2012年04月06日

風評商法

風評被害は、風評商法はびこる環境でしか発生しない。

たとえばスカイツリー。マスメディアがスカイツリーを話題にする。それにのっかって、いろんな便乗商法いや関連ビジネスが林立する。マスメディアたとえばテレビは視聴率のとれるネタしか基本的には扱わないから、ベースとして「多くの人がスカイツリーを気にしている」という土壌があってこそなんだけど、それでも、マスメディアの殺人的爆発的訴求力にのっかって売り上げを伸ばすのは、風評商法に違いない。

風評被害も風評商法も、移り気な浮動票的消費者がいてこそ成立する。彼ら消費者は、真偽とか善悪とかあんまし気にしない。ただなんとなく話題に乗っかって、他律的にゆらゆらしてるだけだ。彼らを一瞬つかまえれば、莫大な儲けになる、と考えて風評商法に乗り出す向きが絶えないんだけど、ほんとにそうかね。

風評商法を継続するには、莫大な広告宣伝費と、絶えまぬ集客努力が必要になる。商品やサービスにそのコストを上乗せすれば価格は上昇するから、それを抑えるためにはスケールメリット、大量生産大量販売しかないが、いまどきそれはけっこうなリスクである。無理してナンボの商売。長期的な継続性なんか後回し的じゃん。

ぼくらってさ、そういうの、求めてるのかなあ。
「一発儲けてベンツで豪遊」的なさ、バブル時代の六本木的なさ、毎晩毎晩うかれて、花束持ったエロ野郎たちがうろうろしてさ、こんなこと長く続かないと内心思いながら、ああいうの、再来してほしいかなあ。
もっとさ、地味だけど確かな毎日を求めているのではないかな。

だから、風評商法なんてやめようよ。時間とカネと労力の無駄で、あほくさい。

※風評商法が成立するだけのお金を日本社会は持ってるってことで、まだまだ豊かですね日本。

※風評発生装置たるマスメディアは恥ずかしい。そう思うべきでしょう。

※インターネットも本来的には少数派のメディアであり、風評に背を向けてしかるべきなのに、風評流布装置になり下がっているのは恥ずかしい。

2012年03月25日

小江戸川越だとか。

川越の観光用の通りには、観光客がうじゃうじゃ歩いている。あの数そのものが異質だけど、さらに、観光客の顔をみると、ほとんどが埼玉の顔をしてないから(←地方地方に特有の顔があるので)、いっそうに異質に感じる。
もともとあった通りを、誰にでもわかりやすく、「彩度」や「輪郭」をいちだんとアップさせて、非日常な(異常な)劇場空間をこしらえれば、観光客がわんさとやってくる。…というのは、何なのだろう。本当のモノには客を呼ぶ力はなく、過剰な演出を施してやっと客がやってくる、となれば、そうした客は本当のモノになんか興味はなく、ただ一過性のブーム的に、さっと表面をなでて、ああ面白かったねといって去っていく、そうした浮気な客を次々と引き寄せることでしか成立しえないビジネスというのは、金儲けのほかに何か意味があるんだろうか、そんなことでしか成立しえない地域おこしって意味あるんだろうか、そしてマスメディアはこういうくだらない循環構造をますますくだらない構造にすることしかしてなくて、だいたいそんなこと意味あるんだろうか。
最近ラーメンが嫌いなんだけど、これもそうだ。コンビニとか行くと有名ラーメン屋監修のカップ麺とかあって、ラーメン屋名は難しい漢字を使ったりしてて、パッケージにこうるそうなオッサンが難しい顔で腕組みしたりしてて、まあ最近のラーメンてそんな感じなんだけど、で、スープは何時間煮込んだだとかの「ストーリー」が過剰にまぶされてて、それをおいしそうにいただくって構造。しかも、その手の、雑誌やムックに載るような「有名ラーメン屋」には「ラーメンブロガー」的な連中が遠路はるばるやってくる。彼らは時につるんだりしてて、「わざわざ来た」感がただよってて、で何故かニヤニヤしてて、写真撮ったりするんだよなあ。ああそうそう、アイホンとか持ったりしてる若夫婦とかがいて、時代の最先端ヅラをして済ました顔で商品写真撮ったりしてるんだよなあ。…あ、それはラーメンじゃなかったなカキ氷だった。
つまりそういう、商品サービスの提供側と消費側のなんともいえない化かし合いというか、まあ、企業努力で客は金を払って満足かつ売り上げアップという、互いに満足の構造なので、それに文句つけるのも何だって気もするけど、でもひっかかる。
あのニヤニヤ面が、いちばんひっかかる。いやだ。

2012年03月14日

指導者たちへの罵声について。

この国の指導者たちはひどい罵声を浴びせられ続けている。
いったいいつからこんなことになったんだろう。

彼らが罵声を張り上げるには、一定の条件がある。
自分に賛同してくれる人が大勢いる。少なくともそう思える状況下でしか、彼らは罵声を上げない。

それは「炎上」に似ている。
炎上のパターンはこうだ。まずは風向きのはっきりしない複数の書き込みがある。と、そこに1つの強い声が書き込まれる。するとそれに触発されるように、たてつづけにその声に同調する書き込みがされる。これで風向きが決まる。あとは面白がって参戦する便乗組も加わって、一方向に非難する書き込みが大量になされる。
ようは、声高なのはごく一部なのだけど、多くの「どちらでもない」層がそれら強い声に引っぱられるようにして、一瞬、一方向になびくのだ。
この「どちらでもない」層、たいていは事態を静観しているだけの、変化を好まない中間層が非常に厚いボリュームを形成しているのが日本社会の特質ではないかと勝手に考えているのだけど、そういうことを研究している社会学者とかはいるのかな?

ぼくも罵声を浴びたことがある。それはとある趣味のMLだった。ひどい罵声に、彼らはいったい何故こんなに僕を一方的にこき下ろすのだろう、その根拠は何だろうと考えたのだった。たどりついた仮説としては、彼らMLのコアメンバーはオフ会でも互いに顔なじみの面々であり、オフラインの場で、「あいつ生意気で気にいらねえ」という話ですでにまとまっていた、のではないかと思う。ぼくはオフ会にまったく出ないし、コミュニケーションよりも情報共有って派だったから、そういう話になっていても不思議ではない。とにかくそこでぼくが学んだのは、「自分への賛同票が多数と見込んだら彼らは口汚く人を罵倒する」ということだった。
いい人生勉強になった。

しかしそれはいったい正しい態度だろうか。

これは「いじめ」の構図とおなじ、卑怯な態度なのだから、たとえ仮に言っていることが正しかったとしても、そういう態度を人に対してとるべきじゃないと思う。
少なくとも、子どもたちの模範となるような行為とはいえない。

だから、指導者たちにひどい罵声を浴びせる行為はつつしみましょう。

2012年03月13日

データとイメージ。

原発事故による放射能汚染に関して。

岩手・宮城のがれき受け入れは基本的には問題ないと思う。
もちろん放射線測定はやった上でのことだけど。

科学的知見に立てば、それ以外の考えにたどり着くことはないと思うのだが、反対している人がいるらしい。

それが理解できないから、考えた。

彼らが依拠するのはデータではない。イメージだ。放射能汚染という、イメージだ。
放射能という、五感で感じることができないものに対しては、あくまでもデータで対峙するしかないと思うのだけど、彼らはどうもそう思わないらしい。
「けがらわしいもの」というイメージで、程度、濃淡の区別なく、ばっさり斬り捨てる。
それはたぶん、これまでずっとイメージで生きてきたからではないか。
「キレイキレイで手を洗えばバイ菌もすっきり!」的なイメージで、ものの価値判断、行動基準を決めてきたからではないか。
…つまりは広告の言うなり、メディアの言うなりだ。

よく「子どものために」というけど、子どものためを思うなら、広告やメディアの言うなりではなく、自分で考えることを教え諭すべきではないか。

自分たちを反面教師に。

(これまでを「国家とエリート」の時代とすれば、原発はそのロジックの中で産み落とされたものであり、これからを「地方と非エリート」の時代とすれば、原発は同然否定されなければならず、同時に、自らが考え、リスクを引き受け、行動していかなければいけない。判断を人まかせにしたり、企業が営利追求目的で作り上げたイメージにふわんと乗っかって調子こいてるようでは生き残っていけないんじゃないかなあ…)

あと気になるのは世論調査で多い「どちらともいえない」の回答。たぶん日本のマジョリティはこの「どちらともいえない」層だ。彼らは場合によって、声高な少数派、賛成側になびくかと思ったら次は反対側になびく。「空気」という、得体の知れぬものによってふらふらと動き、それによって大勢が動く。

主体性がないくせに、「ああいう意見もあれば、こういう意見もあるよね」的な視野の広さ・懐の深さ(?)をしたり顔でアピールしたりして。自分では何も決めず、ただの日和見で、リスクをみずから拾うのが恐いくせに、賢者のふりをする。

そうして歴史は繰り返されるのか。

2012年02月23日

ネットショッピング最大の不満。

ネットショッピング最大の不満。それは、生身の人間とやりとりしている感じがしないこと。すごく機械的に取り扱われていること。

商品をカートに入れて、支払いと配送の手続きをして、はいおしまい。じきに商品は届く。それはそれでいいんだけど、ときどき、なんかで問い合わせしたりすると、その対応が「…」な感じなんだ。

たしか北のほうの古本屋だったかな、配送をデフォルトから変更したい旨を伝えたんだけど、なんか適当にあしらわれちゃったというか。そこはどうもDVDとか毎日大量に発送してるみたいで、薄利多売、数で稼いでるようなんだけど、だからいちいち問い合わせとか、めんどい感じらしかった。

効率優先。まあ、こっちも安いもの探して発注してるんだから、お互い様だけど。

そんなわけで、ネットショップ特有の「安いものを大量に売って稼ぐ」には、客の顔なんか見えない。見ようともしない。ロボットとロボットのやりとりみたいな。それより、メールでいいからやりとりしたいんだよなあ。ちょっとぐらい手間でも。

2012年02月11日

どんどん安くなり、どんどん薄くなる。

こないだ朝日新聞で糸井重里がたしかこんなことを書いていた(言っていた?)。

人は、「つながり」にお金を払うのだと。

ぼくは行きつけのコーヒー豆屋がある。ちょっと遠いんだけど、豆が切れると必ずそこに買いに行く。老夫婦のやっている店だ。開業してもう20年になるし、ぼくが行き始めてからも10年以上になる。行って、いつもの豆を注文して、ついでにいろんな話をして。決して安くない支出だけど、ぼくがこれを節約することはない。それは、コーヒー豆を買いながらも、この関係にお金を払っているのだ。
(ま、他では買えない、おいしいコーヒー豆だということもあるんだけど)

安いもの安いもの。中国などから輸入された品々がそれを強力にプッシュする。どんどん安くなり、僕らはそれに殺到する。

そして、それにあわせて、あらゆるつながりがどんどん薄くなっていく。

僕らはフリーになっていく。

それって不幸なことじゃないですか?

テレビのある光景。

テレビの番組制作に従事しながらも、テレビについて思うこと。

これまで印象に残っている、テレビを見る光景。

1.山奥の定食屋。がらんした店内で、テレビの音声だけが流れている。国会中継だった。どっかの老人(じいさん)が、テレビに食ってかかっていた。政治に言いたいことがあるらしかった。
2.自治会の打ち合わせで行った、近所の老夫婦の家。狭く雑多な家の中に、テレビだけがどっかりと存在感を示していた。ふだんこの老夫婦はこの空間でこたつでお茶を飲みながら、ひたすらテレビの画面だけを見ているようだった。
3.ぼくの生まれ育った実家。大画面液晶テレビに大音量で流れる音声。深夜、マッサージチェアでうとうとしながらもテレビを見続ける父。

…と、どうしようもない場面ばかりが思い出される。年寄りが、薄い日常を生きながら、テレビが垂れ流すエモーションにかろうじて下支えされている、ちっとも生産的でない、ただ消費しつづける光景。

こんな世界で評価されたって、何がうれしいものか。

2012年01月26日

ゼロリスクに関して思うこと。

原発事故で飛散した放射性物質による外部&内部被ばくについて、ゼロリスクを求める声が強くある。それは、以下のような考え方に基づいているのではないだろうか。

1.リスクは元々ゼロである。→ゼロか、ゼロじゃないかといったら、元々リスクはゼロじゃなかった。自然界にも放射性物質はあって僕らは生まれたときからずっとわずかに被ばくしている(室内ラドン濃度とかも含めて)し、かつての原爆実験とかの影響もある。閾値なしモデルであれば、人類がゼロリスクだったことはこれまで一度もない。

2.我々はゼロリスクの権利があるし、我々にゼロリスクを提供する義務が(政府や行政に?)ある。→そうかな。

なんか、「対岸の火事から火の粉がこっちに降ってきて迷惑だ、誰かなんとかしろ」と言っているように聞こえるんだ。

その根底には、「これは俺の仕事じゃなくてお前らの仕事だろ」という政府や行政に対する考え方がある。

まあ、そうなんだけど。

明治維新以来、日本は諸外国からの脅威に対抗するため、急ごしらえの中央集権国家をつくり、そのコントロールを官僚にゆだねた。官僚を実質的な頂点とするピラミッド構造ができた。ピラミッド構造の組織では、「認知判断操作」のうち、「認知判断」はトップがやればよく、下々は「操作」に専念すればよかった。こうして、「大事なことはお上にまかせて、俺たちはせっせと毎日働いてればいいんだ」という価値観が生まれ、戦後もそれは変わることなく継続されたというか高度経済成長という世界史に類を見ない成功神話がそれを裏づけた。

でも、もう終わったんだ。
あの原発事故は、この効率性を追い求めてきた日本型システムの終焉だ。
僕らは自ら「認知判断」をしなくてはいけなくなった。効率は落ちる。混乱もする。
でも、もう、何も考えなくていい、ただせっせと勤勉に過ごしてればいいという時代は来ない。

思考停止の縛りをほどいて、自分の頭で考えよう。

2012年01月17日

できるだけ、じっくり考えよう。

僕はあくせくと忙しく働くことが嫌いだ。

目の前のタスクを処理することに一生懸命になっていると、視界が狭まり、うつむき気味になっていって、しだいに自分が何をしているのか、どこに向かっているのか、わからなくなる。

向かう方向を誰かに指し示してもらって、というやり方もあるんだろうけど、僕は自分で考えて自分の責任で自分で決めたい。

それに、目の前のタスクを一生懸命処理しているモードだと、次から次にタスクが積みあがっていって、そのうち、身動きがとれなくなってしまうことがある。

距離を置いて、冷静に、優先度と緊急度でタスクを選別していけば、もっとすっきりするはずなんだ。

細かいことばかりを追っていると、大事なことを考えるのを後回しにしがちだし。大事なことは、考えて結論を出すのに時間がかかるわりには、目の前のタスク処理には関係がなかったりするから。でもそれを後回しにしていると、いずれ大変なことになる。

まるでいまの日本のように。

だから、僕はできるだけ、多忙とは距離を置いて、じっくりと考えたい。
(経済的には恵まれなくても)

以上、自戒を込めて。

2012年01月11日

“中年”という高い壁

自分が中年になってみて感じていること。

たとえば学校の同窓会でかつての同級生と久しぶりに再会したとき、同い年なのにえらく老けてる奴はいないだろうか。
かつて(20〜30代)ギラギラの夢を語ったバリバリのビジネスマンが、数年経ったらひどく老け込んで見えることはないだろうか。

「現役感」の喪失。

たぶんそれは、「中年の壁」のせいだ。

以前調べたおぼろげな記憶では、人の生産性は30代前半が人生のピーク。これを越えると、それまで上り調子だった生産性が、ゆっくりと、しかし確実に、低下をたどっていく。
同時に創造性も落ちていくだろう。
体の無理が徐々にきかなくなる。

ここで、現状にぶら下がったまま、残りの人生をなんとかやり過ごそう、あとはだらだらと慣性で生きていこう、そう思ったらたぶんこうなる。

でも残念なことに、それはたぶん、できない相談だ。
これまではできたかもしれない。年金暮らしをしている親世代はそうだったかもしれない。でもそれはきっと、戦後高度経済成長という、世界史的にも稀有な、必然と偶然のハイブリッドな産物に、日本という国全体がぶら下がっていけたからできたこと、ではないかと思う。
これからは違う。一進一退、七転び八起き。2勝1敗1引き分けならよしとしようってな時代になる。ぶら下がってたら、つかまってるヒモが切れて谷底に転落してしまうかもしれない。

そう覚悟を決めて、中年以降を生きていこうと思う。

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