ハイビジョンが撮るべきもの
プロ並み1080iハイビジョン映像が撮れる――ソニーが家庭用HDビデオカメラ
月刊「ビデオSALON」とかの愛読者なら喜ぶだろう。
でも、技術はたしかに大事だけど、もっと大事なのは、何を撮るか、どう撮ってどう見せたら面白いかっていう、コンテンツつまり中身。キレイなだけのサンプル映像なんていくら見せられても面白くない。
プロ並み1080iハイビジョン映像が撮れる――ソニーが家庭用HDビデオカメラ
月刊「ビデオSALON」とかの愛読者なら喜ぶだろう。
でも、技術はたしかに大事だけど、もっと大事なのは、何を撮るか、どう撮ってどう見せたら面白いかっていう、コンテンツつまり中身。キレイなだけのサンプル映像なんていくら見せられても面白くない。
最初、電車の車内吊りかなにかで見て、「げっ、まじ?」と思った。あんまり恥ずかしかったので、知らん顔してた。
ブロガー=市民ジャーナリスト?
にも関係することだけど。
ブログとか使って主体的に発信したいと思うわけです。
もともと、(マス)メディアの発信するニュースに、「いやーぼくはこう思うんだけどねえ」とツッコミを入れるのがブログ。ある意味、お客さんというか、情報の受け手という立場がまずあって、その上で、「おれたち、ただ黙ってニュース受け取ってるわけじゃないぜ」という意思表示だったわけだ、と思う。
小説とか、すでに存在意義を失っている気がする。内面を描く、人間の本性に迫る、それで何がわかるのって思う。ドキュメンタリーもそう。どんなにがんばっても、限界。映像は真実を映し出しているのか。真実に迫れているのか。
という題名の写真集をきょう買った。
ベン・シモンズというアメリカ人の撮った写真を、宮崎光弘というデザイナーがセレクト&構成したものらしい。ヴィム・ヴェンダースと村上龍の、東京に関する文章もはいっている。小学館、2000年発行。
ブログを書いても、原稿料は出ない。
2ちゃんねるに書いても、やっぱり原稿料は出ない。
滝マニアや棚田マニアが、美しい写真や詳細なアクセス方法など、持っているコンテンツを惜しげもなくサイト上に公開しても、やっぱり原稿料は出ない。地元自治体や観光協会が提供するコンテンツより、ずっと役立つコンテンツであったとしても。(←じっさいそう)
いま、たくさんの個人が、有意なコンテンツを無償で制作し、提供している。
中国 木炭の輸出を全面禁止へ
中国は、森林保護のためとして、10月から木炭の輸出を全面的に禁止することを決めました。中国産の質の良い炭は、価格が1キロ当たり300円と国内産の約半値で焼き鳥店など飲食店で広く使われており、影響が懸念されます。
と、NHKは7時のニュースで伝えたが、違うんじゃないのか。
久米宏氏「NHKは僕が嫌い…」
取材陣から「NHK紅白の司会は」と突っ込まれると「NHKは僕が嫌いなはずだし、僕もNHKがすごく嫌いだから」と苦笑い。
さいきん、行楽系サイトを見てまわっている(←仕事)。
どうも気になるのは、旅日記系個人サイトで、(アマチュア)カメラマンをこころよく思っていないというか、まあ、ムカついてる感じの記述がやけに多いこと。
ブログは無名に限る、と思う。
有名人ブログ、たしかにある。見たりする。でも、タレントブログを日々チェックしている芸能系記者ならいざ知らず、ブログの醍醐味はやっぱ無名でしょう。
すでに発信チャンネルを持っている有名人の発信より、これまで発信チャンネルを持っていなかった無名人の発信のがオモロイ、とすれば、オモロイ逆転現象が起こる。無名だろうがコンテンツ次第で客を呼ぶことが立証できることになり、そこがオモロイ。
きょう、子どもの通っている保育園の運動会があって、(当然ながら)三脚を使って撮っている人が割といたのだけれども、ああいう場面で三脚を使うことに、ぼくは反対だ。
とくにビデオ撮影の場合、手ぶれを防ぐために三脚を使うことが推奨されている。アマチュア向け撮影マニュアルの、基本中の基本といってもいいぐらいだ。きょうの朝日新聞朝刊(別冊)「てくの生活入門」にも、そう書かれていた。
でも、三脚はNGです。ぼくは断固として主張します。
同板の中に分散していた書き込みを有志が一つの物語に編集しネットに発表したところ、口コミで評判が広がり、関係者に出版社8社から書籍化依頼が殺到。
「2ちゃんねる」が生んだ文学、「電車男」22日刊行
これは小説なんだろうか文学なんだろうか。共同体が作り出したのだから、むしろ伝説とか民話とかの物語ではないだろうか。…ということよりも、「webにすべてがある」というのを、まさに地でいったケースが出現したなあという感慨。
あなたが考える「インターネットコンテンツらしい作品」を募集します。…(中略)自由な発想から生まれる皆様の作品をお待ちしています。
インターネットコンテンツフェスタ 2004 - めでぃすた
んーと、作品という発想そのものがですね、ネットっぽくないと思うんですけどねえ…。
インターネットコンテンツらしい作品
で書いたことの続き。
「作品」というのが、どうしてもしっくりこない。
小説は作品。楽曲も作品。映画も作品。みな、「誰々の作品」というように、「誰々の」がつく。
でもテレビ番組は。あんまし作品じゃない。ドラマは作品だろう。ドキュメンタリーも作品っぽい。
でも、バラエティは?プロデューサーやディレクターの作品っていうよか、出演してるタレントさんや構成作家さんをはじめ、みんなで作ってるって感じがするから、あんまし作品って気がしない。
ニュースはどうだろう。聞いたところでは、ニュースは「ネットワークのもの」だという。ニュース番組はそのアウトプットに過ぎない。ここでも作品性はきわめて希薄だ。
今朝のNHK「おはよう日本」で、コンテンツプロデューサー養成についてやってた。
この場合コンテンツとは、アニメとゲームのことで、コンテンツプロデューサーとは、世界に日本のアニメとゲームを売る、ビジネス感覚に長けたマネージャーのことを指すらしい。
いえ、ここのサイトじゃなくって。
PLAN The Room Virtual Officeというサイトがあって、羽田隆志さんという、オリジナリティあふれた乗物を次々と開発している工業デザイナーの方がやっているのだけど、そこで、プロジェクトごとにスポンサーを募集している。
(2001年09月02日以前に書かれた草稿をもとにしています)
大量生産・大量消費の企業社会ではなく、インターネットを基盤にした次世代の社会は、コミュニティがキーワードとなる。コミュニティとは、山村のようなものだ。そこに一軒のよろず屋がある。生活に必要なものを、村人はそこで買っている。村の人口は少なく、よろず屋の経営は楽ではない。老夫婦がそこそこ生活できる程度の収入しかないが、よろず屋を切り盛りするその老夫婦にとっては、自分たちが大儲けすることなどまったく念頭にない。ただ、村人の役に立っていること、店をおとずれるなじみの面々の笑顔が見られれば、それでいいのだ。
村人たちも、そんな老夫婦の気持ちをよくわかっているから、自然と足が向く。車で1時間ほど飛ばせば、もっと安いスーパーはあるのだけど、たいていはよろず屋で買い物をする。自分らにとってそのよろず屋がどんなに大切か、わかっているからだ。もし、よろず屋が深刻な経営難に陥ったら、それを知った村人は、自発的な募金に回るだろう。老主人が倒れたら、交代で店番に立つだろう。そうしてその店を、みんなで守ろうとするだろう。それはよろず屋の老夫婦のためだけではない、村のみんなのためだから。
(2001年05月21日以前に書かれた草稿をもとにしています)
インターネットは大儲けするメディアではない。広告代理店とクライアントがデカい面をする時代は、テレビと同時に終わる。
テレビは1対マスの関係を最大限に発揮したメディアだった。時代もそれを望んでいた。大量生産の商品を販売するのに、テレビはうってつけの媒体だったからだ。
その意味で、すでにテレビの時代は終わっている。取り残された演者と取り残された観客が、風呂上がりにオンザステージを楽しんでいる。
インターネットは、1対マスには向かない。最初からそれは明らかだ。適しているのは、全世界の「ちょっとづつ」。
復興支援で24時間生放送 地震、台風被害でNHK
NHKは2日、新潟県中越地震や台風の被災地復興を支援するキャンペーン番組「被災者の声・いま私たちにできること(仮)」を6、7の両日、24時間半にわたって総合テレビとラジオ第一で生放送すると発表した。
NHKによると、24時間を超える生放送は極めて異例。番組は6日午後7時半から7日午後8時まで、新潟県や兵庫県などから中継。被災者の声を伝え、阪神大震災や東京・三宅島の被災者から復興に役立つ体験などを聞く。ドラマなどレギュラー番組の多くは休止する。
両日は全国の放送局で義援金やボランティアへの協力を呼び掛ける。NHK広報局は「災害に見舞われた列島各地の声に、総力を挙げて耳を傾け、視聴者と考えたい」としている。
(共同通信) - 11月2日22時7分更新
災害多発のいま、不祥事で揺れるNHKが信頼回復のために総力を挙げる特別プログラム(と推定)。というのも興味深かったが、ぼくの関心は別のところに。
作品は特定の誰かが作ったもの。近代以降の文化は、作品によって支えられてきた。著作権制度も、作品なしにはありえない。
いっぽう、ネットは空間。個々の作品が孤島のようにぷかぷか浮かんでるだけでは、つまらない。互いに磁場を形成してくっついたり離れたり、融合して巨大化したり、一団を形成したり、つまり、個々の作品が宇宙空間を構成する惑星のようにならないと。
今年5月、足で使っているトヨタ・カルディナのドライブシャフトブーツの破損を発見。あいにく愛車スタリオンのレストアで手一杯ゆえ、近所のトヨペットに修理に出した。簡単に交換できる分割式ブーツがあるというので、それを使用。部品代¥6500×2+工賃¥6,000。
約半年後。先日、タイヤ交換をしてたら、分割式ブーツの接合面が一部、外れているのを発見。再度トヨペットに行き、つけ直してもらった、はずだったが、きのうチェックしてみると、また外れていた。というか、見た目には何も変わりなし。またまたトヨペットに行き、クレーム扱いでブーツを新品交換に。
いろんなヒトから相談を受けるが、相談のベクトルはいっしょ。
ホームページを作りたい。アクセスを増やしたい。売り上げ増につなげたい。
コンテンツ発信支援というのに取り組みたいと思っていたのだが、なんかそれでやる気が萎えてしまっている。とどのところつまり、ホームページをチラシだと思っているのだ、みんな。
チラシを作る。たくさんばら撒けば、多くの人に見てもらえて、客の数も増える。…とまあ、そんな具合に。
それは幻想です。だってホームページはチラシじゃないんだもん。
セグウェイによる全米横断に成功--ドキュメンタリー映画の撮影で
「America at 10mph(アメリカをゆっくり見渡そう)」と命名されたこの横断旅行は、8月9日にワシントン州シアトルを出発し、5人編成のチームで14州を超えてきた。この撮影旅行は、「米国の本来の姿」をフィルムに収めることを目的に実行された。
インターネットはオープンなとこがいいのだが、オープンなサイト運営には限界がある。というか、不特定多数に向けてオープンにしてしまうと、どうもメリットよりもデメリットのほうが目につく。いまのところ、そう結論づけざるをえない。
また乖離ネタ。
リサーチャーなので、webで情報収集をする。オフィシャルなサイトも見るが、プライベートな個人サイトを見ている時間のが長い。情報の正確性には劣るが、コンテンツの質、量ともに、オフィシャルなサイトを凌駕している。掘り出しモノもある。いまや、優れたコンテンツは、無数の個人の手によって、無料で提供されている。ただ、それらのサイトの多くは、デザイン的にはお世辞にも良いとは言えない。中には、行き当たりばったりの建て増し建築的な、複雑怪奇な作りのサイトもあって、四苦八苦する。(あとMIDIも困る)
「面白いっ!」
が口癖だったひとがいる。
テレビ屋の先輩、恩師というべきか。
「で、どう作る?」と続く。
テレビ屋は、「面白いっ!」を追い求める稼業。
だから、「面白いっ!」を追い求めた結果、テレビからウェブに足場を移したってOK。
テレビとかラジオとか新聞とか雑誌とか、つまり既存メディアコンテンツというのは、広告収入によって成立している。ということは、広告を見た一部のヒトが商品を購入することを前提に、多くのヒトにコンテンツを無料あるいは安価に提供するということ。つまり、多くのヒトは「タダ乗り」をしているわけ。マスメディアの「マス」とは、送り手がマスなのではなく、受け手がマス。ぼくらは、タダ乗りでコンテンツを享受できる、大衆として存在することに慣れている。
既存メディアの制作にたずさわるヒトは、ネットコンテンツを一段低いものと見なす傾向があるように思う。プロとアマの関係のように。もちろん、作品として見た場合、ネットコンテンツのクオリティが低いのは間違いない。
が、テレビも黎明期には似たような扱いを、新聞やラジオといった既存メディアから受けたはず。でもテレビはその後、メディアとしての能力を開花させ、いまやメディアの頂点的な存在となっている。テレビの能力とは、「いま」をたくさんの人に見せることだろう。その強みは、これからも失われることはないと思う。
では、ネットの能力とは何か。
ヲタクワールドはアナザーワールド。リアルワールドとは、ほとんど何の接点もない。そのうえ、ヲタクワールドではあらゆるイベントが脳内消費され完結してしまうので、やっぱり、リアルワールドとはほとんど何の接点もない。ブログ界(正しい表現?)の大半がヲタクワールドとダブってるとするならば、そこでどれだけ人気があったり有名だったりアクセスが多かったりコメントやトラックバックがたくさんあったりしても、リアルワールドとは無関係。ひとことでいうと、「だから何?」となる。
他業界では生き残りをかけた経営統合とか資本提携とか盛んにやってるのに、マスコミ業界ではあまり聞かれない(出版ですこしあるかな?)。それだけ経営が順調にいってるってことかもしれないけど、もっと効率化をはかったほうが、いいと思う。
マスコミでとりあげられるのは、いいことばかりではない。デメリットもある。批判的にとりあげられる場合は言わずもがなだが、好意的にとりあげられる場合でもそう。
たとえばタレント、有名人。「時の人」となったその瞬間はいい。しかし多くはその後、凋落する。「あの人はいま」で現状を追跡取材され、哀れを誘ったりする。生涯を無名で過ごしていれば決して味わわなくても済む悲哀。有名を維持できる力のある、限られた一部のひとだけが、そのメリットを継続的に享受できる。だから、「有名になりたい」なんて思わないほうがいい。
店も商品も同じ。マスコミとは、不自然かつアブノーマルな状態を生み出し、それを瞬間的に消費していく装置。それに耐えられるヒトやモノは、そう多くはないはず。マスコミに限らない。新聞折込チラシだって構造的にいっしょだ。チラシに頼らない継続可能な商売のほうが健全だ。
「NHKに言いたい」という生番組が、きょうの21:00?23:15、NHK総合テレビで放送された。冒頭、鳥越俊太郎氏の「これはガス抜きのための番組か」「セレモニーで終わらせるつもりか」といった厳しい追求から幕をあけた、意外と見ごたえのある番組だった。
非日常的なものを美しく見せるとか、事実を正確にfixして後世に伝えるとかは既存のメディアでやればいい。ぼくがプライベートに実現したいのは、日常のメディア。日常的なものをありのまま見せる。不正確な事実をfixしないでみんなに伝える。ぼくらの日常そのままを、ネットに持ち込みたい。ネットで完結してしまう「脳内生産、脳内消費」ではなくて、ぼくらの生きている日常世界にそのままつながりたい。
いいものはいいに書いたこととダブるかもしれないけど。
一方的な宣伝の時代は、もう終わりです。終わってるんだけど、それに気づいてない人がどうやら多い。
ミニメディアに対するこだわりと、事実に対するこだわり。
この2つにかんして、ぼくは筋金入りだ。というのは、ごく一部のひとしか知らないことなので、ここでわざわざ明記しておきます。
これがなければ、さっさと素直にTVディレクターになっていたことでしょう(?)。
という前フリで。
涙の告発「政治的圧力あった」
会見後には“勇気”を称え、報道陣から異例の“拍手”が起こった。
ぼくは長井さんを信じ、支持し、応援します。
マスメディアが伝えるわかりやすい情報を信じ、目の前のリアルな現実を信じようとしない、倒錯した認識。市民ジャーナリスト、およびその周辺の人々の多くが、「マスメディアに対峙する市民メディア」というわかりやすい構図に立脚しているような気がしてならない。
つまり、みな幻の世界で踊っているだけ。中国の故事でそんなのあったよね。
NHK受信料、8割が「高い」
C-NEW調査によると、NHKの受信料を支払っていないのは2割弱だが、8割の人が受信料を高いと感じており、「NHKを見る人だけ支払えばよい」と思う人が4割を超えた。
そだね。いまどき高いよ受信料。新聞も高いけど。
似たようなことを考え、書こうと思っていた矢先。
ITmediaニュース:[WSJ] ブロガーが「ジャーナリスト」になる時
マスメディアがマスメディアたるゆえんは、たんに、受け手が大勢だから。テレビも、ゲームをしたりDVDを見てる限りはただのモニター。だから、大勢がアクセスするサイトやブログは、マスメディアと規定したほうがいいのかも。こんな不人気ブログも、ある日いきなり、ものすごいアクセスになって、マスメディアになってしまうかもしれない。何気ない一言が、多くの人を惑わせ、傷つけ、それが自分に跳ね返ってきたとき、はたしてその事態に耐えられるか。
ブログをやってる人だけでなく、ネットに書き込みをするすべての人が、そういうイマジネーションを働かせたほうがいいと思うんだけど。
NHK海老沢前会長が顧問辞退 - nikkansports.com 芸能ニュース
視聴者のパワーが明確に示された、気分爽快なニュース。
NHKというシェアウェアのユーザーは、どしどし声をあげていくべき。
電話は、こちらから、また、メールはこちらから。
[潰されない記者ブログ]
というのを読んだ。ぼくはフリーランスだし、やってることもわりとしがないリサーチャー稼業っていうか、たぶん業界外の方にはリサーチャーってよくわかんないだろうし、業界内の方にはリサーチャーのわりには態度でかいなとかその程度の認識のジャンルの仕事なのでそれはいいとしても、テレビ業界において番組制作に関わっており、マスコミ人でありテレビ屋であるのは間違いないと思うけど、そのわりには、なぜぼくが「祭り」にあわないのか。考えてみた。
既存メディアの、一般市民(一般ピープル略してパンピーともいう)の描き方には、2つのパターンがあるように思う。
[ライブドア、ニッポン放送株35%取得]について、[ネットは新聞を殺すのかblog]の[ホリエモンが思い浮かべるメディアの未来]の分析が興味深い。同じく[ネットは新聞を殺すのかblog]では、[ライブドア市民記者ニュースがスタート]という記事もある。コメントはしたのだけれども、ここで書いておきたい。
文は人なり。だからブログは人なり。ときどき、この人はブログやらないほうが良かったんじゃないかなあーと思うブログに出会うことがある。ブログを通じて、その人の人間性が浮き彫りになってしまって、それが悲しい姿だったりすると、そう思う。
会ってみるといい人っぽいんだけど文章が…というのはおそらく、会った印象のほうが化けの皮で、文章のが本性でしょうね多分。
世界はほんとうはもっと色鮮やかで豊かだし、残酷で不気味なんですよ?
こちらが出もと。ネット右翼だって現実社会に戻ればリベラルでしょうがで読んで、妙に残るというか、いいフレーズだなと思った。だけど、このフレーズ以外の部分には、あんまし共感できなかった。
「お客様は神様」的な価値観はもはや過去の遺物だし、若いからという言い訳も通用しない。
ネットはテレビ(あるいはマスメディア)を殺せない。みんなテレビが好きだから。
テレビへの思い、それはメディアのヒエラルキー構造、「△」の頂点へのあこがれでもある。そしてテレビはレート(視聴率)を稼ぐために演出する。テレビはお茶の間の皆さんにとても身近なメディアですよと。視聴者は感じる、自分にもチャンスがあると。
まるで受験生のように。
(2005/04/16 memoを元に)
ブログの書籍化が、2005/04/16の朝日新聞朝刊に載っていた(はず)。で、書籍化されたブログだが、言葉は悪いが簡単にいうと「変人さん、いらっしゃーい。」だと思う。つまり、自分自身をネタにしている。シロートさんを使ったテレビのバラエティ番組と、やってる方向性は同じ。基本的には一発芸。出版社側からすれば、ネタは無限だが、ブログ主にしてみれば、一回こっきり。よほど才能があれば続くと思うが、それはたぶん、ブログがなくてもいずれ出現していた才能だろう。つまり、シロートはあくまでシロートとして扱われていて、新味はない。
二番煎じは、恥ずかしい。マスメディアにたずさわる者にとって、ごくあたりまえの感覚。現実には二番煎じばかりだったりするのは、好意的に解釈すれば、理想と現実ということか。でもこの理想に異をとなえるマスメディア従事者はいないだろう。
オリジナルなやつを。
取材という罪深き行為に対する後ろめたさ、について考えてみる。
「視線にも重力の法則があって、水と同じように上から下へと流れる。」ことに対する自覚の念が、まず必要。ほっとくと取材者は上限なしの傲慢野郎になってしまうので、常に自戒をしなければ。
ふらっと現場Blogのほうで、愛知万博についてデスクトップリサーチをしてみたが、たくさんのひとがブログで体験記を公開してたりするので、現場に行かずとも、かなりの情報を得ることができた。
インターネットが情報の送受信ツールとして優れている点はいろいろとある。
旅情報を例にとってみる。「夏に楽しむ蒸気機関車の旅」でも「総力特集・夏の花火」でもいい。今日コンビニでそんな感じの雑誌特集やムックを見た。パラパラめくって楽しむには、雑誌やムックがいい。場所を選ばないし、印刷はきれいだし、情報はよく整理されている。一方、同じ特集をネットコンテンツで組んだ場合はどうか。本文の文字数等がないので、必要なだけのコンテンツで構成できるし、リンクで他サイトの情報ソースも参照できる。また、複数の筆者で構成したり、読者からのコメントもリアルタイムで反映したりも可能だ。つまり、雑誌やムックに比べてより広く、より深いコンテンツを作ることができる。だからインターネットは面白い。
先日発売「ニューズウィーク日本版」2005.6.22号の特集タイトルが「テレビの未来」
表紙には、
「テレビの未来を大予測」
「コマーシャルが急減、ドラマの最終回は数バージョン、誰でも番組を作ってネットで放送できる時代に」
と書かれている。
ひょっとして、ぼくの取材力、落ちてるかもしれない。
地べたを這い回るように現場を歩き、現場でおもしろがってナンボの稼業。デスクトップでふんぞり返ってわかったような批評をしてても、何にもならないし、過去のキャリアには何の意味もない。
みんな「旬」が好きみたい。旬、もとはテレビ業界の用語だったかもしれないけど、確かなことは知らない。意味的には、ぼくが若かりし頃の「ナウ」とおんなじ。当時と変わってない。
かれこれ10年来、通い続けているコーヒー豆屋さんがある。ぼくにコーヒーのおいしさを教えてくれたお店だ。店のおじさんにいろいろ教えてもらって、今では自家焙煎にまで手を出すようになった。おじさんがマスコミ取材お断り主義であることを聞かされているので、ぼくのサイトでも、店名には一切触れていない。
BIGLOBEは5日、全国120人以上のビデオジャーナリストによる映像コンテンツ制作ネットワークを構築した。この映像コンテンツネットワークは、映像コンテンツ集配信事業を行なう株式会社オーエンと連携して構築したもの。各地の自然や地域に根ざしたお祭りなどを素材にした映像コンテンツの制作・配信を行なうという。NECでは「テレビなどのマスメディアでは見ることのできない、ローカル映像についても視聴ニーズが高まっている」とコメント。
BIGLOBE、全国120人のビデオジャーナリストによる動画を配信より抜粋。
BIGLOBEのページはこちら↓。
BIGLOBEストリーム ドラマ・ネットムービー>全国ビデオジャーナリスト
提携先はこちら↓。映像制作者の登録を受付中。
株式会社オーエン
ここ「ふらっとブログ」では、意味のあることを書くように心がけている。ふらっとarchivesにおいても、一次情報をできるだけメインにとか、可能な限りちゃんと調べてとか、誤報のないようにとか、選りすぐりのネタをだとか、ようするにコンテンツとして、より「まとも」なものをと考えている。空き時間にちゃかちゃか書いただけでコンテンツとして通用するのはネームバリューのある人だけだし、ぼくとしては、あくまでプロのコンテンツの作り手として、中味で勝負したい。目指しているのは、テレビのマイクロ版のようなイメージ。テレビは「tele-vision」、つまり、遠くを見るためのメディア。ぼくも、どこかに眠るネタを、遠く離れた誰かに伝えたい。専門誌化して読者を絞ることは考えていない。テレビがそうであるように、面白い(興味深い)と思ったネタなら何でも反応していきたい。見てくれる人は多くなくていい。いや、多いと困る。ほどほどがいい。
なんのために伝えているのかの続き。興味ある方のみ、お読みください。
以前にも似たようなことを書いたかもしれないけど。
ふらっとarchivesは、企画から公開まで一貫制作体制の複合ブログサイトです。システムを構築し、現場で取材をし、コンテンツをアップし…いろんな作業を重ねながら、方向性を探っています。
パソコンの中から発掘したテキスト。2001年に書いたものらしい。大筋では今でも同じ考え。多少の編集をしたうえで公開します。
↓
先日、とある方から、マスメディアで頻発するねつ造やヤラセについて、現場の声を聞かせてほしいというリクエストがあり、会ってお話をさせていただきました。その後、ぼくなりに考えたこともあるので、それを書きます。ただ、とくに目新しいことはなく、これまでにweb上に書いて公開してきたものの中に、似たようなことを書いているはずです。
ぼくは表現者としてではなく、取材者としてコンテンツをupしています。どうも、「じぶん」を前面にフューチャーすることが、あまり好きではないらしいので。
じぶんではない何か、場所だったり人物だったり物事だったりのディテールを誰かに伝えること、つまりメディアとして在ることのほうが、性に合ってるみたいです。
伝える側の無神経さ、ということを、最近よく考えます。
「ぶっつけ本番の出会い旅」ってスタイル、最近の旅モノ番組ではよくあります。わりと好きでよく見てるんですが、その一方、手法が陳腐化してるという気も、しないでもないです。それに、あれってある種、すごく暴力的な気がしませんか。
…と、こちらで書きました。
一方、アマチュアはどうかというと、店内画像バシャバシャ撮りまくってるような旅日記サイトとか、自分の子の顔だけ隠して店員の顔丸出しとか、こちらも、がっかりするような状況。これはぼく自身も過去の所業で反省してることなのですが…。撮影の是非というよりもむしろ、どこまで出していいのかいけないのか、という、ルールづくりというか。とくにネットは、閲覧ユーザーがピンキりで、誰も来なければ何の問題にもならないけど、ある日いきなり有名サイトからリンク張られて、って可能性もあって。リアルな世界だと物理的な限界値って枠で規制がきいたりするけど、ネットにはそれがない。…まあ、自宅サーバーとかだと物理的に規制できるけど、結果的に。
「個人発信のコンテンツはどうあるべきか」が、ぼくにとってかなり以前からの課題だったし、最近の悩みでもあったんですが、先に結論。
「パブリッシュされるものである限り、個人発信といえどもパブリックなものであり、かなりの部分、既存メディアのコンテンツ発信ルールが適用されなければならない。」
…とまあ、当たり前なこと。ごくごく、ふつーにやりましょうってこと。
北海道新聞の方が書いている「ニュースの現場で考えること」というブログの、「駆け出し時代のことなど」という記事からの引用。駆け出し時代にデスクから教わったこととして、
「とにかく街を歩け。外に出ろ。記者クラブにこもるな」と言われた。「同僚記者と飲んで楽しいか? どうせ飲むなら街の人、ふつうの人と飲んだ方が何倍も楽しいだろ」「群れるな。記者が群れているのは見苦しいぞ」「小樽みたいな小さな街だと、1日3人は新しい人に会え。それも、会って名刺を出したとき、名刺を返さないような人(名刺を持っていないような人という意味)に会え」。そんなことを繰り返し言われた。沁みた。引用続く。
メディア(=伝える立場)には、3つの責任がある。
1.自分にたいする責任
2.情報源にたいする責任
3.伝える相手にたいする責任
マスメディアはもとより、ネットで何がしかの情報発信をする個人をも、この責任を負っている。
あ、1時間後じゃん。
こないだの日曜日(1月29日)夜に放送されたNHKスペシャル シリーズ同時3点ドキュメント 第2回 「移民漂流 10日間の記録」。すごく面白かったので、観てないひとはどうぞ。
再放送がまもなく。
2月1日(水)午前0:15?1:07(31日(火)深夜の放送です。)
見てて、ぞくぞくしました。リアル。賛成票に1票ですっ!
「ブログという紋きりパターン」を信じ込んでいる人たち。
「ブログというのはこういうもの」云々。
まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
マスに対し一斉に送出するテレビなら、そういうメタ的な話というか、成立しうるだろうけど、いろんなとこに住むいろんな価値観を持ったいろんなひとがいろんな動機でやっているブログを、「こうだ!」とスパッと定義するのは難しい。
だいたいブログって文化だっけ。あ、文化か。文化ね。てっきり道具だとばっかり。。。
『ブログキャスター』という雑誌を本屋で見つけたときは、「おっ」と思った。
手にとって、ぱらぱらと読んでみた。
…つまらない。
素直にそう思ったけど、ネタに購入。家に帰って、もういっかい読んでみることにする。印象が変わるかもしれないし。
2002年から、関東寿がきやファンクラブ掲示板というのをやっていたけど、さっき、書き込み禁止にしました。
奇跡奇跡といまTBSの番組がうるさいけど、ぼくは奇跡の逆転なんて信じない。
カミカゼ頼りはノー天気な日本の悪い癖。必死の体当たり、無駄死に攻撃でもすればいいのか?
そんなこと求めてないから、やることやってくれ。頼むから。
明日のクロアチア戦、ぼくは冷ややかに試合を観察する。果たして彼らは日本代表の名に値するファイトをするのか否か。
サムライブルーって電通の戦略?
…と題したコラムが、朝日新聞の1996年05月31日紙面に掲載された。筆者は編集工学研究所長・松岡正剛氏。
2年後には,日本のSNSにも中高年層がドッと押し寄せてくる。?若者の社交場のはずのMySpace,実は中高年層のたまり場に
たぶんきっと、そうなるよねえ。。。その事実に愕然としているのが中高年層だというのもまた、何だよねえ。。。
前は、時代の流行だとか風俗だとか、若者が作り出すものだったけど、主役は交代したんだろうな、すでに。それがいい・悪いではなくて。
昨夜23時からのNHK総合でOAされた30分番組。面白かった。
mixi日記に書いたものの転載。
「Web 2.0は使われない」というエントリーから。
「Web 2.0」の根っこにある検索ってどうにかならないのかなあ、とか思ったりもする今日この頃。なんか、Googleですら使えないことが多いんですよね。たとえば、この前、Macのハードディスクを交換して、気付いてみたら、メニューバーのフォント周りがおかしくなってたとき、"Mac フォント サイズ"ってググったら、…そですね。どこもかしこもCSSの話で辟易した
の私。まあ、そりゃ、検索キーワードも悪いし、Web上にはCSSの話が多いだろうけどさあ。現実世界じゃCSSの方がマイナじゃん、とか思って、ちょっと辟易なのです。
情報過多で、しかも、偏りの度合いがものすごい
のが現状って考えると、「Web 2.0」とか呼ばれているものはもっと研ぎ澄まされないとダメかなとか思った。
「格式」の格ではなくって「人格」の格ね。
ニュースには序列がある。と僕は思ってます。
トップは政治部。次いで社会部(サツまわり)。ちょっと下がって経済、かなり下がって家庭・生活・学芸あたり。…各社そんな感じじゃないだろうか。
報道組織の「中の人」じゃないので、あまり詳しくは知らないけど。
ブログに記事を書いたらお金がもらえるというサービスがありますね。ぼくも試しに入会してたとこがあったんだけど、このエントリー書くにあたって…あ、今年3月に退会してましたスミマセン。結局、なにも書かなかった。だってつまんないんだもんネタが。
どうも書きたくなってしまった。「ブログというメディアが負うべき責任について考える」を読んで。
全てのブログはどんなに小さくても「メディア」であると捉えているので(ナノメディアという言葉があるように)、「ブログがメディア化」という表現にはどうも抵抗を感じてしまいます。
で、メディアの責任は以前書いたこれだと思っている。今でもそう思ってる。
メディア(=伝える立場)には、3つの責任がある。
1.自分にたいする責任
2.情報源にたいする責任
3.伝える相手にたいする責任
マスメディアはもとより、ネットで何がしかの情報発信をする個人をも、この責任を負っている。
別の言い方をすると、「まず、自分を裏切っちゃいかんですよ。で、取材先だとか情報ソースを裏切ってもいかんです、それから、読者とか視聴者とかを裏切ってもいかんです」です。当たり前のことに思えるんだけど、じっさいにはこの3つをちゃんと成立させることが難しいこともあって、また、どっか1つに偏りがちになってしまうこともあって、そのへんのバランスのとりかただとか、あるいはそもそもバランスをとろうとする意志だとかが、メディアとしての責任としてあるのだと思う。
(たとえば暮らしの中でAさんがBさんから聞いた話をCさんに伝える場面を想定していただければ)
某放送関係の底辺の人からでした。もうやめるかもしれんけど。
こちらで断定されちゃった。。。
ブログのコメントには匿名で悪口を書かれたり、広告を書き込まれたりするくらいで、もはや対話の仕組みとして機能していないのが現状だ。コメント機能を停止しているブロガーも多く、ブログを使った執筆者と閲覧者のコミュニケーションは事実上不可能になっている。
この手のハナシには慎重にできればスルーしたかったけどいかん書きたい衝動に。あとで後悔しなきゃいいが。。。
以前、某放送関係の偉い人と話してるときにブログの話題になりまして、なかば叱り口調で言われたことが忘れられません。
「偉い」にどれだけの意味を込めてるかはわからないが。
『それだけPVや登録者があったら、おまえの胸三寸で動かすことじゃなくなってるんじゃないの?』
胸三寸で動かせるなら動かせばいいじゃん。個人メディアだもん。
うちのブログは月間30万PVくらいだけどポッドキャストは6万件くらい登録があるし、言われてみれば確かに田舎のケーブルテレビやコミュニティFMくらいの影響力は持ってるのかもしれないのです。そんな規模でも傍若無人に振る舞っていいのはパリス・ヒルトンくらいかも。
田舎のケーブルテレビやコミュニティFMくらいの影響力だったらゼロに等しいので傍若無人に振る舞っていい。が雑誌でかりに6万ならこちらを見る限り、BOMB(ボム)、月刊PLAYBOY、ラピタ、駱駝、マックピープル、SAY、デジタルCAPA、鉄道ダイヤ情報、MJ無線と実験…あたりに匹敵する影響力を持っていると言えるのかもしれないがやはりメディアの違いがあるのでそう単純比較はできないだろう。
もちろん、メディアとして大きくなるほどそうそう気楽にモノが言えなくなるというのはその通りだけど。
数が命なら素直にテレビ(田舎のケーブルテレビじゃないよ全国放送のゴールデン枠)を目指せばいいじゃん。
TrackFeedでこのエントリーを把握する前提で。
このブログは場末な感じでひっそりやっていきたいからときどき長期間放置もするし書いてる本人としても時に地雷域に踏み込んだかななどと冷や汗かきかきやってるので何でわざわざこんな苦行みたいなことをと思いつつも更新。
日光が体に悪いって本当なのか疑惑。
…って、誰誰?
おしえて?峠せんせーい!(←NACK5ローカル)
フロンティアNEXTによると、ブログの月平均ページ・ビュー(PV)数は一般的なブログが300?500PVであるという。それに対し、同社の所属ブロガーが運営するブログは20万PV以上あり、「有力ブログのなかでも圧倒的に影響力がある選りすぐりのブロガー」(同社)。
参照元:フロンティアNEXT、有力ブロガーによるPRサービス「ブロコミ!PR」
※悪徳商法?マニアックス ココログ支店で知りました。
「ウケることを書く」というのは、ネタ決めを外注していることになる。
「これを書きたい、伝えたい」という内在的な欲求から発信に至るのがメディア人のありかたであるべき。
じつは以前、某新番組で「ニュースの人気ランキング」を企画したのだけど、「視聴者が見たいニュースを見せるのではなく伝えるべきことを伝えるのが報道番組のあり方だ」として却下され、細々とウェブだけの投票になったことがある。当時は納得できなかったけど、いまでは納得できる。ネットでウケ狙いだけがもてはやされている現状を見るにつれ。ときに危ういなと思うことがある。まあ、リテラシーも経験からってことで、試行錯誤も必要だとは思うが。ウケ狙いはどうしても一極集中して狭いところに殺到しやすいし、副作用にも目を向けないと。
※某ネコ写真ブログを見て感じたこと。「かわいいー」だけでは済まないところもあるように思う。
自律的にネタを決める。ウケるかどうかわからないけど、これを伝えたい、伝えるべきだと思ったことを書く。そうあるべきだと思う。健全なコミュニティ、価値観を共有する仲間を見つけるためにも、「個の矜持」は守っていったほうがいいとぼくは思う。
OBIIの忘年会では「新しい面白い人がいないのでは…」、京都山科でのブロガー忘年会では「今年のネット界は、結局何も新しいものが出なかった」という話になりました。 [ マスメディアの凋落、ネットの行き詰まり、2008年を振り返る - ガ島通信 ]
瞬間消費財か。
…いろいろ言いたいこともある気がするけど言葉にならない。少なくともこの発想じゃだめだ。
マスメディアはリアルをがっしり捉まえられているだろうか。どうもそう思えない。間違った現実を映し、間違った方向に導こうとしていないだろうか。どうしてこうなっちゃったんだろうか。
マスメディアはリアルをがっしり捉まえられているだろうか。どうもそう思えない。間違った現実を映し、間違った方向に導こうとしていないだろうか。どうしてこうなっちゃったんだろうか。
…は、よもや行われていないだろうが。
結果的には「派遣切り」企業経営者にとって都合のいい風潮になっていやしないか。
ラジオでDJというかパーソナリティというか、社会問題政治問題経済問題について「モノ申している」のを聞いていると、ちょっとマイナスな気分になってくる。なんでかなあ。
えらそーである。
表層的である。
なのかな?よくわかんないけど。
人のブログを読んでても、おんなじ気分になってくる。
だから、社会問題政治問題経済問題についてモノ申すのは、できるだけ控えることにしようと思います。
未成年の東大生、飲酒運転による事故をmixiで自慢 - 探偵ファイル
未成年の東大生? mixi日記で飲酒運転告白 東大「事実なら厳しく対処」 - ITmedia News
最近多いこういうの。mixi日記をネタにした記事。
・公開日記でヤバいことを書くな。
・そもそもヤバことをするな。
は建前。
ホンネは「ウッシッシ」ではないのか>この手のネタを探してmixiをうろついてるメディア関係者(?)。
こういう事件性のあるネタでなくても、なんかのニュース記事について書かれた日記を収集して、「ネットではこういう声もあがっている」式にまとめることもよくあるよね。
mixiはいつから彼らのドル箱になっちゃったんだろうなあ。
ぼくも職務上、mixiを使うことはあります。情報収集したりね。だから、まああまり人のことをいえないという立場ではありますけど、でもねえ。なんだかなあ。
「素人の揚げ足をとって金を稼ぐのがプロの仕事か!」…まとめるとそういうこと、かな?
まあ、たしかにおっしゃることはごもっともなんですけど。なんでこの方々はこういう狭く閉じた世界に居続けるのかな。いや、そう見えるだけなのかな。でもさ、聞く側も聞かれる側も、何年経っても同じ面々って、どうなのよ。
なんかさ、世の中移ろって、郊外に巨大ショッピングモールとかできて、繁華の重心が昔と変わっちゃってるのに、いまだに駅前シャッター商店街が世界の中心的な思い込みを続ける、みたいなことってないですか。
すいませんえらそーなこと言っちゃってからに。でも、なんとなくそんなような違和感、感じるんですよねえ。
「文壇」
的な何か。
…と、「PVよりも大事なのは“自分”の深掘り/いちるさんのブログ論(第12回)」をざっと読んで感じたこと。
晩飯を食べながら、また、酒を飲みながら、テレビを見る。さいきん、地上波が辛いので、テプコケーブルテレビ(※)のコミュニティチャンネルでローカルなニュースや風呂めぐりを見ることが増えた。低予算だし、同じ内容を何度も再放送しているので、つまらないといえばつまらないのだけど、地上波とくに民放を見るよりまし、と思うことが多い。
これはいったいどういうことなんだろうか。
一方では、民放の番組制作において、低予算な番組づくりの方向性が間違っているのではと思ったりする。とにかく見てて辛い。なんでゴールデンにこんな番組ばかり持ってくるんだと思うことがしばしば。もちろん面白い番組もあるけどね。
もう一方では、テレビにさほど上質なものを求めていないという、一視聴者としての自分を感じたりする。いつからなのか、もともとなのかわからないけど。だけれども、ドラマなんかの「作り物」にはそこそこの質、金のかかった「作品」を求めている感もある。なかなか難しい。
※テプコケーブルテレビ:いまは名前変わったらしいけど。
日々、地方紙記事(含全国紙地方版)を見てネタ拾いをしていると拭えない疑念。はたして新聞記事というのはリアル社会を反映させているというより、むしろリアル社会と乖離した世の中、一種のパラレルワールドを紙面に構築させているのではないか。ぼくらはメディアを通じてぼくら自身を認識しているので、ぼくら像が彼らによって歪められているのではないか。公益性の仮面をかぶった私利私欲がいかにもそれらしい衣をまとって紙面を飾る、ある種の利権誘導に加担しているというより最も有効な装置として機能しているのではないか。基本的に「お代官様メディア」であり悪名高い「大本営報道」の時代から本質変わってないのではないか。それを彼ら(←基本は現場記者とデスク)はどれほど自覚しているのかいないのか。
こないだ週刊朝日を買って読み丸山タケシというコラムニストがテレビドラマを「メッタ斬り」してる文章を読んでこりゃひどいと思った。いまどきこんな文章ネットでタダで読めるレベルだというかむしろネットでシロートがノーギャラで書いてる文章に劣るとも。いまライター稼業はこんな比較のされかたをされてしまうから大変だなあと同情もするがしかし文字だけで食っていくのだからそれなりの才覚は必要だろう。
もともと雑誌を買わないのに最近さらに買わなくなって、買ったと思ったらこれで、しかし考えてみると雑誌のレベルも低下したかもしれないけどむしろ相対的に下がったというか、ネットで良質な文章が読めるようになったからだといえなくもない。
うーむ雑誌も大変だと思ったけど、そうだ逆に、ネットの良質な文章をかきあつめて雑誌作ればいいじゃん!アウトプットとしては週刊誌でも月刊誌でもいいけどとにかく現役雑誌編集者ライクなeditで、表紙も紙質も。グラビアはFlickrあたりから持ってきて。コラムはブログで足りるだろう。スクープというか取材記事というかは少し知恵が必要だけど業界インサイダーの書き下ろし的な文章とかどうだ。編集には才能が必要だけど原稿料は圧縮できるからコストダウンになるのでは。
あ、以前、たしか東洋経済だかが雑誌出したことありましたけど、あれは編集が残念。
[Twitter,イラン騒乱でソーシャルメディアの主役に]…のような「Twitterフィーバー」が生まれている。
(#iranelectionの発言一覧は↓)
#iranelection - Twitter Search
ぼくはこう書いた↓。
イランの件、よく調べたわけでもなく勝手なつぶやきですが、なんかキナ臭い気がする。 #iranelection [ link ]
たとえば政治的な操作がなにげに介入してたとしても僕らはそれを区別できない。 #iranelection [ link ]
政治的操作に限らず、世間の注目が集まるところにはまたそれを利用しようとする勢力も集まる世の習い。 #iranelection [ link ]
Twitterパワーに注目し、それを利用しようと考える人はいま、全世界じゅうにいるだろう。当然ながら善意の一個人、一市民に限らず、テロリストなど僕らにとって危険と思われる集団も。
かつての戦後占領期、日本国内で共産党の猛威が吹き荒れた時代があった。彼らは革命を起こすために社会に混乱を発生させようとし、工場の機械のメンテナンス中止を呼びかけたり、職場放棄&上京を呼びかけたりした(→その煽動に乗せられた結果、多くの方が職場を失ったという話だ)。当時Twitterがあれば、彼らは使っただろう。もしかしてTwitterパワーによって革命が成功したかもしれないし、いまの日本とは全く違う日本になっていたかもしれない。
Twitterは、危険なツールだ。…特定の職務につく人たちは、今回のイラン騒乱(…という名称でいいのか?)を通じて明確に認識したに違いない。
…という認識も、いっぽうであっていいのではないかと思い。
※「かつての戦後占領期」云々のくだり、改めて事実確認したわけではないが、以前に調べた記憶に基づいている。事実誤認が含まれているかもしれないが、おおむね間違ってはいないはず。
いま、日本国内のメディア分布はテレビに極端に偏った構造になっています。たぶん。
メディア分布というのは勝手につけた適当なネーミング。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍、映画、そしてインターネットといろいろある中で、受け手の多さ(全国くまなく老若男女)、それに連動してメディアとしての影響力の強さと、流れ込むカネの多さ。
(テレビと一口に言っても、圧倒的なのは地上波全国放送に限られます)
ふだん作り手として視聴者の数を意識することはありません。見えないから。マスに向けて流すという意識は持っていると思いますが。
かつて国民的人気を誇ったとある番組の立ち上げ期にホームページを担当したことがありました。そのときはまだ国民的人気というほど安定した視聴率ではなかったのですが、番組あてに届くメールの数がハンパではありませんでした。毎晩、通常業務を終えてからせっせせっせと返信を打っていました。多くは再放送の問い合わせなどテンプレ処理できる内容のものでしたが、それでも間に合わず、たしか1千通ぐらいの未処理メールの山になってしまいましたが、あのときばかりは目に見えない視聴者の数を実感できました。貴重な体験でした(どんな番組でもこのように山のようなメールが届くというわけではありません)。
さて、テレビに偏った分布を正そうというか、ぶっちゃけ、「君んとこばっか独り占めしてないでこっちにもよこしてよ」というのがいまの潮流であると思います。利益再分配ですね。
デジタル化の本質は、アナログで使いすぎているテレビの帯域を通信向けに再分配すること(ですよね)。ディレイ(遅延)が発生するために時報はなくなります。これはテレビの、テレビならではのリアルタイム性という特徴を失うことになり、津波速報などで人の命にとって致命的な結果をもたらすことになると思っていますのでぼくは大反対なのですが(津波では1秒が生死を分けます)。
モニターも、ブラウン管のほうがずっと美しいのに液晶というのは、「テレビなんてこんなもんの画質でいいでしょ?」と言われてるような気がして。有機ELの時代にならないかな早くと切に願っております。
このメディア再分配はほんとうに意図したようにうまくいくのでしょうか。ネットだって最重要ソースは結局テレビ。マクドナルドでオバさん2人が「みのさん」の話題で盛り上がっているのと根は一緒。テレビにぶらさがって成立するネット言論界。「旬の焦点」が定まればネットイナゴよろしく、直射日光の虫眼鏡よろしく、一点集中で焼き尽くしてしまいます。
ネット中継だって「ごっこ」、テレビの安直な再現にすぎません。
だから、テレビ自身は一点に集中するのではなく、分散して事象を照らしていくべきだと思うのです。
いわゆる調査報道の重要性は高まる、というか、高めていかないといけないと思います。
それが責務。
うちの小学生から新聞記者ごっこの宿題プリントを見せられた。テーマを自分で設定し、5W1H(プラスアルファ)の各項目を埋めていくものだった。
5W1Hなんかどうでもいい、いちばん大事なのは何を伝えたいかだ。なにに「おー」と思い、なにを感じ、読む人に何を伝えたいかだ。
というようなことを力説したが、伝わったか?
…ほんとは5W1Hも大事ですよ、でも、それを埋めれば記事になるんだったらロボットでいいじゃん。
みんなが情報発信すれば、いろいろな問題は生じるだろうけれど、基本的にはいいことで、ウェブによって世の中はどんどんよくなっていくと信じられていた。そうした純真無垢な進歩思想の時代はどうやら去り始めた。 [ 「ネット失望の時代」がやってきた - 歌田明弘の『地球村の事件簿』 ]
同意。
以前ある仕事関係(テレビ)の方に、ぼくがブログをやっていることを批判的に言われたことがあった。「なんて破廉恥な」…みたいなニュアンスだったと思う。ちょっとショックだったけど、ブログ、って、そんなものでもあったりするよね。
ぼくはブログ(Web Log)が出てきたとき、これは便利だと思った。すでにサイトはやっていて、Dreamweaverとかでいちいちページ作ってFTPして…というプロセスがめんどくさく、ブログだったらその手間が省けるから、中身(取材と執筆)に専念できると思ったのだ。じっさい、書く量は増えたと思う。ぼくにとってブログは日記ではなくツールだった。でも。
手軽に書けることが、ぼくらの「正体」を暴露した。もともとぼくらはそんなにお上品な存在ではなかったのだが。なんか、これまで鏡を知らなかった原始人が鏡で自分の顔を見てぎょっとしたような感じ。
ぼくは「どんどんupしよう!」という主義で、その意味を込めたアイコンもデザインして使っている。でも、最近どうも…書くのはまだいいんだけど、画像が。
撮影って世界を手中に収める行為じゃないですか。征服欲の発露ですよね。エゴですよね。なんかそのいやらしさを自覚することなく隠すことなくうれしそうに。家族写真もある種、父権を振りかざした家族の征服。
いや話がずれたぞ。
時代というのは…歴史というのは代々の為政者を軸に語られてきましたが彼らはたしかに歴史を動かしたかもしれませんがその陰に多数の庶民が面々と営みをつむいできたように、スポットライトが当る時代を語る部分というのはインターネットでもごく一部にすぎないわけで、インターネットの本来の魅力というにはむしろ日の当らないところ、世界中でも同好の士が極めて少ない趣味の情報の交換だとかそういうことにおいて衝撃的だったのです。ぼくがインターネットにさいしょ感動したのはDune Buggyの個人サイトin英米にダイレクトにアクセスできるという点で、これはどのメディアにもかなわない。ぼくはだから地味なところをあくまで追求していきたい。インターネットが豊かになるというのはそういうことだと思う。
政治は権力。
メディア内においても、政治部は権力。
おそらく、1.政治部、2.社会部というエリート構造はテレビ新聞各社同様かと。
仮説としては、同様のことが一般市民にも適用されうるのではと。
メディアに話を戻すと、政治部と社会部が報道を牛耳ってる構造は旧態依然、伝えるニュースの取捨選択にあたっては各ニュースの重要度よりも優先されているのではないかという気がする。
彼らは、ぼくらが本当に知らなければならないことを優先的に伝えているのだろうか。それとも、自らの保身を優先しているのだろうか。
映画のロケが各地で宣伝に利用されるようになって久しい。
いや、最初からそういうものだったかもしれず久しいかどうかはっきりわからないけど。
なになにという映画がどこそこで撮影されました、という謳い文句で集客する。映画という集客ツールに便乗しているわけだが、しかしただ映画が撮影されたというだけで客が呼べるというのはどんなもんか。映画は宣伝道具に成り下がってしまったのかと、まあ映画ファンでも何でもないんだけど。
映画に限らない。テレビでもそうだ。ドラマに限らず、テレビが取材に来ました的な宣伝文句で集客をはかろうとしたりする。
「飛んで火に入るNHK」…これは実際に目にしたフレーズ。
でもそれでほんとにいいんですかね。テレビにしろ映画にしろ宣伝メディアとして利用しうるし、箔付けにも利用しうるんだけど、それでやってくる客って多くは不特定多数、浮気な浮動票。そこから固定票をつかむ糸口にするという考えがあるにしても、いつしかそれを忘れ、いっときの集客にうつつを抜かし、気がついたら何も残らない、ってことになりませんか。
インターネットは「オンデマンド」と「多様性」が最大の魅力だと思っている。既存メディア…といってもいろいろだけど、少なくともぼくがもっぱら働いているテレビメディアとはまったく異なるし、だからこそ面白い。テレビはピラミッド構造のいわば「△」、対するネットは頂点も底辺も存在しない、等価値のいわば「○」だと思っている。
世界には中心や頂点がある、という考えは、古いものだと思っている。たとえば東京と地方。これまでの価値観であれば東京が中心だったけど、かつて長渕剛が「とんぼ」で歌ったような「花の都、大東京」というイメージは、若い子を中心に薄れつつある。「ビッグになる→上京する」なんて馬鹿らしい、自分が生まれ育ったこの地元で夢を実現していこうよというのがこれからの主流の価値観になるだろうと思う。
たとえばステイタスとしてのクルマ。かつてクルマは豊かさのシンボルで、「いつかはクラウン」的な価値観が存在した。ぼくが免許をとった20年前は、貧乏な若者はミラージュやファミリアをまず手に入れて…みたいな構図があった。路上は一見平等に見えながら、実際には高級車が威張り、軽があしらわれるといったヒエラルキーが存在した。でも、いまの若い子は、そんな象徴としてのクルマの薄っぺらさに気がついてしまったのだろう、クルマ離れは止まらない。
かくして世界はフラット化していく。
が、フラットであるはずのネットに、山や谷を造成しようとする、あるいは造成したいと願う人々がどうやら存在するらしい。彼らの目標もしくはライバルは、既存メディアとくにテレビであるようだ。いずれはテレビにとってかわる存在になりたいらしい。テレビというピラミッドの最底辺(…よく言えば登竜門?)として位置づけられたいのか、もしくは今のテレビの一機能をそのまま置換したいのか。
たとえば、Twitterはインターネットらしいサービスでありながら、ライブ性をその特徴とする。それが多様にバラけているぶんにはいいのだが、じっさいには、ごく一部の「ネット有名人」にフォローが偏重している。そして、あたかも中心と頂点が存在することを前提としているかのような発言が散見されるような気がする。あくまで気がする、という程度で、具体的な指摘はできないのだが。そしてそれは、すでに「できあがった」、ブログ「村」的なコミュニティの構造をさらに固定化しているような、気がする。
あたかもそれは、市の指定業者が年を経るごとに癒着度合いを強め、新規参入の壁となるという、なんとも自民的な構造を想起させてイヤらしく感じる。
フラットでいいじゃん、とぼくは思うのだけど。
でもきっと、誰もがそれを意識的にやっているわけではなく、無意識のうちに、いわば集合知?的なものとして生まれ育ったものだろうと思う。みんなが熟成した気分、というべきか。たかが気分、されど気分。気分に抗うことは難しい。気分の正体もよくわからないし。でも、違和感があればそれを表明しておきたいと思った次第にて。
(これは特定の個人を指した言説ではまったくありませんので、決して誤解なさらないように。ぼくはトレンド的なことを指摘したいだけで、他意はありません)
※さて今日は衆院選の投票日。どうなることやら。
「つながる」が一世風靡した時があった。あれは…ブログというワードが期待を込めて語られた時だったと思う。コメント、トラックバック。ブログは「つながる」ためのツールだった。
そして…mixiやfacebookといったSNSにtwitterと、「つながる」ツールはさらに進化した趣で、「さあ、つながろう」と期待をこめて呼びかける人も出てきた。
が、既視感にとらわれ、いっぽうで絶望的な気持ちにもなる。あの頃、少なくともぼくの試みは失敗に帰したから。
つながってみたら、期待とは裏腹な現実に打ちのめされた。落胆した。がっかりした。
でも、ぼくが間違っていたからかもしれない。期待のしかたが、違っていたのかもしれない。で、やっぱりぼくは、こりもせずにつながろうとする。
以前とは違う期待を模索しつつ。
いまネットの主役(?)はTwitterとSNS。いずれも「流れゆく」性質のものだ(いちおうフロー・コンテンツと言っておく)。
一方、2ちゃんは一見流れゆくように見えるけど実はそうじゃない。あれはブログと同じくストック・コンテンツ。
フロー・コンテンツは、流れる川に浮かぶバブルのように、水面に浮かんでは消える。浮かんでいるのは今だけ。井戸端会議のように、いつか消えてなくなる賞味期限つきのコンテンツ。
その意味を考えてみた。それぞれの発言じたいに価値があるんじゃない。発言している人じたいに価値や意味があるんだ。
つまりは属人的コンテンツ。「あの人が言ったから…」から、「あの人」の価値や意味が高くなったり低くなったりする。
どんな素晴らしい(もしくは下らない)発言があったかではなくて、それを言ったのは誰かで価値や意味が決まるということ。
結局、「誰」というのが価値評価の基準となるのが、ネットコンテンツの終着地点。なのかな。これは明らかに2ちゃんとは違う。そして、テレビによく似ている。
Twitterは輿論か世論か。
少なくとも日本国内ではいまのところTwitterユーザーは限定的。一部の人しか使っていない状況から、輿論的空間と見ることができるかもしれません。
だけど、これがもし仮にひろく一般大衆のツールとして普及したらどうなるでしょうか。
Twitterは熟慮の末に紡ぎ出される責任ある理性的意見というよりはむしろ、反射的かつ情緒的なつぶやき(ホンネ)に向いたツールですから、本質的には世論的空間でしょう。
と考えると、Twitterの大衆化によって、「無責任かつ無軌道な煽動ツール」に変貌してしまう可能性があります(←いまはそうじゃないという仮定での表現)。その意味では、Twitterは危険性を秘めたツールであるかもしれません。と、自戒をこめて書き記しておきます。
もちろん、そうならないほうがいいに決まってますが。
なお、輿論と世論についてですが、『輿論と世論』を読むと、
・世論とは世上の雰囲気、責任ある輿論とは異なるもの
・輿論=意見、世論=感情
・輿論=理性的討議を中核とする市民的公共圏、世論=街頭での情緒的共感から生れる大衆的公共圏
…等と説明されています。
今夏多発する熱中症死、エアコン嫌いのせいだとは思わない。少なくとも主因だとは思わない。暑さの質が変わったとも思わない。純気象問題ではなく、暑い町・暑い家を作り出した経済・効率優先の日本の問題で、天災ではなく人災だとぼくは思う。と思うのは、いま住んでる家が森に面する風通しのいい設計で、ある程度エアコンなしでも快適だから。前住んでた家はひどかった。 町に緑や土や水を増やし、風通しのいい家を推奨すれば事態は改善するのでは。エコでもあるし。というか温暖化ならやらなきゃまずいし。メディアがなぜそういう視点を伝えないのか。と、ぼくはツイッターで書いた。 ([ link1 ][ link2 ][ link3 ][ link4 ])
お盆の渋滞予測報道についてはこう書いた。
首都高も東名下りもガラガラ。帰省ラッシュビークという“見込み”報道は実態と違う。最近よくあるパターン。[ link ]
今日の東名上り渋滞、事前予測と実態推移を比較。場所によっては渋滞ピークが予測よりも早く、全体的に抑制的(予測より渋滞激しくない)。明日もこの傾向が続くと見て計画を立てる。[ link ]
今日朝早くに帰省先を出たがほとんど渋滞なく昼には埼玉着。午後も東名大した渋滞なかった模様。昨日今日、この盆時期の高速渋滞予測は結果的大外れ。渋滞伝えるニュースも誤報に近い。ひでえ仕事だな報道。[ link ]
地デジについても不満がある。多くのデメリットをなぜ伝えないのか。テレビはともかく、新聞や雑誌も。
報道はいまや、プレスリリースを右から左に流すだけの思考停止機能化してしまったんじゃないだろうな。
「ネット界で評判」だとか「ネット界で人気」だとか、はたまた「ネット上の世論」だとか。たとえばこんな。
民主党の代表選挙は、これまでに前例のない展開になってきた。新聞・テレビなどの大手メディアと、それ以外のメディア、特にネット上の世論が大きく分かれているのだ。はたしてネット界とは何か、そしてネット上の世論とは何か。
[ link ]
こないだテレビを見てたら、被災地の仮設住宅の話をしていた。画面に、仮設住宅の窓ぎわに干した洗濯物が映っていた。いちばん手前は男モノのパンツ(トランクス)だった。
それを見て思った。
もしぼくがこのパンツの持ち主(履き主?)だったら、この映像を見て、嫌な気がするだろう。自分のパンツが干されてる映像を全国に流されて、喜ぶ奴はいないと思う(変態以外は)。
カメラマンも、ディレクターも、編集マンも、プロデューサーも、それに気づかないのだろうか。
…うん、気づかないんだ。彼らは、被災地の話を単なるネタの1つとしか思ってないから。
つまり、表面的にいくら被災地に寄り添うかのような編集をしコメントをしていたとしても、内心はそんなこと思ってないんだ。
冷たい連中が作った、冷たいテレビ番組。
久しぶりに思い出した。
かつて、テレビと視聴者をインターネットで「つなぐ」現場にいたことがある。当時のぼくは最前線にいたといってもいいかもしれない。
「つなぐ」とか「つながる」とか、今ではすっかり陳腐な物言いになってしまってる感もあるけど、当時はまだ新鮮な響きをもっていたと思う。
視聴者とつながることで、テレビは変わる。その可能性とインパクトを、当時のぼくは楽観的に信じていた。
ふたを開けて、ぼくらは落胆した。がっかりした。
視聴者からのドアを通じて寄せられたのは、吐き捨てるような番組批判だった。
番組批判、番組批評じたいはまったく問題ない。番組がつまらなければ、正直につまらないと言ってもらって一向に差し支えない。
問題なのは、「吐き捨てるような」という部分だ。
そこで気づいた。ぼくら(テレビ番組と視聴者)は、お互い高めあっていけるような、そんな関係ではなかったんだと。視聴者にとってテレビ番組とは自分をいっとき楽しませてくれる数多くの選択肢の1つにすぎず、つまらなければチェンネルを回したり、あるいはゲームとか別のことをすればいい。
別の言い方をすれば、視聴者はカオナシだ。おいしいものを呑みこむだけ呑みこみはするけど、ただそれだけ。建設的なアウトプットなんか最初からする気がない。せいぜい、食えなかった部分を吐き出すくらいだ。
あれから何年も経った。
いまはどうだろうか。テレビと視聴者との関係に、何か変化は起きただろうか。視聴者は、「顔のある」存在に、少しでもなっただろうか。
テレビは本質的に生放送のメディア。テレビの持つ「引力」は元々は生放送の「筋書きのないドラマ」だとかハプニングだとかだった。それを、年がら年中、引力を発生させようと奮闘しているのが昨今の演出。重力のないところに無理くり重力を発生させる、その手法ってどうなのかと思う。
時代遅れじゃないか?
テレビの番組制作に従事しながらも、テレビについて思うこと。
これまで印象に残っている、テレビを見る光景。
1.山奥の定食屋。がらんした店内で、テレビの音声だけが流れている。国会中継だった。どっかの老人(じいさん)が、テレビに食ってかかっていた。政治に言いたいことがあるらしかった。
2.自治会の打ち合わせで行った、近所の老夫婦の家。狭く雑多な家の中に、テレビだけがどっかりと存在感を示していた。ふだんこの老夫婦はこの空間でこたつでお茶を飲みながら、ひたすらテレビの画面だけを見ているようだった。
3.ぼくの生まれ育った実家。大画面液晶テレビに大音量で流れる音声。深夜、マッサージチェアでうとうとしながらもテレビを見続ける父。
…と、どうしようもない場面ばかりが思い出される。年寄りが、薄い日常を生きながら、テレビが垂れ流すエモーションにかろうじて下支えされている、ちっとも生産的でない、ただ消費しつづける光景。
こんな世界で評価されたって、何がうれしいものか。
3.11で、日本が「風評の国」であることを知った。
風評が人々の(消費)行動や大金を動かす構造は不健全だと思うのだが。
追記:2012-09-17 17:18
グローバル化が進むほど、風評は拡大するだろう。
普通の暮らしをする普通の人々は、自分が日々営む日々の暮らしでだいたい精一杯である。大半の人は多少怠けてもいると思うが、多少怠けて、結果精一杯ぐらいの暮らしを、みな過ごしていると思う。
つまり、自分の日々のあり方に根本的にメスを入れる気はないし、そんなにヒマでもない。
自分が直接関係すること、つまり、最近ガソリンが高くなったなとか、冷蔵庫の冷えが最近イマイチだなとか、さてどこに買い物に行くかなとか、そういうことに思考の約9割以上を使っているので、自分が直接関係しないことには残りの1割しか思考を使わない。
だから、テレビや新聞やツイッターのいうことを鵜呑みにしたりとかするのだ。別にバカだからじゃないのだ。考える能力はあるけれども余裕はない、もしくは、効率的な頭脳の使い方をしているだけなのだ。
実際問題どうなろうと自分には直接関係ない(と思える)事柄には、あまり頭を使いたくないだけなのだ。
ということは、風評から抜け出すには、自分に直接関係あることになることだな。
朝日新聞2010年9月19日付「声」の欄。大事にとってあったもの。あえて全文紹介する。
「事件風化させぬ」何度も聞いたが無職 中村佑
(山口県下関市 69)2001年の米同時多発テロで、次男の匠也が犠牲になった。「事件を風化させないためにぜひお話を」。何度同じ言葉を聞かされただろう。
事件後1、2年は素直にそうだなと記者の言葉にうなずいていたが、やがてその言葉が非常に煩わしく聞こえるようになった。風化させぬ大義のため、あなた方の質問にしぶしぶ答えなくてはならんのか?ある時「私たち家族の中では絶対に事件は風化しません」と言い返していた。
多くの記者は「風化させない」という大義をかざして取材に来る。だが何人かはお定まりの言葉を口にせず、むしろ私の気持ちを軽くした。がんと闘い、死と向き合った後に復職された記者の言葉は優しかった。平和をたずねて日本中を歩き、痛哭のドキュメンタリーを出版された方の話には、私が身を乗り出した。
事件取材をきっかけに、今も折々連絡をくれる記者もいる。日本のメディアが総選挙に向いていた時も、「元気ですか」といたわりの電話をくれた。そして11日「変わりはないですか」と、その記者は電話をくれた。巡ってきた9度目の11日を、重たい気分で迎えていた私の心が一瞬はずんだ。
ぼくが片島紀男さんと一緒に仕事をさせてもらったのは20代。一度きりのことだったけど、強烈な経験だったから、忘れっぽい僕でもよく覚えている。
片島さんはNHKのディレクターだった。別格だった。ガイコツみたいなおっかない顔をして、鋭い目つきをしているのに、笑うとすごくチャーミングな顔になった。
NHKの職員であったから、当然サラリーマンであり組織人ではあったのだけど、そういうところをまったく匂わせない、スタンドアローンな人だった。
自分の取り組む番組に、心底、打ち込んでいた。没頭していた。もうそれだけしか見えていなかった。しだいに妄想の領域に入ってしまったりして、僕らは一生懸命、片島さんを現実に引き戻していた。
1991年8月に放送した、NHKスペシャル「シリーズ・アジアと太平洋戦争」第3回「マッカーサーの約束 フィリピン・抗日人民軍の挫折」という番組だった。あとで知ったのだけど、これを制作途中、片島さんは思いつめた挙句、飛び降り自殺をしようと、NHKのビルの屋上に上がったらしい。そのとき、「紀ちゃん…」と呼ぶ奥さんの声がどこかから聞こえて、思い止まったらしい。
当時かなり能天気だった僕は、外の中華料理屋で晩飯を食べながら、聞いたことがある。こんな意味のこと。「片島さんはなんで歴史番組をやってるんですか?」
片島さんはこんな僕にも丁寧に答えてくれた。しばらく考えたあと、「時を経たからこそわかることがある」…そんな意味のことを僕に言った。
当時の僕は「ふーん」ぐらいにしか思わなかった。なにしろそれまで歴史だとか昭和史だとか戦争だとか関心ゼロで、はじめての歴史番組だったから。
あれから20年以上経った。多くの歴史番組で取材を担当し、今になってやっと、片島さんの言った意味がわかるようになった。
現在進行形の渦中にいると、自分がどういう立ち位置にいるか、歴史軸でどういう位置づけにあるか、わからない。自分史のなかでも、時間が経って振り返れば、「あああの頃はこうだったな」とわかるように、国家の歴史も、時間を経て振り返ってこそわかることがある。そこにある教訓、レッスンを汲み取ることができる。今の国家、今の僕らにもつながる問題が見えてくる。歴史は検証されなければならない。それが先人の努力にも報いることになるし、次の世代の肥やしにもなる。
天国にいる片島さんは、いまの僕をどう思うだろう。
片島さんのフィリピンみやげの鴨の木彫り、いまだに部屋に飾ってますよ。
※↓ツイッターで以前書いた。
時を経たからこそわかることがある、と、片島さんは当時若かった僕に言っていた。
先日、映画館で、スタジオジブリ・宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観てきた。
印象的だったのは、大正から昭和初期の日本の景色が美しく描かれていたこと。写真ではセピア色のモノトーンなイメージが強いが、フルカラーの当時の景色はこんな感じだったのかもしれないなあと思った。田舎も都市も建物も、とても美しかった。
主人公の堀越二郎はもちろん、同時代の人々がみな懸命に生きようとしていたのだ、というメッセージがしっかりと伝わってた。たとえば、線路の上を徒歩で都会を目指す人たちとか。
こんなに素朴で美しい国で、我々はただ、懸命に生きようとしていただけだったのに、なぜ、こんな無残で残酷で無様な結末(=終戦)を迎えてしまったのか。
なぜ、敗戦と同時に、これまでの一切、美しい記憶や、懸命に努力したこと、等々を全否定しなければいけなかったのか。
…というのが、宮崎さんより上の世代の胸中に、ごく率直な感覚としてあるように感じた。
まあ、懸命に生きた結果生じた負の歴史は当然描かれていないわけだが、正直で率直なところは好感を持ったし、素直に、いい映画だなあと思った。
観客には年配夫婦なんかもけっこう来ていた。彼らには映画で描かれた景色はとても懐かしいものに映ったのではないだろうか。
でも、ジブリアニメ見たさの若いママ+小さい子どもたちには、宮崎さんたちの気持ちは伝わらなかった、かもしれない。
ところで今夏の終戦報道は(あまり詳しくチェックしてないけども)ひどかった。「戦争の体験を風化させてはならない」とか、枕詞的に決まりきったことをリフレインするのだが、言ってる本人たち自身の内部で風化が顕著に進んでて、そんなこと口にしながら、実はよくわかってないんだろ、という印象がさらに強まった。
(とはいえ、ぼくも完璧に戦後生まれなので、同時代的な経験はないのだが)
なにか、これまでの「定説」「通説」を予定調和的に上からなぞるような、さらにそれを無批判・無自覚に強力ボンドで接着してしまうような、乱暴な言説。「世界を震撼させた特攻」だとか特に(安直にテンプレート化され神格化した「特攻」像?)。
…という現況から比較しても、地に足のついた、実感のこもった、率直な、いい映画だったと思う。
SNSは流れるタイムラインに表面的に反射するだけでいいので、「変わらないで済む」。自分の根本の考え方とかライフスタイルとかを。だから基本的には保守的なツール。
接着剤、とも言えるだろうか。
(良くも、悪くも)
ごくざっくりと一般的には、人はこの世界を自分が理解したいように理解する。それがいくら間違った理解であっても、人はそれを望む。
伝える場合も、人は自分が伝えたいように伝える。
だから、伝えたい人の理解も、伝えられる人の理解も、事実とは違ったものであっても、彼らがそれを望む限り、彼らの望むように理解され、そして納得され、あたかもそれが事実であるかのように接着され、揺るがぬ見方となっていく。
…という状況をぼくはあまり好きではなくて、「ほんとうのところはどうなんだ?」が気になるんだけど、まあ、みんながそう思っているわけでは、ない。
ただ少なくとも、メディアで伝える立場にいる限り、それには自覚的であるべきだと思うんだよなあ。
メディア、とりわけテレビや新聞、ネットのニュースが運んでくるのは、世界のどこかの戦争や紛争、事件事故、その大半が、自分とは縁もゆかりもない人物の、不幸な話だ。僕らは誰かの不幸に、常にさらされ続け、精神の不安定を余儀なくされている。
この世界のどこかで誰かが辛い思い、苦しい思いをしていることを、見て見ぬふりをしていいのか。誰かがそう言う。
だが一方、多くのメディアは無償のボランティアで制作されているわけではない。
誰かが不幸になる。それをネタに誰かが収入を得る。それに接し、不幸をシェアした僕らも、日々のなんてことない、こじんまりとした平凡な暮らしを侵食される。
メディアは、それでいいのか。