三脚を使うのはやめましょう。
きょう、子どもの通っている保育園の運動会があって、(当然ながら)三脚を使って撮っている人が割といたのだけれども、ああいう場面で三脚を使うことに、ぼくは反対だ。
とくにビデオ撮影の場合、手ぶれを防ぐために三脚を使うことが推奨されている。アマチュア向け撮影マニュアルの、基本中の基本といってもいいぐらいだ。きょうの朝日新聞朝刊(別冊)「てくの生活入門」にも、そう書かれていた。
でも、三脚はNGです。ぼくは断固として主張します。
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きょう、子どもの通っている保育園の運動会があって、(当然ながら)三脚を使って撮っている人が割といたのだけれども、ああいう場面で三脚を使うことに、ぼくは反対だ。
とくにビデオ撮影の場合、手ぶれを防ぐために三脚を使うことが推奨されている。アマチュア向け撮影マニュアルの、基本中の基本といってもいいぐらいだ。きょうの朝日新聞朝刊(別冊)「てくの生活入門」にも、そう書かれていた。
でも、三脚はNGです。ぼくは断固として主張します。
カテゴリーごとに管理したほうがいいだろうと思い、
<$MTEntryCategory dirify="1"$>/<$MTEntryID pad="1"$>.html
としていたが、カテゴリーを変えたりするので、デフォルトに戻した。
誰の味方でもないと思うし、誰の味方にもなってはいけないと思う。
弱者の味方だ、と言う人がいるかもしれない。そうだろうか。権力を持つ強者が権力を持たない弱者を常に虐げるような不条理が構造化している社会では、そうあるべきかもしれない。では、強者が正しく、弱者が間違っている場合には、どうする。
これまで、事実を伝えるひとと、事実を批評するひとが同一で、それをジャーナリストとか呼んでいたように思う。
でもこれからは、この2つの機能を分離していったほうがいいのではないだろうか。
Nucleus(JP)フォーラム
を読んでいたところ、
Blog Pet こうさぎ
というのが話題になっていたので、こっちに導入。
※こちらをご覧ください。
アーカイブに関連したテンプレートそれぞれに手を入れて、トップページ、月別アーカイブ、カテゴリー別アーカイブ、個別ページのいずれも同じように表示されるようにした。
30年ほど前、当時の国鉄が大々的に展開した「ディスカバージャパン」のキャンペーンである。田舎の古い町並みの一画でバアさんが何か仕事をしていて、それを若い女性の観光客が眺めていて両者の間には親しげなムードが漂っている、という写真のポスターが全国の駅という駅に貼られた。
「続きを読む」というのと、permalinkというのをやめて、[ 記事全文 ]をクリックすれば個別ページに行くようにした。また、エントリータイトルにも個別ページへのリンクをつけた。
ふらっとブログは、トップページ、個々のエントリーごとのページ(個別ページ)のほか、月別ページ、カテゴリー別ページがあります。
ジャーナリストは誰の味方か。
で、ジャーナストが公正中立を保つことの重要性を、えらそーに書いた。
それ以前に、特ダネ掲示板の与せず でも、
何者にも与せず、
(何者の味方にもならない)
というのが取材する者の鉄則、だよね。
中立的立場、と似てるんだけど、ちょっと違う。
「いいものはいい、悪いものは悪い」に近いかな。
主体的かつ自律的に、主観を確保する、という感じ。かなあ。
とも書いた。
埼玉が誇る(?)FMラジオ局NACK5の名物といったら金曜の「FUNKY FRIDAY」。小林克也さんがやってます。
「はっきり言ってYes or No」で、楽天の三木谷社長とライブドアの堀江社長、どっちが好きか、リスナー投票をしてます。
さっき現在、76対19で、堀江社長が圧倒的人気。
きょう、突如として27通のスパムコメントが寄せられた。しかもほとんどは異なるIPからだ。たまったものじゃない。
子どもの頃に平等な教育をうけ、職業選択の自由のなかで大人になる。ぼくたちにとって、それはあたりまえのことだ。でも、このやりかたには限界があるんじゃないかと、ときどき思う。ぼくらの大半は生まれつき凡才なわけで、物心ついてからの頑張りだけで評価されてしまうのは、ちょっと酷じゃないかと。
抗議受け漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社
「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号から当分、この漫画を休載することを明らかにした。
ジャーナリズムとは言ってみれば権力への批評作業
オンライン日記
何げなく書かれたっぽいこのフレーズに、一瞬、釘付けになった。
そうなのか。ジャーナリズムとかジャーナリストって、対権力だったんだ。
なるほど、そうかもね。
ぼくがジャーナリストではないのは、対権力ではないからなのかな。
妙に納得してしまった。
同板の中に分散していた書き込みを有志が一つの物語に編集しネットに発表したところ、口コミで評判が広がり、関係者に出版社8社から書籍化依頼が殺到。
「2ちゃんねる」が生んだ文学、「電車男」22日刊行
これは小説なんだろうか文学なんだろうか。共同体が作り出したのだから、むしろ伝説とか民話とかの物語ではないだろうか。…ということよりも、「webにすべてがある」というのを、まさに地でいったケースが出現したなあという感慨。
あなたが考える「インターネットコンテンツらしい作品」を募集します。…(中略)自由な発想から生まれる皆様の作品をお待ちしています。
インターネットコンテンツフェスタ 2004 - めでぃすた
んーと、作品という発想そのものがですね、ネットっぽくないと思うんですけどねえ…。
コメント欄に、
TypeKey ID を使って サイン・イン してください。
と出ます。
事の次第については、
27通のスパムコメント
をご覧ください。
インターネットコンテンツらしい作品
で書いたことの続き。
「作品」というのが、どうしてもしっくりこない。
小説は作品。楽曲も作品。映画も作品。みな、「誰々の作品」というように、「誰々の」がつく。
でもテレビ番組は。あんまし作品じゃない。ドラマは作品だろう。ドキュメンタリーも作品っぽい。
でも、バラエティは?プロデューサーやディレクターの作品っていうよか、出演してるタレントさんや構成作家さんをはじめ、みんなで作ってるって感じがするから、あんまし作品って気がしない。
ニュースはどうだろう。聞いたところでは、ニュースは「ネットワークのもの」だという。ニュース番組はそのアウトプットに過ぎない。ここでも作品性はきわめて希薄だ。
私は「取材=インタヴュー」というスタイルに根源的な疑念を抱くようになってしまった。(中略)要するに私は、取材とは、文献を読み、歴史を知り、現地を体感し、内外の人々に問い、気づき、諸々の疑問を解き明かしていく一連の営為である、と考えるようになってしまったのである。(中略)別言すれば、取材は、相手の問題ではなく(インタヴューしてその返答を書き連ねる方法論は明らかに取材を「相手の問題」として捉えていることにな る)、「おのれの問題」ではないかと私は強烈に意識するようになっていたわけです。
そういえば、日垣隆がイラクに行ったときの…
今朝のNHK「おはよう日本」で、コンテンツプロデューサー養成についてやってた。
この場合コンテンツとは、アニメとゲームのことで、コンテンツプロデューサーとは、世界に日本のアニメとゲームを売る、ビジネス感覚に長けたマネージャーのことを指すらしい。
入社直後の社内研修での、当時の地方部長の言葉が忘れられない。取材記者としての成長過程について、彼はこう言った。
「君たちは地方支局に行ってすぐには、親しい人もいないだろうから、足しげく取材対象者に通え」。続けて「時間がたって親しい人ができたら、いちいち会いにいかなくても、電話で情報が得られるようになれ」。最後に、「相手が情報を言ってきてくれるようになれば、一人前の取材記者だ」と。
(『実践ジャーナリスト養成講座』より引用)
新潟中越地震だが、テレビカメラの目線が気になる。
さっきNHKで、入浴施設無料開放といった内容で、被災者と思われる方々が浴槽につかっていたり、インタビューに答えていたりする映像をみた。
ぼくだったら、風呂の中までテレビカメラに入ってきてほしくない。
現場で取材クルーから被災者の方々に対し、「被災者の様子は全国的な関心事となっていて…云々」という説明があったかどうかわからないが。
しかし、中には、テレビカメラに写りたいくない人だっているだろう。