2018年09月30日

さいたまったり県

ぼくが住んでいる埼玉県は、まったりした土地柄だ。

東京に隣接した地域はちょっと違ったりもするけど、全体的には、まったりしている。

東京・神奈川・千葉・埼玉のなかでは、いちばんまったりしている、と断言できる。

観光でまったりしたい人は埼玉にこればいい。大変まったりできる。個人的には、行田市と、ときがわ町が気に入っているが、ほかにもまったりできるところはいっぱいあるはずだ。

まったり生きたい人は埼玉に引っ越して来ればいいんだけど、そうすると人口が増えてしまって、神奈川みたいにギスギスしてしまうので、できれば、観光だけにしてもらえるとありがたい。

2018年01月09日

働き者のパラドックス

経済産業研究所・岩本晃一氏の指摘が興味深い。それによれば、日本人の労働生産性の低さは世界的に有名で、「ものづくり」の分野でもビリに近い。いっぽう、ドイツは日本に比べて労働時間は2/3、時間当たり賃金は1.5倍、製造業の生産性も1.5倍。ドイツ人は残業しないでさっさと帰り、戸外のレストランでおしゃべりに興じているにもかかわらず「独り勝ち」と言われるほどに経済が強力、とのことだ。

岩本氏はその違いの理由を、いまだに科学的に証明できていないというのだが、とりあえず、のべつまくなしに働くことは、成果を生むには逆効果といえるか。

「戦争がないと生きている張り合いがない、ああツマらない、困った事だ、なんとか戦争を始めるくふうはないものかしら。」

さっき届いた本から、備忘録として抜粋。

1906年、日露戦争が終わった翌年、日本では、国木田独歩が、短編小説『号外』で、作中人物のこんな言葉を通して、日露戦争に熱中 していた日本人の一面を描いている。
戦争{いくさ、とルビ}がないと生きている張り合いがない、ああツマらない、困った事だ、なんとか戦争を始めるくふうはないものかしら。
─『田舎暮らしと哲学』木原武一、2017年、p249
※国木田独歩『号外』は青空文庫で読める。

2018年01月08日

少子化は豊かな社会のせい?

かつて、少子化の議論で、夫婦が子どもを作らなくなった理由に、現状が不安定だったり低収入だからとか、将来が不安だからとかいう理由が挙げられ、だから政府の施策が不十分だとか悪いとかいった批判がされていた。今もそうかもしれない。

でも本当にそうか。

非正規雇用で不安定低収入でも、子どもは作れるし、育つ。子どもを育てるのは手間もお金もかかるかもしれないけど、結果なんとかなる。むしろ、子どもは励みになることがあるというか自分は励みだった。子どもには若いエネルギーがあるから子どもと日常接しているとこちらもエネルギーが出るし、子どものためにと働く気も起きる。

子どもという励ましを必要としなくなった豊かな社会だからこそ、子どもを作らなくなったのではないか。不安だから子どもを作らないんじゃなくて、逆に、満足してるから子どもを作らないくなったんじゃないか。

という逆説的意見を書き残しておく。

2018年01月05日

箱根駅伝を見てて思ったこと。

この社会─ぼくらが暮らす現代日本─では、結果を出した人ではなく、努力をした人が賞賛される。でも、ほんとうにカッコいいのは、結果を出すために何をしたらいいか、その最短コースとか、最適なやりかたをしっかりと考え、やるべきことをやって結果を出すってことじゃないか。

それができないから、サッカー日本代表は世界で勝てない弱小チームのままなんじゃないか。

2017年05月05日

他者への想像力

外風呂に行くと、大人・子供を問わず、辟易させられる行動に直面することが、しばしばあります。

たとえば、タオルを風呂のお湯に浸す行為。たいていの入浴施設では、これをしないように注意書きしているのですが、いい年をした大人からして、これをやっているのをよく見ます。

あるいは、 湯口から出てくるお湯を、かけ湯用に置いてある桶ですくっては自分の足にかけながら、無邪気に友人とダベっている小学生。ただ、子供は経験が浅いし、そもそも視野が狭く他人が見えていないところがあるから、不愉快ではあるけど、大人が指摘すればいい話です。…と、注意しようとしたところで親が呼びにきて、子供たちは風呂をあがっていきました。親は、子供のその行為を注意しませんでした。

こうした行為は単に、公共浴場での経験に乏しいためのマナー違反、というにとどまらず、他者への視線や配慮に欠けた行為のように、僕には思えます。つまるところ、それは、他者への想像力に欠けているということになるのではないでしょうか。

不思議なのは、いま、これだけSNS等で、アカの他人と交流する、「つながる」ことが身近な時代になったのに、それでもなぜ、パブリックな場での他者不在の行動をとるのだろうか、ということです。

そういえば、風呂をあがったあとの休憩室で、インスタにでもアップするのか、仲良し親子写真を撮っている家族がいました。「イー」と声を出しながら、写真を撮っていました。彼らに、周囲の他者は見えていたでしょうか。

ここまで書いてきて思うのですが、そもそも僕ら日本人って、ヨソモノへの想像力に欠けた生活を、この日本列島で長年続けてきたのではなかったでしょうか。となると、このDNAは、容易には変えられないのかもしれません。

2017年01月06日

退屈なネット社会を語ってみたりする。

東日本大震災以来、ぼくはインターネット上の言論空間、とりわけ、いわゆるSNSから距離を置いている。かりにシステムがよくできていても、実態としては、かなり無意味で、不毛と感じたから。

いまとなっては、こんなこと、言わずもがなだが、多くのユーザーは、自分の見たいものだけを、見たいように見ているだけなので、実質的には、引きこもりの一人部屋のような閉鎖的空間にコトバや思考がループしているような状態となっている。SNSの言論空間は、異物同士が摩擦してできるような、発展的な生産性に乏しい。初期のインターネット空間の「わくわく」感に比べて、ひらべったく、退屈だ。

という認識を書いたあとに、中川淳一郎氏が語ったというインタビュー記事から抜粋。

右も左も、自分の主張を通すためにはデマを流してもかまわないと考える愚民が蔓延(はびこ)っています。
http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/

「ほんとうのこと」など、どうでもいい、と思っているから、こういうことがネット上では常態化する。自分自身の、ガチでリアルな日々の暮らしに直結することだったら、ほんとうのことなんかどうでもいい、とはならない。

例えば謝罪会見を見た人が「お辞儀の仕方がよかった」とか「仏頂面で反省が見られない」とかネットにコメントするわけでしょう。今や謝罪会見は「競技」となって、それをみんなで「審査」している状態です。
http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/2

つまりは、自分に直接関係のない、いわば対岸の火事の見物客。どうでもいいこと。一日、いや、数時間もすれば忘れてしまうような、時間つぶしのネタ。

視聴者参加型の、テレビのバラエティ番組。ネットにあふれる情報なんて、そんなもんかな。で、それに参加してるユーザーというのは、単に、通勤電車の暇つぶしでやってるだけ、だったらいいけど、たぶん、多くのユーザーはそれよりものめりこんでいるはず。刹那な自己実現にハマって、現実から遊離しているはず。

現実から遊離した状態で、生きていられるということは、豊かな証左。それはよかったですね、という、しょうもない話で終わります。

2017-01-07 11:12追記。
そうしたインターネット上の言論空間を支えているもの。
いくつかの具体例を書きかけて、やめた。
つまりは、リアルではまともな社会生活を送っている、会社やら地域やら家族やらの所属集団では一定の安定的な地位にある、いたってまともな人たちが、その所属集団外では、他人の痛みをまったく無視したような、傍若無人言語道断な言動に出るケースを、いくつも経験してきた。
少なくとも日本では、年長者を無条件で絶対視する文化、社会規範が、いつからかはともかくとして、現存している。それは、既存社会の秩序や価値観が無条件で肯定されていることを意味していると思う。日本社会で生まれ育つ、多くの人々は、おそらくそうした、ある種の絶対性を是認、容認している。所属集団においても、そうした規範に従順にふるまうし、集団外でのふるまいにも、そうした規範が適用される。
「部長」は、ネット社会に出ても、「部長」的にふるまう。とりわけ安定した社会的地位にある人はとくに、所属集団を離れても、相対的にではなく、絶対的にふるまう。
つまり、いまのネット空間を支えているのは、本質的に保守的な現実社会だ。たとえそれが幻想であったとしても、磐石な現実社会、磐石な日本社会があるからこそ、人々は、声高に主張し、評論し、こきおろす。

一介のフリーランスである僕には、確たる社会的地位が存在しないので、なかなかそんなふるまいはできない。

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2016年12月15日

昨夜、楽しい夢を見た。

昨夜、ひさしぶりに、楽しい夢を見た。
詳しい内容は覚えていないけど、将来(=老後)のイメージのようだった。
あいかわらずの貧乏暮らしで、田舎ライクな環境で、ガサゴソと、楽しくやっていた。
夢を見ながら、ああ、おれはこんな暮らしがしたいんだなー、と、自分自身を再確認しているような感じだった。
貧乏くさい暮らしでも、誰に何を言われても、好きなことをして、過ごしていたいんだ。

2016年06月23日

御用聞きと化した「ニュースランキング」報道

いま、テレビのニュースやバラエティでよくやっている、視聴者関心度順にニュースを並べる手法、いわゆる「ニュースランキング」をぼくが考えたのは、たぶん2002年のことだ。
とある報道系番組のホームページを担当することになり、じゃあホームページで投票してもらって、その順に出しましょう、と提案をした。
結局そのときは、お偉いさんの、「視聴者が知りたいニュースではなく、視聴者に伝えなければならないニュースを伝えるのが報道の責務」とのご意見で、そのアイデアは却下された。
ぼくはとてもがっかりして、ちぇっ、頭の硬いお偉いさんだなあ、と思った記憶がある。
時は流れ、今やニュースランキングの雨あられ的な状況となった。
聞くところによれば、先日の舛添バッシングも、視聴率が稼げるネタだったので、各社、ひくにひけなかったとの話も。
うん、なんかそんな感じだった。
みっともなかった。
舛添が、じゃなくって、報道各社が。
あれじゃただの御用聞きだ。報道なんて、とてもいえない。
というわけで、その頭の硬いお偉いさんの考えに、いまでは賛成。

(舛添氏については、昔、「六本木センター」の玄関ですれちがったことがあって、そのときの印象が悪いので、嫌いなんだけど)

2015年08月23日

どんどん軽く薄くなる

SNS大流行中。
TwitterにFaceBookにLINEにと、その場限りの言葉や、演出された言葉が次々と発され、蓄積されていく。何年も経てば、捜査関係者のみに有用な、言葉のゴミの山が。

ネットに蓄積される言葉の総数が多くなればなるほど、1つあたりの言葉は、どんどん軽く、薄くなっていく。
僕がここで書いてることなんて、もう、無重力状態である。

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