で描かれたような状況そのものがありえない。

三河を含む愛知県は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といったいわゆる「天下人」を輩出した、「覇権」の土地柄だと思っている。その伝統を引き継いだのがトヨタ自動車だろう。

その土地柄には、帝国主義と相通ずるものがあるように思っている。明治から昭和20年の敗戦にいたるまで、中央集権的な国家を築き、国際社会と力で対峙した当時の日本とイメージがダブる。

「のぼうの城」を攻め立てた石田三成軍には覇権の思想があったが、それに対抗した「のぼう」らにはその思想がなかった。というか、これは住民感覚なんだけど、愛知県にはある種の求心力というか統率性というか、なんていうか、「駆り立てられる感じ」があるんだけど、埼玉県には求心力も統率性も、「駆り立てられる感じ」もない。ばらばらで、てきとーである。埼玉県でずっと暮らしてるとそういう実感はないと思うけど、愛知県から埼玉県に移り住むと、そういう感じがする。たぶん、根っこのところの土地柄が、全然違うような気がする。

で、これからの時代、埼玉的なこのゆるさのほうが、愛知的な一種の硬直さよりも、時代感覚にフィットしているような気がするし、個人的にも生きやすくて好きだ。

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