沢木耕太郎
いまの沢木耕太郎が、嫌いだ。
昔、学生時代だったか、当時愛読していた雑誌「SWITCH」に連載された、たしか「246」という題のコラムが好きで読んでいた。三軒茶屋の事務所のこととか、3歳の娘のこととか、納豆スパゲティのこととか書いてあった。
いまの沢木耕太郎が、嫌いだ。
昔、学生時代だったか、当時愛読していた雑誌「SWITCH」に連載された、たしか「246」という題のコラムが好きで読んでいた。三軒茶屋の事務所のこととか、3歳の娘のこととか、納豆スパゲティのこととか書いてあった。
民(市民)は、いまや産(産業)、官(行政)、学(大学)のあらゆる分野に進出している。
産(産業):いまや誰でもネットショップやネットオークションでお金儲けができる。1円で株式会社が設立できる(←ほんとは1円だけじゃ無理だけど一応)。
官(行政):いわずと知れたボランティアに限らない。観光情報の発信などは、すでに民(市民)が上回っている。
学(大学):知の共有と発展は、インターネットによって学(大学)から民(市民)にシフトしている。在野で生み出された、多数の優れたプログラムが無償で公開されている。
鑑定結果を踏まえて家裁支部は、女児は(1)対人的なことに注意が向きづらい(2)物事を断片的にとらえる(3)抽象的なものを言語化することが不器用――などの点を指摘した。また、発達障害など「何らかの障害と診断される程度には至らない」とした。
女児は、幼少期から泣いたり甘えたりすることが少なかった。決定は、両親はこれを「育てやすい」と考え、女児の欲求や感情を受け止めてこなかったと判断した。女児は対人関係や社会性、共感性が未熟なまま成長し、怒りや寂しさ、悲しさなどの不快感情が抑圧されたとした。
↑ぼくら、だいたいそうじゃないですか?
大学生だった1984年から1988年の頃は、学生ビジネスがさかんだった。
ぼく自身が直接かかわることはなかったけれども、あちこちの大学のプロ研、広研系の連中とつきあいがあったから、当時の事情はだいたい知っている。右から左に話を転がすだけで丸儲け?やめられまへんなギャーッハッハという、いま思い出してもヘドが出るようなことが、いろいろとあった。キャンパスバンケットというのにも行った。学生がホテルの大宴会間を借り切って、動員何百人か知らないが、盛大な名刺交換会であった。
このところ体調が思わしくなく、血液検査をした。なにしろフリーランスなために定期的な健康診断をしていない。重大な内臓疾患でも見つかったらどうしようかと思ったらセーフだった。
本日大変残念ながら、既に予告しておりました明日18日(土)、明後日19日(日)のストライキを決行することとしました。
選手会は、当初からこの問題の解決のためには、多くの選手とファンを犠牲にする最悪の事態である球団削減につながる球団統合を性急に行うのではなく、統合に伴う問題点を十分協議するため、統合を1年凍結しての話し合いが必要だと主張してきました。
プロ野球ストのことなんだけど。
損失何億円だとか、弁当の仕入れがどうだとか、そんなことは聞きたくないんだ。
30年ほど前、当時の国鉄が大々的に展開した「ディスカバージャパン」のキャンペーンである。田舎の古い町並みの一画でバアさんが何か仕事をしていて、それを若い女性の観光客が眺めていて両者の間には親しげなムードが漂っている、という写真のポスターが全国の駅という駅に貼られた。
埼玉が誇る(?)FMラジオ局NACK5の名物といったら金曜の「FUNKY FRIDAY」。小林克也さんがやってます。
「はっきり言ってYes or No」で、楽天の三木谷社長とライブドアの堀江社長、どっちが好きか、リスナー投票をしてます。
さっき現在、76対19で、堀江社長が圧倒的人気。
子どもの頃に平等な教育をうけ、職業選択の自由のなかで大人になる。ぼくたちにとって、それはあたりまえのことだ。でも、このやりかたには限界があるんじゃないかと、ときどき思う。ぼくらの大半は生まれつき凡才なわけで、物心ついてからの頑張りだけで評価されてしまうのは、ちょっと酷じゃないかと。
ぼくは大学1年から3年の途中まで、絵に描いたような「ネットワーク人間」だった。
高校時代まで、どちらかというと嫌われ者だったし、少なくとも、多数派ではなかった。地元を飛び出して入った大学も、学生数がえらく少なく、狭いコミュニティにたちまち弾かれた(←ぼくだけじゃないけど)。自然と、学外に行動範囲を広げていった。というか、がむしゃらに広げていくしかなかった。
現実社会から弾かれた人間が、バーチャルなネットワークにすがる気持ちはよくわかる。他にないのだから。インターネットはセーフティネットとしても機能しているし、それはとても良いことだと思う。
リサーチはぼくの仕事。手間のかかるオーダーが多い。そんな手ごたえのある仕事がおもしろくて続けてきた。手間をかけないといい番組は作れないと思っている。でも最近の番組づくりは、いかに手間をかけずにレートをとるかを競っているような感じだ。
ぼくはクルマ好きだが、オタクではない。
なんでかなーと考えてたら、思い当たるフシが。
過去にこだわらないのだ。興味がもてない。どんどん忘れてしまう。小学校の同窓会に出ても、みんなの思い出話にさっぱりついていけない。オタクの話についていけない感覚に似ている。
ぼくは、よく寝る。8時間ぐらい寝ないと眠い。働き盛りにあるまじき睡眠時間。
もちろん、仕方なく睡眠時間を削って仕事することもあるんだけど、そういう時の自分がどうも嫌いだ。
突然ですが文部科学省(当時は文部省だったかな?)が数年前に打ち出した「生きる力」というコンセプト、ぼくはけっこう好きです。
が、世間一般的にはどうも誤解されているような気がしてしょうがないです。
いまやっと知った。
BENNIE Kの「サンライズ」。NACK5でかかるたびに気になっていた曲が、これだとわかった。
いい曲だ。
若かりし頃(とくに20代前半)、ぼくは、命をあんまり大したものだと思ってなかった。とくに一時期、バイクでずいぶんと命知らずな運転をしていた。長生きするつもりもなかったし、長生きできるとも思ってなかった。10年以上前の数年間、戦争関連の番組のリサーチをずいぶんとやった。当時の資料やなんかに接して、「むごい」と感じたことはあるが、その感じ方は、今ほどではなかったように思う。
ローインパクトな暮らしがしたい。出会った少しのひとに、少しのインパクトを与えるような、そんな余生、そんな日々、そんな仕事がしてみたい。
マスメディアというハイインパクトな世界に群がる、有象無象の、欲に目がくらんだ、濡れ手に粟のぼろ儲けだか一攫千金のビジネスチャンスだか知らないけど、そんな脂ぎったひとびとと無縁の、欲のない、身の丈にあった、ささやかな場所に身を置いてみたい。
ぼくが仕事してる現場には、そういう匂いはあんまりなくて、だからこそ長く続けてこられたと思うんだけど、むしろ周囲がね。
「一太郎」販売禁止判決についてのソボクな感想。
セコいぞ松下、セコいぞ知財戦略。
いま「コンテンツ」といえば「コンテンツビジネス」「コンテンツプロデューサー」だし、なんだか金の匂いばかりがプンプンで、チョーうざー、って感じ。
思えばバブルの頃にはいっぱいいたなー。六本木の路上とか、渋谷のサテンとか、あっちこっちに。
博報堂生活総合研究所が1月14日にリリースした10代の女の子の意識調査をニュースで知って思ったこと。
そういや、mixiって、グループっぽいな。
このような世間の耳目をひく事件に対しては、なるべくコメントしないようにしているんですが、昨日の、愛知県安城市のイトーヨーカドーで、生後1歳未満の男の子が刺殺された事件について。
from東京新聞
愛知・刃物男 『殺すつもり』と供述
無言のまま正面から、母親の押すベビーカートに乗せられていた翔馬ちゃんの頭を刺した。
fromスポーツニッポン
スーパーに刃物男 11カ月男児刺殺
約15メートル離れた子供服売り場付近でベビーカーに乗っていた翔馬ちゃんを刺した。(中略)当時、美佐さんは子供服売り場にいて、ベビーカーの近くにはいなかった。
好きな子がそこに行くから。
これならわかる。たとえ超難関だろうがおまえには無理だと言われようが、日夜猛勉強してベストを尽くしてほしい。
わからないのは、偏差値や進学率や就職率の高いところに生きたがること。そういうとこに限って倍率は高いことから、そういうひとがたくさんいることがわかる。
なぜ自分にフィットしたところに入ろうとしないのだろうか。
2月9日のサッカーW杯アジア最終予選の対北朝鮮戦、あいにく仕事のためリアルタイムでは見られなかった。あとでビデオでじっくり見たけど、とくに後半は見応えがあって、いい試合だった。
北朝鮮を見直した。いいサッカーをしてた。とくに後半、同点に追いつくまでの時間帯。正面から、正々堂々とがっぷり組む感じがよかった。
ボクは議論が嫌いだし、あまり価値も感じない。
一次情報の応酬だったら、意味あるかもしれないけど。
生理感覚としての「こう思う、こう感じる」、たとえば女の子のシンプルなスキ・キライ的な、脳まで届いてない末端神経反射みたいなのは、いいと思うけど。
脳内生産脳内消費みたいな議論は、はっきり嫌い。その先に、何か価値のあるものが待ってる気がしない。
例外的に、はっとするような論理展開とか、あたりまえのことなんだけど虚をつかれて納得とかもたまにあるけど。あくまでたまに。
こういうブログやっといて何だけど。
ネット右翼について。こちらを読んで考えた。
ロマンチックな戦争に敗れたあと、
ロマンチックな資本主義に邁進した日本(人)。
リスナーへの愛とか、
モノづくりのプライドとか、
幸せの明日へとか(??)。
ホリエモンはきっとそういうのが嫌いなんだろうな。
ロマンチックな資本主義の恩恵にあずかれたのは過去の話。
若い世代にはそんな砂糖菓子のようなおいしい話なんて残ってないし。
ドライに力づくでぶん取る、というのもまた、若い世代の生き方の1つかと。
ゴールデンラッシュの時代、一攫千金を夢見て、多くの人たちがアメリカ西部に向かい、そのほとんどはのたれ死んだ。
…と、勝手な想像。
(2005/03/18memoを元に)
いまの若者は少子化のために、ボリュームとしてのパワーがない。
そればかりか、フリーターが増加することで、生産と消費の両面において、やはりボリュームとしてのパワーがない。
つまり、いまや若者は時代の主役ではない。
?ということは、若い子が、最新の流行を知らないオジさんに対して、「おくれてる?う」と言うこと自体が、すでに時代遅れだと言える。
(2005/03/25memoを元に)
ネットには、既存メディアがボツにしてきた原稿がいっぱい。一般人の多くがどんな原稿を書くのか、既存メディアがどんな原稿をボツにしてきたか。つまり、一般人の多くがどんなつまらない(そして無責任な)原稿を書き、既存メディアがいかに苦労してクオリティを保ってきたかが、ネットを見ていけばわかるはず。しかしそれに気づいているひとは少ないようだ。みんな、我が主張を述べたり、我が主張と同質の主張を見つけて「我が意を得たり」とうなずくのに手一杯で、人の話なんか鼻っから聞く気がないんじゃないか。ボツ原稿同士が仲良く連帯を深めるという、ほほえましくも低次元で時に危険な暴徒の群れと化す、アナザーワールドの人々。
(2005/03/28memoを元に)
子どもを自立可能な年齢まで守り育てることは、親や社会の責務。でもそれは子どもがかわいいからではない。かわいいというのは外見上のイメージの錯覚にすぎず、実際の子どもは自己チューで身勝手な困ったちゃんだし、そうでなければならない。子どもは大人に消費されるべき存在ではないのだから。
世間の耳目を集める事件事故に対して、ぼくは基本的に興味がない。大事故で多くの方が亡くなるのは確かに悲惨だが、一方で、日々の交通事故で1人の方が亡くなるのも、やはり悲惨だと思う。ここ数年は減少傾向にあるとはいえ、毎年1万人近い方が交通事故で命を落としている。神は細部に宿るともいうけど、ささいに思えることの中にも、見落としてはいけないものが、きっとあるはず。
このブログでは「考え」ばかりで、読んでてつまらないと思うけど、もともと、読み手の評価とかに関係なく書いてるのでご了解を。
さて、「いい」と「おもしろい」について。
「いい家」「いい車」「いい仕事」というのは何か。一方、「おもしろい家」「おもしろい車」「おもしろい仕事」というのは何か。と、考えてみる。
囲い込まれ感、というのを、最近感じる。居心地はいいんだけど管理統制されたドーム内に放牧されて、周到にプランニングされた通りにエンジョイしろよ余計なことはすんなよ、みたいな。たぶん、消費者としての感覚。こういう感覚が時代の閉塞感につながっているのではないか。
ここのところ、仕事の合間に、サイトのフルリニューアルをしている。長年の蓄積によって、個人運営にしてはかなりでかいサイトになってしまい、静的htmlファイルだけで300個以上あるらしく、リニューアル作業は時間と手間がかかる。
さっき、NHKのお元気ですか日本列島で、
少子化で超高齢化した秋田の町と、人口減少を食い止めようと子育て支援に取り組む長野の村の様子を報告します。NHKスペシャル「日本のこれから」を先取りして紹介します。
というのをやっていた。
手短に書きます。とりとめないです。
まず、コミュニケーションについて。最近、「やっぱ、とどのつまりはコミュニケーションだなあ」と、当たり前のことをつくづく考えるようになった。開いてないと、何も始まらないし進まない。悪くすると誤解されたりもする。ぼくはちゃんと開いているだろうか。あんまし開いてないかも?
それから、いったい何のために取材するかということ。そもそも「寝た子を起こす」ような稼業。何のために?「好きだから」で答えになってるのかどうかわからないけど、要するに、取材すること自体が好きなんだ。学生時代、キラー通り(←まだこの名前あるのかな)とか好きで、用もないのにぶらぶらしてた。リサーチャー駆け出し時代は、「プレステージ」とか、レポートが使われなくても、ただ取材すること自体が楽しかった。現場で新しい発見をしたりするのが好きで、それをアウトプットするのはその副産物。
ま、ネタになるかどうかは後回しにして、まずは現場に立ってみるってことかなー。
近所の平野観光農園でトウモロコシでも買おうと思って行ったら、夏の直売は8月13日で終わったとのこと。
さきの小泉旋風、自民圧勝について。既存メディアが「小泉政権に何を期待するか」的な問いを発しているのを見聞きして、違和感を感じた。
これからの時代を生き残るのにマストなのはコミュニケーション能力、というオハナシ。引きこもりへの処方箋も。
旧聞。
朝日新聞2005年12月23日、一面に、「人口減 産めぬ現実」と題したトップ記事があった。見出しには「お金かかりすぎる」「2人目はとても…」というフレーズも。君島浩記者は「とても安心して子供を産める環境にはない」とばっさり。
えーと、うちは子ども3人いるんで、いまどき子沢山だと思うんですが、この記事読んでると、まるでバカ扱いだ。うちの子が通ってる保育園には、これくらいの子沢山はあたりまえだぞ。みんなバカか?
逆に疑問。子どもを産み育てずして、老後は大丈夫なのか。誰が自分の面倒を見てくれるのか。先行き不安な社会保障に自分の老後を委ねるのは、あまりにギャンブラー。かりに社会保障があてになったとして、それを支えるのは「よその子」であり、「産めぬ現実」も、「とても安心して子供を産める環境にはない」のも無視して子どもを産み育てているウチのような大ばか者の、いまを耐え忍ぶ日々が、「お金かかりすぎる」せいにする人たちの老後を支えるという、納得しづらい時間差攻撃構造がそこにはある。
「今しかないの」と口癖のように繰り返しながら「今」をひたすら消費する女子高生がそのままスライドしてるだけじゃないのかなあ。
同日、「悲観ばかりではない」と題した社説も掲載されている。「人やモノはますます国境を越えて移動する。一国だけの尺度で人口を考えてもどこまで意味があるのか疑問にも思えてくる」…ま、これはわかる。
インターネットなどのIT技術を含めた現代の科学技術と同様に、マスメディアも現代人にとっての強力なプラグインだろう。
[少子化時代の馬鹿者とは]で書いたばかりの少子化ネタ。
朝日新聞2006年2月26日生活面「3人目どうします? 産みたい理由、産まない事情」。中見出しには「父親協力・保育園…環境が後押し」とある。
3人目を産んだ事例1:「近くの保育園には待機児がおらず、出産後も安心して支援を受けられる環境も後押しした」「3人目を産むと決めて、2台あった車は1台にした」
3人目を産んだ事例2:「朝、保育園に子どもたちを送るのは…夫の邦彦さん」「3人と添い寝して寝顔を見ていると「幸せだなあ」と思う」
3人目を産んだ事例3:「近くに住む67歳の実母が保育園の送迎などを手伝ってくれる」
3人目を産んでない事例:「「転勤族なので周囲に子育てを助けてくれる人がいない。正直、2人が限界」と話す」
東洋大学経済学部・白石真澄助教授のコメント「子ども1人の家庭が2人目を持つには、父親の子育て参加など働き方の見直しがカギになる。だが、3人目への壁は経済的な問題の場合が多い」
以後、自治体や企業の経済支援の事例紹介。
…といった内容の記事。ようは、少子化の原因は環境(産まない事情)にあるという。この記事を書いた2人の女性記者の趣旨は、「保育園の充実、家族や地域の協力、経済支援といった環境整備によって少子化問題は解決できる」というようなものだろう。
きのう、昼間にいきなし停電したと思ったら雷が直近でどかーんと落ち、直後に雹が降り、そのあと晴天…という、なかなか劇的な天気に焦った。
なにしろサーバー動かしてるので。サーバーは無事だったけど、メインPCがやや…IMEが壊れたというか履歴とか単語登録とかが消えたみたいで入力がめんどくなった。
たまりまくった紙資料の整理をしていた。
もともとがリサーチャーなので、新聞の切り抜きを筆頭にしたアナログ資料の整理は習い性のようなもの。
朝日新聞社説(2005年9月4日)「子ども部屋で話そう」より引用。
[ゼロからのリスタート]で書いたように、今回のW杯は小野にとって残念な結果に終わった。
その後、いくつかの記事を読んでいると、中田が代表チームに、主にメンタル面でマッチしていなかったらしいことが見えてくる。
九十九里浜にある「海の家」の強制撤去が始まったことを知った。
以前千葉県に住んでいたこともあって、九十九里は好きでよく行っていた。でも、海の家がらみで嫌な思いをしたこともあり、しだいに足が遠のいた。
運営していた掲示板(いまは閲覧のみ)に、一昨年の夏、「海の家の悪行」という投稿が寄せられた。
九十九里浜は、日本一評判の悪い海水浴場ですよね 砂浜目の前の駐車場って国が作ったものって知ってた? よく海の家の馬鹿面したにーちゃんが『オーライ!オーライ!はい、OK!それじゃ一人1000円です』 なーんて詐欺行為をしている。投稿を受けて町役場に電話、事実確認もした。詳細はリンク先参照。
で、数年前、和歌山県の南紀白浜に行ったときには、そのあり方のあまりの違いにびっくりしたけど、公共の場なんだからこっちのほうが当たり前なんだと納得。
海水浴場はみんなのものです。
以前、司馬遼太郎がインタビューや対談、エッセイなどで発言した内容を調べたことがある。
たぶんこれは「街道をゆく」について述べたことだったような記憶があるんだけど(あるいは本文中の記述?)、
異邦人のように…というフレーズがあった。
ある土地を訪れるとき、私は異邦人のような視点でその土地を見る。日本国内であっても、異邦人の視点を持つことで、いろんな発見がある。
…なんかそんなような内容だったと思う。
この「異邦人の視点」は、ものすごく重要だと思う。
こないだ眼科でもらっていたパンフ「近視のはなし」(提供・参天製薬)。
以下、一部引用。
近視の原因は現在のところ、よくわかっていませんが、遺伝的な要素と環境が関係すると考えられています。
(中略)
一般的な近視の場合、環境も影響すると考えられています。勉強、読書、テレビ、コンピューターゲームといった近くを見る作業を長く続けていると、目が疲れ、好ましくないのはいうまでもありません。
しかし、こういったことが近視の原因になるかどうか、はっきりした証明はありません。
本屋で「自遊人」という雑誌を買った。特集は「市場へ。港町へ。
旨い魚を求めて、ぶらり、ひとり旅。」。全121ページの大特集、とある。こういうマトメ情報は嬉しいので、保存用に購入。
mixiの日記に書いたものを以下転載。あ、mixiをクローズドなネットワークだとはボクは思ってません。だから、mixiだからといって人に読まれては困ることを書いたりしないようにしましょうね。
「本名登録推奨の件」の続編。匿名だからといって安心は禁物という話。
「日本の女性は、美しい。」というのは資生堂TSUBAKIのコピーだけど。
きのう、ふと思ったんだ。日本が世界に誇れるコンテンツはなんだろうって。
流行を追うのは、消費者としてはもとより、生産者としてもコストが高い。
…について考えた。
問題提起のエントリー。
…というコミュをmixiに立ち上げました。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1626217
(mixiユーザー限定)
北海道新聞06/25「「喜んで買う消費者も悪い」 ミート社田中社長」より。
田中社長は「なぜそういう肉(偽装肉)を作らなければならなかったのか。(安い肉の注文が)どんどんと来るでしょ」と述べ、偽装に手を染めたのは、安い肉を求める食品メーカーの注文に応え、コストを切り詰めた結果だったことを示唆。「(食品メーカーは)最初から適正な価格で売ればいいじゃないですか」と批判した。
このひとに言われたくはないけど、まあ、そうだね。企業努力のベクトルは間違ってるけど。
「給食費を払っているのに、子どもにいただきますと言わせるとは何事だ」。こうしたクレームが先日、保護者から寄せられて困っているという話を、ある学校関係者から聞いた。
裏日本ニュース「駅弁フェアで売られる駅弁は「本物の駅弁」ではない!?かも」に衝撃を受け、元記事を読んでみてさらに衝撃。
⇒別ブログに移動しました。(2007-7-7 23:33)
参照先:ホントウに必要なの? コンビニ「24時間営業」の見直しを考える
そだね。かつては「コンビニ店主家族離散残酷物語」のもとになった24時間営業だけど、要らないなあ。最近は規則正しい暮らしをしてるせいか、コンビニの世話になるっていったら銀行ATMとか急な雨の傘とか山頭火のカップ麺だとか、ほとんど用途が限られてるし。
かつては三食コンビニ弁当で「コンビニなしには…」って暮らしだったのが嘘みたいだ。
「もったいない」だとか地球に優しくだとかいうんなら真っ先にヤリ玉に上がるべきだよなあとか思うけど。
これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。 ?オバサンの性的欲望は少年へと向かう
そうかもね。大変だ。
思い出した。20年前もオバさんたちはジャニーズに夢中だった。ぼくが大学を卒業、プー生活を卒業して某所で働いていた頃。そこにいたor出入りするオバさんたちはジャニーズの話題で盛り上がっていた。歳月がすぎ、ぼくもかつてのオバさんたちと同世代になった。
自分を奮い立たせる、前向きにさせる支出はできるだけ削ってはだめだ。自分を最後に支えるのは自分自身だから。
…と、たいした根拠もなく感じている。
「仕事があるだけ幸せと思えという世論操作」についての疑念を前回書いた。その疑念はいまも変わってない。SONYも赤字だそうだが、トヨタもSONYもその他メーカーを含む大手企業軒並みそろって世界同時不況を喧伝しそれを根拠に派遣をばっさばっさと切り結果世界にいち早く業績回復するつもりではないか世界同時不況を派遣切りの口実に利用しまくってないかメディアもそれに乗っかってないか今は不況喧伝が売れるコンテンツだということではないかと思ったり思わなかったり。
「ベストを尽くす」がモットーと語る若い女優さんのインタビューを見てて反射的に思った。
これは(ぼく同様に)長らく自営業だった某氏に以前言われたアドバイス。
いつも目一杯やるんじゃなくて、ふだんはそこそこ、で、ここぞと思ったときだけ目一杯やること。
ああ、なるほどなあ、と思った。
いつもベストを尽くしてると、それがデフォルトになっちゃう。そこから少しでも落ちると、人から、サボってるように思われてしまう。ベストの状態をキープし続けるのは簡単ではない、というかたぶん無理。無理な状態に自分を追い込んではいけない。いざという時のふんばる力まで奪われてしまう。
だから、ふだんは少し手を抜いておく。で、ここはと思ったときに、ふんばってフルパワーを出す。そのほうが自分のコンディションも維持できるし、周囲からの評価もきっと高い。
もちろん、少し手を抜いた状態を標準とするには、相応の地力も必要だし、高いセルフマネジメント能力も求められるから、決してサボリを奨励するわけではない。
家族ファシズムということばに、何を連想するでしょうか。
このアトム化した社会、最小の構成単位である家族をあまりに大切にするあまり、社会的規範から逸脱してしまうことを、ぼくはこのことばから想起します。
…んーと、あとが続かないのでひとまずこれで。自省も含めて。
…だと、城繁幸氏の言説を引用しながらZopeジャンキー日記が書いている。
そうですね。
そうですね、なんですけど、これまでなかなか、こういう話が出てこなかった。
が、どうも最近そういうモードになりつつあるのではないかと、具体的には書けないけど別のエピソードからも思うんだ。
親が子に「生まれてきてくれてありがとう」、子が親に「生んで(産んで)くれてありがとう」と感謝するのが最近ブームのようでありますが、ぼくは違和感感じます。
だって、人生いろいろ、時には辛いこと悲しいこともあるではないですか。そんなときに「産んでくれてありがとう」なんてぼくは思わない。むしろ、「あーなんで生まれてきちゃったんだオレ」と嘆き、恨むほうで。
子どもに対してだって、バブちゃん(乳幼児期)は別として、大きくなればいろいろあるじゃないですか。ときに「なんでこんなガキを作ってしまったんだオレ」と嘆き、恨んだりしてさ。
なんでありがとうなんて言うのだろう。そんなにハッピーばかりの人生なんてあるのかな。もしくは平板?
ありがとうを口にすることで一種の勝利宣言と思えなくもない。でも人生これから長いし、ぼくは勝ち組とか負け組とか信じないから、さっさと勝利宣言も出さないし敗北宣言も出さないし。
それにしても。オレはいったいいつまで生き続けるのだろうか。まだまだやり残したことがたくさんあるのでとりあえず生きるつもりではあるけど、かといって、全部やりつくしたらその瞬間にバタンキューってわけにもいかないだろうし。
みんなどう考えてるんだろう、そこんところ。
エプソンPM-A850にエコリカのリサイクルインクカートリッジを使ってみたが、これはダメだ。
かすれる。印字が汚い。クリーニングしてもダメ。ほんとにダメな不良品が混じっている。残量計測が不正確らしくインクが切れたまま何枚も印刷した挙句にインク切れ表示。
なにがエコだ、結果的に紙を大量に無駄使いする結果に。手間と時間もだ。
もう使わない。
けさ見たNHKニュースによれば裁判員制度は「参加したくない」が多数だそうだ。
その一方ぼくらは品行方正で怒りっぽい。これはネット界だけのことではない。
つまり正義を振りかざし他者を糾弾するのは好きだがそこに責任がともなうのはイヤだというきわめて無責任で自分勝手な姿がぼくら自身だ。
…ちっとも変わってない。
という週刊誌(アエラ?)記事をいま大野勢太郎さんが紹介、「この記事、行きすぎじゃないですか」とコメントしていた。
でもなんか最近「ママ・ファシズム」「ママ至上主義」とでもいいたくなりそうな雰囲気がなくもない。(←表現は不正確、あくまで感覚的)
渋谷スクランブル交差点でベビーカーを押したママ数人一列ですごい勢いで歩いてくる。人込みがクリアになったとたん眼前にあらわれるその姿にあわてて避難。まるで「そこどけママのお通りよ」とでもいわんばかり。
というのはあくまで一例。
たしかロイター伝だったか、イギリスではベビーカーはステイタスの証なんだとか。
なるほど。
若い頃、とある編集プロダクションに入ろうと思ったことがあった。
(プー太郎から脱出しようと思って)
そこの社長はこう言った。
引き出しが増えるからキャバクラで女にモテるぞ。
…いや、当時はキャバクラじゃないか、スナックか、キャバレーか…。
旅行ガイドブックで引き出しでモテモテか。
あれから××年。猛烈な引き出し数で引く手あまた的モテになっててもおかしくない気がするんだが。
あ、飲みに行かないからか。
でも守秘義務のある引き出しが多いからなあ。
いずれジイさんになったら老人会とかで披露してバアさんにモテたりするのか。
ともかく「引き出し」って言葉自体が嫌い。やらしいから。愚直に1つのことだけを地道のコツコツと続けてる、無口な職人は、なかなか開かない引き出しが1つあるだけだけど、それでいいじゃん人間。
ごくせん的フレーズ「ずっとおまえらの味方だから」が、いま世にあふれてる気がする。ラジオの投書なんかでも、我が子に対するメッセージで、「世界中が敵になっても、父さんはお前の味方だから」とか。
それでいいのかと違和感。
それは極悪非道の犯罪者でも味方になるってことになりますが、「ぼくが(わたしが)どんなに悪いことをしても味方になってくれる人がいる・信じてくれる人がいる・許してくれる人がいる」と思わせることって、本人を甘やかすことになり、結果よくないんじゃないですか?
母子カプセル状態で母親が子どもと精神的に一体化してると思い込んじゃってるような状態ではこのような発言が生まれるのもわからなくはないのですが、でもそれはたんなる勘違いだし、そういう思い込みって、裏を返せばDVになるんじゃないですか。
いくら近しくても人は人、ある程度の距離感がないとヤバくないですかね。未成熟を是認、それを助長してしまう言葉ではないですかね、これって。
まあ、フィクションなんで、大げさに考えなくてもいいのかもしれないし、じっさい演じてる役者たちはそう思ってると思いますが、現実と虚構の区別がつかないひともいるかもしれないし。
きょう運転免許証更新で運転免許センター(埼玉県鴻巣市)に行った。更新時講習で、講師が「交通事故の数は減少の兆しを見せない」といった主旨を語っていた。
おかしい。
以前、「「交通事故死者数は劇的に減少していた!」と書いた(2007年11月05日)。
で、最新のデータを確認してみた。
統計(警察庁)から平成20年中の交通事故の発生状況を見てみた。
これのどこから「減少の兆しを見せない」云々と言えるのだろうか。
講師が嘘をついた。
交通事故が減っていることは以前に書いたのですが、ふと気になって、犯罪の統計も調べてみた。
認知件数は平成14年に戦後最多を記録したが、その後連続して減少。
凶悪犯。認知件数も犯罪率も減少。殺人は平成19年に戦後最少を記録。
[ 平成20年の犯罪 - 統計(警察庁) ]
(というか「犯罪の概況」pdf)のほうが早いかな。
…ということで、おおむね減少傾向。安全になってることはとにかく喜ばしいですね。詳細はリンク先を参照。
日本の総人口データ(5歳階級、推計人口(平成21年11月概算値) )をグラフ化してみました。
人口の多い年齢階級ベスト5は、
35-39歳 973万人
60-64歳 946万人
55-59歳 907万人
40-44歳 859万人
30-34歳 857万人
…高齢化社会と言われている通り、55歳以上も多いのですが、30代が意外と多いのにびっくり。
※総人口なので日本人人口ではないです。
前記事(いま、日本は35歳から39歳が最も多い。)につづく第2弾。
「平成20年10月1日現在推計人口」から、首都圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)と首都圏以外の人口をグラフ化してみました。(単位 千人)
首都圏人口は全国の27.4%と、3割に届きません。7割以上が首都圏以外に住んでいます。東京都だけだと全国の1割。
都道府県ごとにみれば東京都の人口がもっとも多いのですが、それでもわずかに1割に過ぎません。
誰がやったって同じだ。護送船団方式に慣れきって、痛みも責任も引き受けるつもりのない人たちがこの国の多数派を占めているかぎり。
「街の声」を聞くと時々腹が立つ。自分だけは特別[ Link ]なんて絶対ない。ぼくらは次の代に引き継いでいかなければいけないのだ。間違ったものを引き継いではいけないのだ[ Link ]。
逆円錐形の劇場。そこに鳩山さんは立っていて、オーディエンスに降りてこいと呼びかけている。ぐるっと囲んだ観衆は「お手並み拝見」とかいいながら高みの見物。火の粉が飛んでこない高い所に陣取って、見下して、ネタにして。
ぼくらは後の世代から、「何も引き受けようとしなかった無責任な世代」と評価されてしまうんだろうか。
インターネットが登場したとき、これは少数派の福音だと喜んだものだった。
リアルなつながりの中で同志が見つからなくても、インターネットの海を探していけば、どこかに同志と出会える。
具体的にいうと、アメリカの片田舎でDune Buggy遊びをしてるおっさんとダイレクトにコンタクトできることを知った衝撃。
ところがインターネットが普及し、誰もが使うツールになると、多数派のツールに変貌してしまった(ように見える)。
いわゆる「ネット界」は多数派の覇権を狙う人の良さそうな野心家たちの巣窟となり、多数派工作、同調圧力の雨嵐。
彼ら多数派の特徴は、その場にいる多くの同意を前提とした発言をする点。少数派が常にアウェーの風にさらされているのと対照的に。
多数派工作なんか興味ないし同調圧力に流されたくもない。インターネットはぼくにとってやはり少数派のツール、雑音にまどわされずに本来出会いたい人と出会いたい。
…という本筋をつい忘れがちになるので、改めて初心表明。
私が子どもの頃は気温が30度を超えると「今日は暑いねえ」と言ったものだが、今や最高気温35度、36度も当たり前になった。昔とは暑さの質が変わったのである。
これは今朝(2010年8月8日)、朝日新聞声の欄(9頁)に掲載された“「エアコンは体に悪い」見直そう”という投書。神奈川県藤沢市在住51歳男性から。
こういった話は時々見聞きするのだけど、ほんとだろうか。
と思ったので、気象庁の過去の気象データ
から、埼玉県熊谷の最高気温データを調べてみた。データがある1961年から、去年まで。
確かに最近の最高気温が上がっているような気もするけど、昔も充分暑かった。「最高気温35度、36度も当たり前」なのは変わってないと思う。51歳男性が14歳だった37年前、1973には38.7度の最高気温だったし。男性が住む藤沢ではないけど、横浜では1962年に37.0の最高気温が出ている。
明治時代からの「日平均気温の月平均値」もある。7月・8月の平均気温値も、グラフにはしなかったけど、まあざっと見て25度前後って感じで、少なくとも大幅に上がっているようには見受けられない。
ということで、この男性が書いていることは正しくない。「昔とは暑さの質が変わった」とすれば、気象ではなく、現代の生活環境、たとえば家屋の構造だったり、緑+土からコンクリートに変わったりして、実際の生活で感じる暑さが変わった、ということではないだろうか。
なりたい自分になれるはず、というのは、ほとんどありえないだろう。
なるようにしかならない、というのが、現実的な線だろう。
「なりたい自分になれるはず」というフレーズや考え方がいつからどのように登場したのか。戦時中はありえないから、きっと戦後のある時期からだろう。勝手な推測では、広告のコピーから始まったのではないか。つまり売りたい商品を買わせるために、消費者に刷り込んだ考え方ではないか。このフレーズを信じれば、なりたい自分になるために、消費者はどんどん(無駄な)支出をする。
がしかし、これはあくまで無責任な広告コピーであって、商品やサービスの購入をすることで(=努力とかそういうことをショートカットして)なりたい自分になれるというのは、とても虫がいい考え方。ただ、ほとんどの人は、「なりたい自分になれるはず」という泡沫(うたかた)の夢にいっとき酔うために、ちょっと財布のひもをゆるめてみる程度だろう。酒を飲んで酔っ払うのと同じだ。やがて現実に戻って、現実に向き合って生きていく。でも、その夢から醒めない人はどうなってしまうのか。
ぼく自身は、子どもの頃に「将来の夢」を持ったことがない。と思う。少なくとも記憶にない。こんな大人になれたらいいなというぼんやりしたイメージはあったけど。もちろん、夢を持ち、夢の実現に向かって努力するのはいいことだ。だけどそれが、外圧的に与えられた夢だったら。売り上げアップという「企業の夢」を実現するためにバラまかれたものだったら。
戦後日本は企業社会だった、ということができると思う。地縁が解体し、“社縁”がそれにとってかわるようになった。かつては社内恋愛で結婚→出産のサイクルが促進されたし、会社がアイデンティティでもあった。いまもある程度、企業社会的構造は続いていると思う。“市民社会”が実現するとしても、それはもっと先のことだ。日本社会を支配しているのは企業だ(ちなみに企業はなかなか叩きにくい。政治や行政といった公の組織には記者クラブもあるし名目もあるし叩きやすいけど)。日本経済には内需拡大だとか消費回復とか言われたりするけど、「なりたい自分になれるはず」という呪文をかけた副作用の責任は誰もとらない。
…ということを、最近起こったとある痛ましいニュースから考えた。
「なりたい自分になれるはず」というのは戦後突如発生した、たんなる広告コピーではないのではないかという気もする。明治維新後の日本そのものではないか。一等国を夢見て、一等国に成り上がって、そこから転落していく過程。当時政府指導者層や軍中枢、官僚の彼らも、「なりたい自分(=日本)になれるはず」と夢見たのではないか。知識人やジャーナリストも、技術者や科学者も、商人も、労働者や農民も、みんなが「なりたい自分になれるはずと思ったのではないか。国全体が同じ夢を見ていたかどうかはともかく。
ラジオに安倍なつみが出てて「野菜ソムリエ」や「ジュニア食育マイスター」の資格をとったことを話していた。
それを聴いてて思ったこと。
芸能人やタレントは個人のキャラを立て、輪郭をはっきりさせることで食っていく稼業だ。
使う側にしてみれば、ほとんどのタレントは、「こういうポジション」という構成演出上の要求があって、それにハマるタレントを使う。たとえば「かわいくて、チャイナ服が似合って、そこそこ知性が感じられて、できればスタジオ回しもそつなくできる子」みたいなリクエストだったりするのだけど。
この企画会議の場で思い出されないタレントは使われないし、逆に、いつも思い出されるタレントはよく使われる。
キャラがはっきりしないタレントは使いづらいという以前に思い出されないから仕事が来ず、結果食べていけない。
また、タレントが焼肉屋とかやってることは多いけど、これも、一般にキャラが浸透しているからこそ、その知名度が使えるわけだ。
キャラを立てるというのはある意味で勇気のいることだ。ある意味で「烙印」を押されるということで、いったん押された烙印を変えることはできない。でも、それをしないと前に進めない。
タレントはもちろん事務所が戦略的にキャラを作ることもあるけど、若いうちはそんなロボット戦略も使えるけど、年季が長くなってくるとそうはいかない。本人みずからのキャラ、指向性でどれだけやっていけるかが重要になる。
という意味で、安倍なつみの「野菜ソムリエ」や「ジュニア食育マイスター」は、本人によるキャラ立て戦略なんだろうと思う。
…というようなことは、ぼくのようなフリーランスはもちろん、組織に所属して働く人にとっても、今後どんどん重要になってくるんじゃないかと思う。
長谷川滋利がたしかどこかのインタビューで、協調性だけでは生き残っていけない、個性がないと上には行けないし、多少問題を抱えていてもそうした個性のある集団でないと強くなれない、みたいなことを語っていたと思う。
空気を読んで合わせるだけではいずれ淘汰されてしまう。個の核というか、他と違う部分をある程度前面に出すと、必ず誰かとある程度の衝突を起こすことになるんだけど、それを恐れていたら、いつか蹴落とされて、忘れられてしまう。
そうならないようにしていきたいと思う。
PTA問題と言うのが適切かどうかはともかく、ツイッター上でのぼくのレス
上からの押し付けでなく個別に解決すべきと思いますが。 QT @Rsider: A(略)PTAの自由な入退会に関する署名より。 http://bit.ly/9Y5qek 携帯はこちらから。http://bit.ly/aBRpJbとその続きの、
…だって各々の意識が変わらなきゃだし地域ごとの違いもあるし。いっそ自治会やPTAは強制加入でもいいと思う。ヒマ人団体は無意味。あーツイッターじゃちゃんと書けないや。から、まとめて意見を書くことにしました。
ぼくは小学生以上の子を3人持つ父親ですが、これまでPTAについて深く考えたことも調べたこともなく、基本的にカミさんに任せきりです。積極的にかかわる気は今後も起きないと思いますが退会する気もありません。…という立場です。この文章も、事実をよく調べもせずほとんど主観で書きなぐっています。あとPTAと自治会をごっちゃにして書いています。その点はご了承を。
友人が以前某テレビで一般人としてひな壇参加したとき、田舎の実家から都会のマンションに引っ越した理由として「ドブさらいなんかしたくないから」と発言してました。自治会主催の地域のドブさらい、それに象徴されるうっとおしい地域社会を離脱したかった、という意味のぶっちゃけ発言だと受け取りました。口に出さないにしろ、こう考えている人は少なくないはずです。
(マンションを維持するには住民のつながりが戸建て以上に重要だったりしますが、それはそれとして)
ぼくもかつてはそうでした。ひとり暮らしとか、結婚したての頃とか、好き勝手にやってました。「文句言われてないし、何やったって勝手じゃん」と、けっこうご近所にお住まいの方に顰蹙なことを色々やってたと思います。「なんでうちに市の広報が来ないんだ」と市にクレーム電話したこともあります。自治会に入ってなかったんですけど。
それがしだいに、子どもができ、保育園に通い出し、小学校に上がり…カミさん中心としてしだいに地域とのつながりができてきました。決定的だったのは自治会の班長になった1年間。最初は抵抗して、会長さんが説得に来たりしてたんですが。しぶしぶ班長になって、そしたらくじ引きで自治会役員になって。あれやこれやで忙しく、ちょうど仕事もたてこんでいたので、ほとんど寝ないまま会合に出て、うつらうつらなんてこともありました。大変だったのですが、おかげで地域の方とも打ちとけるようになり、やってよかったと思います。
「新しい公共」を支える市民には自覚と責任が必要です。以前かかわったNHKスペシャル「変革の世紀」(2002年放送)で、これまで行政と企業が支えてきた(牛耳ってきた?)社会に、新たな担い手としての「市民」という存在を知りました。たしかに「市民」はすでにいます。でもそれは、ごく一部です。ほとんどの人はこれまで通りでいいと思っています。余計なものを引き受けたくないと思っています。だから、僕らが新しい公共を担う市民になる道はなお険しい。まだまだ、僕らの意識が変わるには時間がかかる、そう思っています。
もしPTAが任意加入になったら(というか今でも本当はそうなんですが)どうなるでしょうか。たぶん全国で大混乱が起きると思います。ある学校では、強い声の人に押されて、PTAが実質なくなってしまうかもしれません。あるいは別の学校では、人徳のあるPTA会長の奔走によって、これまでとほとんど変わらないかもしれません。学校によってPTAがあったりなかったり、あるいは年によって(保護者の考え次第で)PTAができたり消えたりするかもしれません。あるいは任意加入を主張する人が、旧勢力(?)によって村八分を受けるかもしれません(←すでに事例あるかな?)。
僕らは、ここでは日本人はといってもいいかもしれませんが、同調圧力に弱いと思います。たとえば10人の集団がいて、意見が割れたとする。でもたいていは10人が自説を主張しあうのではなくて、数人の対立になって、多くは様子見をしている。風向きを見て、強いほうに巻かれる。ぼくらは集団になるとそういうところがかなりあります。ネットの炎上でもそうです。議論の風向きが変わると、なだれを打ったように一斉攻撃が始まる。
もし文科省がPTAを任意加入としたら(いや、いまでもそうなんですが)、現場ではさまざまな対立が起きるでしょう。多くの人は風向きを見て、どっちかにつくでしょう。いくら文科省が任意加入といったって、そして本人が退会したくたって、ボス(=ボス的な人)ににらまれて立場が悪くなるとなったら黙ってそのままでしょうし、逆に本人がそのままでいたくてもボスににらまれて抵抗できずに退会なんてこともあるかもしれません。
(あのー、ぼくは男なので、女社会のアレはよく知らないんですが。間接的に聞く限りでは色々と大変らしいですがPTAも。かりに会長は男だとしても)
そういう状態が子どもにとって果たしていいものかってことですね。
ちなみにうちの子の通う小学校は、PTAはうまくいっているようです。一部に異論もあるらしいですがそれは当然として。数年前、PTAでTシャツを作りまして、希望者が注文して、ぼくも持ってますが、運動会なんかで教師も親も同じTシャツを着てたりするといい感じです。いまも、会長さんがPTAだよりを発行してたり、地域のお年寄りを参加させたり、いろいろがんばってるようです。田舎の、出入りのあまり多くない、土着の住民が多い、小さな学校だからかもしれませんが。
…というように、「個別の解決がきわめて困難」という状態がデフォルトだとは僕には思えないわけです。
で、いきなり解決策の提案ですが。
妹が住んでるとこはいわゆる「入会権(いりあいけん)」のあるかなりの田舎でして、聞いたところでは、入会地(いりあいち)の管理、草刈りだとか何だとかでけっこう駆り出されるようなのですが、働いているのでなかなか参加できない。で、参加できない時には代わりにお金を払う。つまり金で解決しているのだとか。
PTAも自治会も、任意といいながら実際には学校や自治体の下部組織としてほとんど公的に位置づけられているのだから、その矛盾を解決するために、いっそ強制加入にすればいい。入会権のような土地は持ってないんだけど、地域とか学校というパブリックを共有するというような発想(←ちょっと表現変かも)。地域はみんなのもの、学校はみんなのもの。だから全員で支えましょう。そのかわり報酬は少なくとも役員についてはきっちり出す。パートを休んでそれに見合うだけのというのは無理だと思うけど。仕事が増えるかもしれないけど。
加入しない人は金を払う。報酬を支えるわけなんで実質加入してるわけなんだけど。
ということでどうかなあと思ったりしたのです。これなら現行とあまり摩擦は起きない。退会する人も、「金払ってるんだから問題ないだろ」と開き直れるし、自分だけ楽をしてと良心の呵責にさいなまれることもない。堂々と退会できる。
知り合いに、地域の自然保護活動をしている人がいるんだけど、彼のモットーは、地域の自治会のおっちゃんともちゃんと折り合いをつけていくこと、なんだそうです。旧態依然、悪弊だらけの古い組織かもしれないけど、そこの人たちにもちゃんと仁義切って、良い関係を維持していかないと、継続的な活動はできない。そんなことを以前言ってた気がします。
しょせん人のやることですから。
言論を車の運転にたとえて、「認知・判断・操作」で考えてみる。
認知:情報をインプットする(ベースとなるファクト)。
判断:意見をまとめる(新しい考え方の提示)。
操作:発言する(誤解を招かない表現)。
記者、ジャーナリスト、ライターなど、既存マスメディアで発言している・文章を書いている人にとっては、この「認知・判断・操作」はいずれも重要だということは、いわずもながら。ぼくが携わっている報道ドキュメンタリー番組もそう。発言・放映が与える社会的影響が大きいほど、慎重にならざるをえない。
で、ネットが普及した現在では、以前にはほどんどなかった「既存マスメディア以外からの発信」が著しく増えた。ネットを通じて、誰でも簡単に意見を発信することが可能になった。量ばかりではない。社会的影響力、その比重も高まりつつあるのは否定できない事実だろう。
ネットの特徴としては、ある発信がどれだけ広がり波及するのか、どれだけの影響力をもたらすかが、あらかじめわからないことだ。たとえばTwitter。ネットの片隅でちょこっとつぶやいたつもりが、RTにつぐRTで爆発的に広がる、なんてことも可能性としてはありうる(もちろん、ほとんどの発言は「ネットの片隅」どまりの影響力しか持たないのだけど)。
だから、これまで「プロ」だけが意識していた、言論の「認知・判断・操作」を、すべての人が意識して、責任ある言論空間を構成する、その必要が高まっていくのではないかと思う。
現状では、間違った事実認識(=認知ミス)、当然ながらも間違った考え方(=判断ミス)、誤解を招きかねない表現(=操作ミス)が多く見られ、ネット言論空間は暴走車で混乱しているようにも思われる。
でもこれをもってして、「馬鹿は発言するな」で片付けるべきではないと思う。各々の発言者は「プロ」ではないので、ある程度は仕方ないと思う。だいたい、普通の人にとって政治や社会の問題はメインイシューではない。自分の生活があって、余ったちょっとの時間を割いて、情報収集をしたり考えたり発言したりしているのだから。ぼくらは専門以外の分野はどうしても疎いし、それはしょうがないのだから。
お互いがお互いを補足していけばいいと思う。得意な領域もそれぞれあると思う。「認知」つまり情報収集のの得意な人、「判断」つまり考えるのが得意な人、「操作」つまり文章にまとめるのが得意な人、いろいろいると思う。オープンソース的なネットワークでみんなの言論空間を形成できたら最高だと思う。
アニメ、ジャニーズ、ネット、永遠の若さ、ゲーム、素敵なママ、広告の理想家族…空想ばかりに耽って歳をとっていく、獏のような現代人。と、Twitterで書いた。
イメージに耽溺する現代日本で、若い男性だけがリアルな「肉食男子」なのは不自然だ。あるいは、「肉食」というイメージもまた、消費されるイメージなのではないか。
その前、
メディア化した「家族」を再生産することの空しさ、イメージとの落差に対する絶望。リアルとの距離を縮める仕掛けが必要か。 QT @fratdrive: 家族が機能不全と落合恵美子さん。外部サービスの充実を訴えるが… http://j.mp/gLJL5uなどとも書いた。
現代日本の病理の根源はどこか、それは家族または個人にあるのではないか、それを現代のジャーナリズムも文学も、問いかけてないのではないか、そういう思いがぼくにはある。
その正体も、解決方法もわからないけど。
「低収入だから結婚しない、子どもを産まない」というロジックがいつどこから生まれたのだろうか。たぶん行政側から、少子化対策研究的なところでだと思うけど、いまや「結婚しない、子どもを産まない」本人たちのエキスキューズに使われるフレーズ化してる気がする。
ほんとにそうか?だとしたら世界的な結婚出産をどう説明するんだ。
かりに、非婚者や子どものいない夫婦を分析したら低収入だった、としても。
逆に、結婚しないから低収入、子どもを産まないから低収入、というロジックの可能性はないのだろうか。
…このあたりちゃんと数字を見たわけではないから何ともいえないけど、これはあくまで仮説として。
結婚しない、子どもを産まない理由は別にあるだろうと思う。親、もしくは社会(制度)に対する甘え。自律的に、つまり親や社会(福利厚生的な公共サービス)に過度に依存することなく立って生きていこうと思ったら、親元を出て、結婚をして、子どもを産むのが合理的選択だろうと思う。
貧乏人が合理的選択をすることなく結婚しない・子どもを産まないという「現状維持」を続けるのは何故なのか。誰かに依存するという状態がそんなに居心地がいいのだろうか。
老後の面倒は誰が見てくれるのか。誰かが何とかしてくれると思えば、現状のままずるずる生きていく。結婚や出産をしていなかったら、その「誰か」は、親か兄弟か、もしくは行政しかいない。
シングルは高コストな生活だ。
日本経済は家族を分解し(大家族→核家族→シングル)、家族が内包していたものを外部サービス化(=有料化)させることで内需拡大をしてきた(←かつての月刊アクロス的な分析)。逆に家族が増えるほど、家族1人あたりのコストは下がっていく。だから、貧しかったら大家族を構成するのがいちばん合理的で安全。
…というのは、ぼくのような貧乏人の論理。逆に、高収入だから結婚しない、子どもを産まないという生き方もありえるだろうと思う。潤沢な収入があれば、いろいろなことを外部サービス化して老後まで生きていけるから。
「アートとビジネス」を読んで考えたこと。文章整えてませんけど。
AKBも嵐も支えているのはファンというコミュニティ。コミュニティはデフレの影響を受けないどころかいくらでも金をつぎ込む。現代は、普段の買い物スーパーのような「安ければいいよ」的な仁義なきグローバル激安ビジネスと、それと対極のコミュニティビジネスに大別。安定した収入を得るにはコミュニティビジネス。
(フリーランスが仕事を得ているのも、たいてい知り合いの輪からだから、コミュニティビジネスといえる。信頼第一!)
アートに関していうと、ぼくは(ぼくらは?)小さなパトロンになりたい。展示会に行き、作品を見る。いいなあと思う。ちょっとした品でも6万円とかすると、もう手が出ない。やはり1万円オーバーにはなかなか。でも、作家に対してリスペクトというか、応援したいと思うので、目録や写真集、ポストカードなんかを買ったりする。でもほんとは「寄付」でもいいんだ。
若い登山家で、セルフ撮影した映像を流している人がいる。誰だっけ、こないだテレビに出てた。たぶんあれも営業の一環というか、応援してくれるコミュニティ、資金提供してくれるコミュニティのためにだと思うんだけど。あんな感じ、アーティストも制作過程含めて映像撮って、DVD作ってそれを売ればいい。赤い羽根募金の赤い羽根のかわりに、DVD。ファンはDVDを買うことでアーティストを応援する。映像がおまけでついてくる、って感じ。
音楽でのライブにあたるのがアーティストの作品。音楽でのCD販売にあたるものが、作品にまつわる何らかのデジタルデータ販売。デジタルデータなら売れば売るほど儲かる。DVDは原価限りなくタダに近いし。
いっぽう作品自体はレンタルで稼ぐ。盆栽なんかは飲食店などに月ぎめでレンタルで出しているし。需要はあるのでは。
そういえばパリダカにカミオン参加の菅原さんがいっとき似たようなことをしていた。1口いくらの個人協賛を募って、個人名をトラックに入れて、あとで走行映像のDVDを送ってくれた。ビジネスとしてはもしかしたらうまくいかなかったのかもしれないけど、たとえばそんな感じ。
たぶん、アーティストに限らず、どうやって何かをビジネスに乗せるか、いろんなトライが各方面で試みられているのだと思う。
で、これに関してぼくのツイートは↓。
作品そのものではなく、作品を鑑賞する体験をデジタルデータ化して複製販売してはどうでしょうか。早い話がDVD化ということですが。 RT @s_mikamin: アーティストが金のこと考えるなって言われそうだけど、ちょこっと書いてみた。 http://ow.ly/3sUPr
posted at 22:22:56
音楽ならCDを買うことで応援できますが、アーティストの貧乏なファンとしては、目録を買ったりポストカードを買う以外に、もっと応援する手段があるといいのです。.@s_mikamin
posted at 00:38:59
チェルノブイリ原発事故に関して“25年たったいま、周辺住民の健康状態に関する国際機関の報告によれば、子どもの甲状腺がんが増加したが、それ以外には、セシウムで高度に汚染された地域の住民も含めて、放射線による病気の増加はまったく認められていない。報告は、現在の最大の問題は放射線に被曝したという精神的影響(PTSD)だと結んでいる”
- 長崎大名誉教授、前放射線影響研究所理事長 長瀧重信(朝日新聞2011年4月14日朝刊15面)
(殴り書き)
グローバル化が進めば低コスト化は進むだろう。
もう1つ、この日本社会で低コスト化の要因、家族と地域の崩壊。
1.家族崩壊:大家族からシングルへと家族構成が分解されていけば、それだけ沢山の家電その他取り揃える必要があり、需要増加し、結果、単価が下がる。
2.地域崩壊:コミュニティが維持されてれば無料だったものがコミュニティ崩壊とともに有料サービスとなり、需要増加し、結果、単価が下がる。
というわけでどんどん需要が増えれば単価が下がるけど、社会全体としては高コスト化じゃないのか。
震災で社会の高コスト化が進む。うまくバランスさせるには、無駄な需要を落とすべき。
“「100mSv以下の低線量被爆の発がんリスクはない」とは言っていない” http://goo.gl/Q6DbV との不一致 QT @hachiya: RT @hughugmagic: 今日の講演会で、…山下俊一が、100mSVまで大丈夫という表現が誤りだったと認めた(link)について。
週刊朝日2011年4月22日号に掲載された、鎌田實氏と山下俊一氏の対談記事を一部抜粋。
鎌田 低線量被ばくについては、意見がいろいろ分かれていて、まあその質問を先生には一回電話でしつこく聞きましたが、たとえば100ミリシーベルトの被ばくを受けると、0.5%ぐらいがんになる率が高くなるという研究論文も出ています。
山下 いま議論していることは、少ない量を1年間飲み続けたり、食べ続けたり、そこに住むと、自然界の数倍、あるいは10ミリシーベルトを超える。だからいまは障害は起こらないけども、将来はわからないという表現をしているわけです。僕はそれにあえて「大丈夫だ」と言うわけですよ。理由は、1回、100ミリシーベルト浴びると、細胞に傷が100個できます。1ミリシーベルト受けると細胞の傷が1個できます。1個の傷は体がすぐ治します。100個の傷はときどきエラーが起こる。遺伝子は傷がついても治るんだということが大前提です。
チェルノブイリでも、一般住民の低線量被ばくが問題ですが、唯一起きた病気は、子どもの甲状腺がんです。世界中で、内部被ばくのデータがあるのはチェルノブイリだけです。だからチェルノブイリの経験が福島に生かされるんです。日本政府はすぐに、汚染やそのときの吸入を防ぐだけでなく、口から入る食物連鎖をストップさせたわけです。暫定基準をつくって。このやり方は、チェルノブイリの教訓が生かされたと思います。
鎌田 じゃあ、食べることに関して、つまり内部被ばくを防ぐことに関しては、かなり慎重に神経質になってもいいということですか。
山下 日本人そのものが食の安全に対してセンシティブです。ハエがたかっても食べないでしょう。そういう文化に育ってますから、日本人はパニックにこそなれ、放射能汚染物質を食べ続けることはないですよ。
鎌田 1ミリシーベルトと100ミリシーベルトでは、100ミリシーベルトはもしかしたら何か起きるかもしれないというのを、先生も認めていて、1ミリシーベルトだったら、先生は、まず問題がないと思われるんですね。
山下 僕の「大丈夫」という話を聞くと、山下に騙されると言う人がよくいます。放射線自体が大丈夫というわけでは、ありません(笑)。でも、結局、誰かが現状の安全や安心を正しく言い続け、放射線を理解させないといけない。そうしなければ、大事な単位をわかろうとしなくなる。いまは天気図みたいに、ニュースで地区ごとに1時間あたり0.5マイクロシーベルトとか出てくるんです。正しく怖がるために、その安全域を示すのがわれわれの責任です。花粉症や紫外線の数値のようなものです。
“100ミリシーベルトの放射線を浴びた場合、がん発生のリスクは、0.5パーセント高くなります。具体的には、一般の日本人のがんで死亡する割合は、100人のうち、30人ですが、100ミリシーベルトの放射線を被ばくした場合は、それが30.5人になります。また、100ミリシーベルトより低い量の放射線による被ばくでは、統計的に有意ながんの増加は認められないとされています。〜「これまでの説明会においての主なQ&A」(平成23年4月15日現在、福島県教育庁学校生活健康課)
…ってことは、100mSvの被ばくによる「発がんリスク」0.5%というのは、やはり、「ガンにかかる率」ではなく「ガンで死ぬ率」だったか。
すると、
「99.5%以上、安全です」って表現はきっと正確ですね(=最大0.5%の発ガンリスク)。「100%の安全を確保すべく全力を傾注!」とか言えばいいのに政府。個人的にはそこまで期待してないが。〜http://twitter.com/#!/fratdrive/status/65009181496848384
きのうの帰宅電車。
左には赤ん坊を連れた夫婦。赤ちゃんはしっかりしたベビーカーの中に。ママはかなり高いヒールを履いていた。
赤ちゃんは僕のことが気になるみたいでじっと僕を見ていた。僕は知らんぷり。
ママは座席に座りながら、ときどき赤ちゃんを触ってスキンシップ。
というか、だっこすれば赤ちゃんハッピーだと思うのに、なんでいまどきのママはだっこしないのかな。
僕はうちの子がチビの頃はいつもだっこしていた(「だっこひも」と呼んでたけど、肩からかける簡単なサポートツールがあった)し、歩けるようになったらずっと手をつないで歩いていた。外出先ではほぼフルタイムでスキンシップをしていた。
でもいまの若い親のスキンシップは、パートタイムだ。気が向いたら、って感じに見える。スーパーやショッピングセンターの駐車場や店内でも、手をつながない親子のいかに多いことか。
ぼくはそれを非接触型育児、と呼んでいる。
話を戻して、僕の右の座席には40がらみの女性。カバンからiPodを取り出して、なにやら熱心に見ている。…なんだツイッターじゃねえか。
(ただのケータイで見れるのを、わざわざあんなでかい端末で見る意味あるのかな)と思いつつ電車に揺られていた。
そうか、右も左も、非接触型コミュニケーションの方向か。それがいまのトレンドか。
非接触型コミュニケーションは、いつ誰とコミュニケーションをとるかを任意に決められる。気が向けば手をつないだり、リプライしたりするし、気が向かなければシカト。この、「気が向かなければシカト」というオプションを常に選択可能なのが非接触型コミュニケーションの最大の利点だろう。
震災後のいま、「ひとつになろう」なんて言ってるけど、非接触型コミュニケーションがデフォルトの人たちがひとつになるわけ、ないじゃん。
でも、非接触型コミュニケーションなんてあほらしーや、って気分にもなりつつある。そんな都合よく、大事で大切なものが手に入るのか。結局はマーケティングにいいように転がされて、「カス」ばかりつかまされておしまいなんじゃないのか。「子どもの人格を大事に」なんてキレイ事吹き込まれているうちに、決定的な断絶を作ってしまうんじゃないのか。まあ別にそれでもワタシは一人で自分らしく生きていくわ、なんて幻想をあくまでも追い求めていくのであれば勝手にやってくださいという感じかなあ。
(あくまで仮説だけど強く思ったのでここに記す)
現代日本に生きる僕らは、大なり小なり、みんな「カオナシ」だ。悪魔に魂を売ってカオナシになれば、メディアも広告も商品サービスもこぞって僕らをもてなしてくれる。ひとりではとても生きていかれない、馬鹿で間抜けでいいかげんでその場しのぎでお調子者で怠け者な僕らだけど、まるでそうではないかのような幻想を彼らは与えてくれる。その夢のような時間を、僕らは無駄な金を支払って得る。ばらばらに分断され、アトムとなった僕らを、彼らが心地よくもてなしてくれる。すべては金次第。
無数のカオナシを相手にした商売がビッグビジネスと思われてきた。しかしそこは今や効率化とコストダウンでしか生き残れない不毛の大地と化している。カオナシ争奪戦から抜け出して、違う世界に行かなければ、僕らはやがて滅亡する。顔のある世界へ。
でも現実の商店街はシャッター通り化している。顔のある世界は、ローカルにつながっていなくてもいいはずだ。インターネットはもともと、カオナシの群衆が力の論理でうごめく不毛の世界である以前に、遠く離れた少数者が手をとりあうためのツールであったはずだ。
親の不安は「原発事故の罠」 小児科医 浦島充佳さん 親の不安は「原発事故の罠」 放射線よりストレス影響*=1,2,3,42011.09.01 読売新聞東京夕刊8頁
小児科医で、新型感染症の流行や生物テロなどの危機管理対策を研究している東京慈恵医大准教授の浦島充佳さんは、今の私たちは「原発事故の罠(わな)」に陥りやすい心理状況にあると考えています。浦島さんの言う“罠”とは何なのか、聞きました。
--福島第一原発事故後、特に子どもを持つ母親の間で放射線への不安が広がっていますね。
政府の発表は、わかりにくく、情報公開や対応が遅れました。一方、今回のようなレベルの放射線量での健康影響ははっきりせず、専門家の間でも意見が分かれています。放射線は目に見えず、避けることができない。子どもがどれくらい被曝(ひばく)したかもわからない。「がん=不治の病」というイメージ。心配するのは当然の成り行きだと思います。
--けれども、その不安の中にこそ「原発事故の罠」があると指摘しています。
チェルノブイリ原発事故の時も同じ状況がありました。原発周辺に住んでいて避難した妊婦さんの子どもたちを10年間追跡調査したところ、避難先の同年齢の子どもに比べて、情緒障害、社会適応障害がかなり多かった。けれども、障害の有無は被曝量とは相関がなく、親の不安、ストレスが強いほど、子どもが情緒障害になる割合が高いという結果が出ました。
国連の報告によると、周辺住民への放射線の直接の影響は、今のところ、子どもの甲状腺がんだけです。被曝時18歳以下の未成年のうち15人が2005年までに亡くなりましたが、99%以上は治っています。原因は牛乳に混入した放射性ヨウ素でしたが、旧ソ連の牛乳の出荷制限基準値は、日本の10倍以上でした。
今後未知の影響が出るかもしれませんが、周辺住民の被曝量から考えると放射線の身体影響より、精神的なストレスによる影響の方が大きいと思います。
とは言え、親なら当然、子どものリスクはゼロにしたい。そう考えて不安になることが子どもの健康に影響を与えてしまう。これが「原発事故の罠」なのです。
--「不安になるな」というのは難しいです。
「ここに住み続けても大丈夫か?」「○○産の食品を子どもに与えても大丈夫か?」という質問をよく受けます。そんなときはこれまでの内容を前置きした上で、こう説明します。
母親として安心して子育てできる環境選びを最優先してください。他の地に移住すると、家族がばらばらになり、その地で新しい人間関係を築かなくてはならないかもしれません。食品からの内部被曝の可能性は国内のどこに移住してもついて回ります。それでも移住した方が安心して子育てできるとすればそれでよいと思います。
食品でも産地などをみて子どもに安心して与えられるものがあれば、それを買えばよいと思います。しかし、心配し過ぎて、家族や地域の絆、子どもの情緒の発達などもっと大切なものを見失わないでください。
--国に望むことは。
国のリーダーには「人々が抱える不安と懸念を自分自身のものとして果敢にそれに立ち向かう気概」と「スピード感」を持って、問題解決に全力であたってほしいと思います。そうすればおのずと道は開けると私は信じています。(詳しくは医療介護サイト「ヨミドクター」に掲載*)
さらに、中川恵一氏の文章も掲載しておきます。
低線量被ばくの“不確実性”と宇宙の“超越性”低線量被ばくに対する恐怖が広がっています。たしかに被ばく線量が上がると発がんが増えますが、これは主に、広島・長崎の原爆被爆者を調査したデータに基づいています。チェルノブイリなどの過去の原発事故のデータは、原爆の調査研究ほど役に立ちません。飯舘村に測定に入った際にも経験したことですが、原発事故の場合、空間線量は、風や雨といった天候や、地形、地面の性質などによって、大きく変わるため、線量計を常時携帯しないかぎり、住民個人の被ばく量を正確に把握できないからです。.
一方、原爆の場合は、被爆の瞬間にいた場所だけで浴びた線量がほぼ決まりますから、住民の発がんの有無を調べれば、線量と発がんの関係について、精度のよいデータが得られるわけです。そして、これまでの分析の結果、100ミリシーベルトの被ばくで、がん死亡率は約0.5%増加し、この値以上の被ばくでは、線量が増えるとともに「直線的に」リスクが上昇することが分かっています。.
しかし、100ミリシーベルト以下の被ばくでがんが増えるかどうかについては分かりません。これは、喫煙や飲酒の他、野菜嫌いや、運動不足、塩分の摂りすぎ、といった生活習慣上の発がんリスクが、放射線とは比べものにならないほど高いからです。たとえば、喫煙で、がんによる死亡リスクは16倍くらいに上昇しますが、これは、2000ミリシーベルト!の被ばくに相当します。受動喫煙でも、100ミリシーベルト程度にあたります。低線量被ばくのリスクは、他の「巨大なリスク群」の前には、「誤差の範囲」といえる程度と言えるため、100ミリシーベルト以下の被ばくで発がんが増えるかどうかを検証するためには、膨大なデータ数が必要になるのです。.
低線量被ばくで発がんが増えるかどうかは分かっていませんが、100ミリシーベルト以下でも、安全側に立って、線量とともに直線的に発がんも増えると想定する“哲学”あるいは“思想”が、国際的な放射線防護の考え方で、「直線しきい値なしモデル」と呼ばれています。しかし、このモデルを採用すれば、自然被ばく(約1.5ミリシーベルト)や医療被ばく(約4ミリシーベルト)が存在する以上、どんな人も“グレーゾーン”にいることになります。“純白”は存在しませんから、安全の目安は住民を中心に社会が決めるしかありません。しかし、「白か黒か」のデジタル的「二元主義」がグレーを受け入れる妨げになっています。また、徴兵制や内戦、テロにも無縁な現代日本人が、「ゼロリスク社会」の幻想を抱いてきたことも背景にあるでしょう。.
福島第一原発事故で、発がんの増加は検出できないと私は思っています。しかし、被ばくを避けようとするあまり、家に閉じこもって運動をしなかったり、輸入牛肉ばかり食べて、野菜や魚といった日本人を世界一長寿にした食事のスタイルを放棄すれば、かえって、がんを増やすことになります。また、子供を外で遊ばせるかどうかで諍いを繰り返し、離婚にいたった夫婦も、現にいます。避難を強いられている方々はもとより、この事故が日本人に与える不幸の積算量は甚大です。.
セシウム137の30年という半減期は、どんな最先端技術をもっても変えることができない「超越的な」ものです。半減期45億年(ウラン238)といった宇宙レベルの存在を人間が扱えると信じたところに人間の驕りがなかったか、省みる必要があると思います。
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正しい情報に基づいてストレスフルになるのは仕方がないと思うけど、間違った情報もしくは情報不足に基づいてストレスフルになるのは馬鹿げていると思う。自分の子どもがかわいくて、そのかわいい子どもを守りたかったら、まずは大量の情報を精査して、自らで考え、判断すること。botのように誰かのフレーズをリフレインするのではなくて。
botに子どもを守れるわけがないんだから。
時代の曲がり角、について考えている。以下、粗くてわかりにくいと思うけど今現在の仮説。
いまの僕らが時代の曲がり角に立っているのは間違いない。それがどんな曲がり角なのか、僕らはどんな価値観からどんな価値観に向かっているのか。
戦後日本を俯瞰してみる。たとえば、敗戦直後(=飢餓の時代)の「科学技術万能信仰」が農薬禍などの問題を生み出しながら、大量・画一・効率的な社会をつくりあげた。
「親切」がこの国の最重要キーワードだと僕は強く思っているが、その親切が行き過ぎてしまった。たとえば原発問題。これは「科学技術万能信仰」の残滓。国民は国家にエネルギー問題を一任し、国家はそれに応えようとした。ブラックボックス化は、親切心のあらわれ。「こっちのことは心配いらないから。まかして」と。
そこで僕らは「カオナシ」になった。親切に甘えたカオナシになった。いろんな問題を国家にまかせ、メディアにまかせ、生産や流通にまかせた。しかしもはや、「まかせた!」と言ってれば済む時代ではなくなった。対岸の火事だと思って高みの見物をしていたところが、自分の家が燃えててびっくり、というのが現状。
なくした「顔」を取り戻す。そういう曲がり角にいま立っている。
きのう、久しぶりに浦和レッズの試合を埼スタで見た。
がっかりだった。
もちろん結果も、大宮相手に0:1、降格圏内に落ちてしまったから、がっかりなんだけど。
ぼくががっかりしたのは2つ。
まず、ゴール裏にがっかりした。彼らの応援はいったい何だ。ゲームの内容から離れている気がときどきしたし。昔みたく、もっとチームや選手に厳しくてもいいんじゃないか。優しすぎて、相手チームにとってもちっとも怖くないし。レッズの選手、とりわけ昔を知ってる山田暢久とか、ぶっちゃけどう思ってるんだろ。「こいつら俺らのことホントに応援してんのかな」って思ったりしてないかなあ。
(サポーター全体にがっかりしたのではない。僕がいつも座る指定席まわりはオッサン率がとても高いんだけど(ジイサン含む)、多くのオッサンは静かに腕を組んで見てて、時々「おーっ」とか「あー」とか言うだけ。その姿は以前と変わらない。ぼくらオッサンは、あの、Jのお荷物と言われた最下位レッズの頃と変わってない)
そしてチームと選手、その「ふがいない」戦いぶりにがっかりした。中盤でボールを右に左に回しているだけでちっとも前に進んでいかない。そうこうするうちにミスでボールを奪われて大宮の速攻にあって…、その繰り返し。何か強い約束事で縛られてるようだった。強い個性、たとえば出てきた頃の岡野みたいな選手が強引に走って突破してかき回してくれればもっと躍動感が出るしチャンスも増えるし見ててわくわくすると思うんだけど。見ててちっとも楽しくなかった。
場面場面で、梅崎だったりエスクデロだったり、体を張ったいいプレーを見せていたんだけど。
チームの規律を打ち破るような強い個性がいてこそ…と考えて思い至った。それはペトロ自身ではないか。
ペトロが今期の監督になると聞いたときはうれしかった。現役時代のアグレッシブで献身的なプレーは好きだったし、期待もした。でも、結局、ペトロの個性が強すぎて、それがチームを覆い、がんじがらめに縛ってしまったのではないか。いまのレッズには、ペトロは合わないのではないか。
試合後、ペトロは今期限りの辞任を口にしたというが、こう考えていけば仕方がない。次に「ミスターレッズ」福田の名も取りざたされている。仮にそうなれば、開き直って毎回「負けないよ」宣言をして突っ走ってほしい。
…違う話になってしまった。
話を戻すと、いちばん変わってしまったのはたぶんチームではなく、ゴール裏だ。あのゴール裏では勝てない。ゴール裏を仕切ってる人たち(…がどんな人たちなのか、現状まったく知らないんだけど)が総退陣してみたらどうか。
いっそのこと、残り5試合、組織立った応援を一切合切やめて、僕らオッサンみたいに、みな腕組みをして、静かに戦況を見つめたらどうか。
浦和レッズといえば熱狂的なサポーター、ゴール裏の熱い応援…という「定型」を、いったん白紙に戻したらどうか。しがらみ化してないか。
どうも僕には、「浦和レッズと熱いサポーター」という、「ガワ」(=枠、というような意味)だけが残り、自動化してるような気がしてしょうがない。
先日、とても納得できる新書を買った。山本一郎氏の『リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?』。
なかでもいちばんうなずいたのはp110の「何を追及し、何を諦めるか」のところ。
国民は、官僚批判を繰り返し、国家の問題の過半が官僚の私利私欲によって引き起こされていると政治家が喧伝するとこれを喝采する一方、自身の生活を振り返って考えると国立大学に我が息子を入れるための受験戦争に身を投じ、将来の希望に公務員と書く親子の割合はなかなか減りません。 増税はけしからん、官僚の数を減らせと言う割に、市民サービスの切り下げのは反対であるとか、もう無理筋という言論がたくさん表出してしまう。確かに矛盾しています。そして、このような意見の矛盾や行動のちぐはぐさは生まれてしまう理由は、極めて簡単です。国民自らが何を望んでいて、何に優先順位を置いているから、何を追及すべきで、何を諦める必要があるのか、国民自体が分からなくなってしまっているのです。 ……空間軸の両側に位置する都会の住民の要求と、地方の要求は往々にして対立します。そのとき、両方の意見を聞いて、両方の意見に首肯し賛成してしまう人々が後を絶ちません。日本人らしい、と言えばそれまでなんですが、日本人の和をもって尊しとする精神とはまた別に、高度成長の折に強烈に体験した「折り合っておけば、パイが勝手に成長して分け前が増えて、問題が時間が解決してくれる」という思考停止が、恐らくそこにはあるだろうと思うのです。
結局のところ、ぼくら自身の問題。
見渡せば、あっちにもこっちにも「ぶらさがり」だらけの国、ニッポン。これだけ大勢の「ぶらさがり」を抱えてりゃ、スピードもパワーも落ちるわ。
まあ、ぶらさがる側にもそれなりの言い分はあって、そこは日本人らしく、律儀にぶら下がっているような気もするのだけど。
また、それとはあんまし繋がりないけど思い出したから書いとくけど、明治以降の日本は「狭い国土・貧しい国力」という自己認識を基本にしてきた。革新官僚の統制経済って発想もベースはそれで、「国力は貧しくとも皆がひとつになれば大国と互角にわたりあえる」と考えての国家総動員だったんだろう。かつ、「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」と官僚たちは考えていたんだと思う。ただ実際には戦前・戦中の統制経済は彼らがイメージしたほどにはうまくいかなかった。当時はコンピューターなんてないから計算尺とかで必死に計算したんだけど、経済の隅々までごく少数の頭脳でコントロールするなんてどだい無理だったし、実際には統制と市場のコラボ、壮大な実験だった。おそらく、強力な国家統制が実現し、それが最も効を奏したのは敗戦後復興期の2〜3年。だが以後も「統制×市場」のコラボは続き、「狭い国土・貧しい国力」という自己認識に基づく「中央での統制は可能だし、統制したほうがパフォーマンスがいい」という官僚の考えは継続され、今に至るんだけど、これだけぶら下がりが増えてしまったら、それも制度疲労ではないだろうか。自己認識からupdateする必要があるんではなかろうか。
ぼくらはいつでもどこでも「消費者」として扱われ、お客様扱いを受ける。「お客様」と最上級の呼び名で、大変丁寧に取り扱われる。マニュアルどおりに。
接客がわにしてみれば、どうせぼくらは十派一からげ。とくに記憶に残らない「普通の客」か、もしくは「面倒な客」としてインプットされる存在にすぎない。ほんとは「様」でもなんでもない。便宜上ただそう呼ばれているだけ。
そんな存在に押し込まれることを僕らは願っていたのか?
僕らが子どもの頃、テレビでたくさんの「かっこいい大人」を観た。
ルパン三世もそうだし、松田優作の探偵物語もそうだし、「傷だらけの天使」も「俺たちは天使だ」も、みんなかっこよかった。
ああいう大人になりたい、と当時の僕らはきっと思ったはずだ。
それが今じゃどうだろう。
この国のデフォルトスタイルは、巨大な「ぶらさがり(パラサイト)」構造。子どもは親にぶらさがり、親は会社にぶらさがり、会社は国にぶらさがり…。
ぶらさがりの連鎖の先にあるのは、からっぽな権力構造。明治政府、「朝臣」が日本の官僚のルーツだという。日本の官僚組織はリーダーが意思決定をしなくても回っていくように制度設計されている(←ちゃんと検証してないから、あくまで仮説だけど)。重要なことが、なんとなく合意形成→決定されていく。太平洋戦争の開戦経緯はそうだ。もちろん、開戦を決定したフォーマルな会議は存在する。大本営政府連絡会議→御前会議。だが、開戦を決定した実質はそこにはない。
おそらく原発もそうだろう。フォーマルな合意形成プロセスを経て原発導入が決定されたというより、中央にいる複数の権力関係者たちの、アンフォーマルなコミュニケーションの果てに、なんとなしにその方向に向かっていったのではないかとこれはあくまで想像。
「中央にいる複数の権力関係者」と非常に曖昧な表現にしたけど、実際そうではないか、官僚だったり財界だったりの属人的なネットワーク。
結局のところこの国は特定の誰かが舵取りをしているというよりむしろ誰だかわかんない大勢の人々のなんとなしの合意形成でなんとなく進んでいる。
責任不在といえばそうなんだけど。
むしろ僕がいいたいのは、ぶらさがり構造のほう。
おそらく省力オートマチック社会なのであって、ぶらがっていれば悪いようにはしないからという無言の約束があるんだ。
で、その構造や前提や約束がいつまで維持されるのか。…3.11の震災と原発危機は、この国のこうした構造を露呈させると同時に、その構造の崩壊を意味するのではないか。
自分が中年になってみて感じていること。
たとえば学校の同窓会でかつての同級生と久しぶりに再会したとき、同い年なのにえらく老けてる奴はいないだろうか。
かつて(20〜30代)ギラギラの夢を語ったバリバリのビジネスマンが、数年経ったらひどく老け込んで見えることはないだろうか。
「現役感」の喪失。
たぶんそれは、「中年の壁」のせいだ。
以前調べたおぼろげな記憶では、人の生産性は30代前半が人生のピーク。これを越えると、それまで上り調子だった生産性が、ゆっくりと、しかし確実に、低下をたどっていく。
同時に創造性も落ちていくだろう。
体の無理が徐々にきかなくなる。
ここで、現状にぶら下がったまま、残りの人生をなんとかやり過ごそう、あとはだらだらと慣性で生きていこう、そう思ったらたぶんこうなる。
でも残念なことに、それはたぶん、できない相談だ。
これまではできたかもしれない。年金暮らしをしている親世代はそうだったかもしれない。でもそれはきっと、戦後高度経済成長という、世界史的にも稀有な、必然と偶然のハイブリッドな産物に、日本という国全体がぶら下がっていけたからできたこと、ではないかと思う。
これからは違う。一進一退、七転び八起き。2勝1敗1引き分けならよしとしようってな時代になる。ぶら下がってたら、つかまってるヒモが切れて谷底に転落してしまうかもしれない。
そう覚悟を決めて、中年以降を生きていこうと思う。
僕はあくせくと忙しく働くことが嫌いだ。
目の前のタスクを処理することに一生懸命になっていると、視界が狭まり、うつむき気味になっていって、しだいに自分が何をしているのか、どこに向かっているのか、わからなくなる。
向かう方向を誰かに指し示してもらって、というやり方もあるんだろうけど、僕は自分で考えて自分の責任で自分で決めたい。
それに、目の前のタスクを一生懸命処理しているモードだと、次から次にタスクが積みあがっていって、そのうち、身動きがとれなくなってしまうことがある。
距離を置いて、冷静に、優先度と緊急度でタスクを選別していけば、もっとすっきりするはずなんだ。
細かいことばかりを追っていると、大事なことを考えるのを後回しにしがちだし。大事なことは、考えて結論を出すのに時間がかかるわりには、目の前のタスク処理には関係がなかったりするから。でもそれを後回しにしていると、いずれ大変なことになる。
まるでいまの日本のように。
だから、僕はできるだけ、多忙とは距離を置いて、じっくりと考えたい。
(経済的には恵まれなくても)
以上、自戒を込めて。
原発事故で飛散した放射性物質による外部&内部被ばくについて、ゼロリスクを求める声が強くある。それは、以下のような考え方に基づいているのではないだろうか。
1.リスクは元々ゼロである。→ゼロか、ゼロじゃないかといったら、元々リスクはゼロじゃなかった。自然界にも放射性物質はあって僕らは生まれたときからずっとわずかに被ばくしている(室内ラドン濃度とかも含めて)し、かつての原爆実験とかの影響もある。閾値なしモデルであれば、人類がゼロリスクだったことはこれまで一度もない。
2.我々はゼロリスクの権利があるし、我々にゼロリスクを提供する義務が(政府や行政に?)ある。→そうかな。
なんか、「対岸の火事から火の粉がこっちに降ってきて迷惑だ、誰かなんとかしろ」と言っているように聞こえるんだ。
その根底には、「これは俺の仕事じゃなくてお前らの仕事だろ」という政府や行政に対する考え方がある。
まあ、そうなんだけど。
明治維新以来、日本は諸外国からの脅威に対抗するため、急ごしらえの中央集権国家をつくり、そのコントロールを官僚にゆだねた。官僚を実質的な頂点とするピラミッド構造ができた。ピラミッド構造の組織では、「認知判断操作」のうち、「認知判断」はトップがやればよく、下々は「操作」に専念すればよかった。こうして、「大事なことはお上にまかせて、俺たちはせっせと毎日働いてればいいんだ」という価値観が生まれ、戦後もそれは変わることなく継続されたというか高度経済成長という世界史に類を見ない成功神話がそれを裏づけた。
でも、もう終わったんだ。
あの原発事故は、この効率性を追い求めてきた日本型システムの終焉だ。
僕らは自ら「認知判断」をしなくてはいけなくなった。効率は落ちる。混乱もする。
でも、もう、何も考えなくていい、ただせっせと勤勉に過ごしてればいいという時代は来ない。
思考停止の縛りをほどいて、自分の頭で考えよう。
こないだ朝日新聞で糸井重里がたしかこんなことを書いていた(言っていた?)。
人は、「つながり」にお金を払うのだと。
ぼくは行きつけのコーヒー豆屋がある。ちょっと遠いんだけど、豆が切れると必ずそこに買いに行く。老夫婦のやっている店だ。開業してもう20年になるし、ぼくが行き始めてからも10年以上になる。行って、いつもの豆を注文して、ついでにいろんな話をして。決して安くない支出だけど、ぼくがこれを節約することはない。それは、コーヒー豆を買いながらも、この関係にお金を払っているのだ。
(ま、他では買えない、おいしいコーヒー豆だということもあるんだけど)
安いもの安いもの。中国などから輸入された品々がそれを強力にプッシュする。どんどん安くなり、僕らはそれに殺到する。
そして、それにあわせて、あらゆるつながりがどんどん薄くなっていく。
僕らはフリーになっていく。
それって不幸なことじゃないですか?
ネットショッピング最大の不満。それは、生身の人間とやりとりしている感じがしないこと。すごく機械的に取り扱われていること。
商品をカートに入れて、支払いと配送の手続きをして、はいおしまい。じきに商品は届く。それはそれでいいんだけど、ときどき、なんかで問い合わせしたりすると、その対応が「…」な感じなんだ。
たしか北のほうの古本屋だったかな、配送をデフォルトから変更したい旨を伝えたんだけど、なんか適当にあしらわれちゃったというか。そこはどうもDVDとか毎日大量に発送してるみたいで、薄利多売、数で稼いでるようなんだけど、だからいちいち問い合わせとか、めんどい感じらしかった。
効率優先。まあ、こっちも安いもの探して発注してるんだから、お互い様だけど。
そんなわけで、ネットショップ特有の「安いものを大量に売って稼ぐ」には、客の顔なんか見えない。見ようともしない。ロボットとロボットのやりとりみたいな。それより、メールでいいからやりとりしたいんだよなあ。ちょっとぐらい手間でも。
原発事故による放射能汚染に関して。
岩手・宮城のがれき受け入れは基本的には問題ないと思う。
もちろん放射線測定はやった上でのことだけど。
科学的知見に立てば、それ以外の考えにたどり着くことはないと思うのだが、反対している人がいるらしい。
それが理解できないから、考えた。
彼らが依拠するのはデータではない。イメージだ。放射能汚染という、イメージだ。
放射能という、五感で感じることができないものに対しては、あくまでもデータで対峙するしかないと思うのだけど、彼らはどうもそう思わないらしい。
「けがらわしいもの」というイメージで、程度、濃淡の区別なく、ばっさり斬り捨てる。
それはたぶん、これまでずっとイメージで生きてきたからではないか。
「キレイキレイで手を洗えばバイ菌もすっきり!」的なイメージで、ものの価値判断、行動基準を決めてきたからではないか。
…つまりは広告の言うなり、メディアの言うなりだ。
よく「子どものために」というけど、子どものためを思うなら、広告やメディアの言うなりではなく、自分で考えることを教え諭すべきではないか。
自分たちを反面教師に。
(これまでを「国家とエリート」の時代とすれば、原発はそのロジックの中で産み落とされたものであり、これからを「地方と非エリート」の時代とすれば、原発は同然否定されなければならず、同時に、自らが考え、リスクを引き受け、行動していかなければいけない。判断を人まかせにしたり、企業が営利追求目的で作り上げたイメージにふわんと乗っかって調子こいてるようでは生き残っていけないんじゃないかなあ…)
あと気になるのは世論調査で多い「どちらともいえない」の回答。たぶん日本のマジョリティはこの「どちらともいえない」層だ。彼らは場合によって、声高な少数派、賛成側になびくかと思ったら次は反対側になびく。「空気」という、得体の知れぬものによってふらふらと動き、それによって大勢が動く。
主体性がないくせに、「ああいう意見もあれば、こういう意見もあるよね」的な視野の広さ・懐の深さ(?)をしたり顔でアピールしたりして。自分では何も決めず、ただの日和見で、リスクをみずから拾うのが恐いくせに、賢者のふりをする。
そうして歴史は繰り返されるのか。
この国の指導者たちはひどい罵声を浴びせられ続けている。
いったいいつからこんなことになったんだろう。
彼らが罵声を張り上げるには、一定の条件がある。
自分に賛同してくれる人が大勢いる。少なくともそう思える状況下でしか、彼らは罵声を上げない。
それは「炎上」に似ている。
炎上のパターンはこうだ。まずは風向きのはっきりしない複数の書き込みがある。と、そこに1つの強い声が書き込まれる。するとそれに触発されるように、たてつづけにその声に同調する書き込みがされる。これで風向きが決まる。あとは面白がって参戦する便乗組も加わって、一方向に非難する書き込みが大量になされる。
ようは、声高なのはごく一部なのだけど、多くの「どちらでもない」層がそれら強い声に引っぱられるようにして、一瞬、一方向になびくのだ。
この「どちらでもない」層、たいていは事態を静観しているだけの、変化を好まない中間層が非常に厚いボリュームを形成しているのが日本社会の特質ではないかと勝手に考えているのだけど、そういうことを研究している社会学者とかはいるのかな?
ぼくも罵声を浴びたことがある。それはとある趣味のMLだった。ひどい罵声に、彼らはいったい何故こんなに僕を一方的にこき下ろすのだろう、その根拠は何だろうと考えたのだった。たどりついた仮説としては、彼らMLのコアメンバーはオフ会でも互いに顔なじみの面々であり、オフラインの場で、「あいつ生意気で気にいらねえ」という話ですでにまとまっていた、のではないかと思う。ぼくはオフ会にまったく出ないし、コミュニケーションよりも情報共有って派だったから、そういう話になっていても不思議ではない。とにかくそこでぼくが学んだのは、「自分への賛同票が多数と見込んだら彼らは口汚く人を罵倒する」ということだった。
いい人生勉強になった。
しかしそれはいったい正しい態度だろうか。
これは「いじめ」の構図とおなじ、卑怯な態度なのだから、たとえ仮に言っていることが正しかったとしても、そういう態度を人に対してとるべきじゃないと思う。
少なくとも、子どもたちの模範となるような行為とはいえない。
だから、指導者たちにひどい罵声を浴びせる行為はつつしみましょう。
川越の観光用の通りには、観光客がうじゃうじゃ歩いている。あの数そのものが異質だけど、さらに、観光客の顔をみると、ほとんどが埼玉の顔をしてないから(←地方地方に特有の顔があるので)、いっそうに異質に感じる。
もともとあった通りを、誰にでもわかりやすく、「彩度」や「輪郭」をいちだんとアップさせて、非日常な(異常な)劇場空間をこしらえれば、観光客がわんさとやってくる。…というのは、何なのだろう。本当のモノには客を呼ぶ力はなく、過剰な演出を施してやっと客がやってくる、となれば、そうした客は本当のモノになんか興味はなく、ただ一過性のブーム的に、さっと表面をなでて、ああ面白かったねといって去っていく、そうした浮気な客を次々と引き寄せることでしか成立しえないビジネスというのは、金儲けのほかに何か意味があるんだろうか、そんなことでしか成立しえない地域おこしって意味あるんだろうか、そしてマスメディアはこういうくだらない循環構造をますますくだらない構造にすることしかしてなくて、だいたいそんなこと意味あるんだろうか。
最近ラーメンが嫌いなんだけど、これもそうだ。コンビニとか行くと有名ラーメン屋監修のカップ麺とかあって、ラーメン屋名は難しい漢字を使ったりしてて、パッケージにこうるそうなオッサンが難しい顔で腕組みしたりしてて、まあ最近のラーメンてそんな感じなんだけど、で、スープは何時間煮込んだだとかの「ストーリー」が過剰にまぶされてて、それをおいしそうにいただくって構造。しかも、その手の、雑誌やムックに載るような「有名ラーメン屋」には「ラーメンブロガー」的な連中が遠路はるばるやってくる。彼らは時につるんだりしてて、「わざわざ来た」感がただよってて、で何故かニヤニヤしてて、写真撮ったりするんだよなあ。ああそうそう、アイホンとか持ったりしてる若夫婦とかがいて、時代の最先端ヅラをして済ました顔で商品写真撮ったりしてるんだよなあ。…あ、それはラーメンじゃなかったなカキ氷だった。
つまりそういう、商品サービスの提供側と消費側のなんともいえない化かし合いというか、まあ、企業努力で客は金を払って満足かつ売り上げアップという、互いに満足の構造なので、それに文句つけるのも何だって気もするけど、でもひっかかる。
あのニヤニヤ面が、いちばんひっかかる。いやだ。
風評被害は、風評商法はびこる環境でしか発生しない。
たとえばスカイツリー。マスメディアがスカイツリーを話題にする。それにのっかって、いろんな便乗商法いや関連ビジネスが林立する。マスメディアたとえばテレビは視聴率のとれるネタしか基本的には扱わないから、ベースとして「多くの人がスカイツリーを気にしている」という土壌があってこそなんだけど、それでも、マスメディアの殺人的爆発的訴求力にのっかって売り上げを伸ばすのは、風評商法に違いない。
風評被害も風評商法も、移り気な浮動票的消費者がいてこそ成立する。彼ら消費者は、真偽とか善悪とかあんまし気にしない。ただなんとなく話題に乗っかって、他律的にゆらゆらしてるだけだ。彼らを一瞬つかまえれば、莫大な儲けになる、と考えて風評商法に乗り出す向きが絶えないんだけど、ほんとにそうかね。
風評商法を継続するには、莫大な広告宣伝費と、絶えまぬ集客努力が必要になる。商品やサービスにそのコストを上乗せすれば価格は上昇するから、それを抑えるためにはスケールメリット、大量生産大量販売しかないが、いまどきそれはけっこうなリスクである。無理してナンボの商売。長期的な継続性なんか後回し的じゃん。
ぼくらってさ、そういうの、求めてるのかなあ。
「一発儲けてベンツで豪遊」的なさ、バブル時代の六本木的なさ、毎晩毎晩うかれて、花束持ったエロ野郎たちがうろうろしてさ、こんなこと長く続かないと内心思いながら、ああいうの、再来してほしいかなあ。
もっとさ、地味だけど確かな毎日を求めているのではないかな。
だから、風評商法なんてやめようよ。時間とカネと労力の無駄で、あほくさい。
※風評商法が成立するだけのお金を日本社会は持ってるってことで、まだまだ豊かですね日本。
※風評発生装置たるマスメディアは恥ずかしい。そう思うべきでしょう。
※インターネットも本来的には少数派のメディアであり、風評に背を向けてしかるべきなのに、風評流布装置になり下がっているのは恥ずかしい。
庭の片隅を掘り、そこに陶芸用の粘土で固めた小さな池を作って、メダカを住まわせています。メダカを放したのは去年の秋なので、一年目の夏になります。
メダカは5、6月頃から産卵期に入りますが、生まれた子メダカを食べちゃったりするので(たぶん自分たちの子だという認識もない)、分離して育てるのが普通ですが、自然に近い環境ということで、あえて同じ池で育てています。
ただ、やはり親メダカの脅威から少しでも子メダカを守ってやりたくて、池の一部にホテイ草を密集させ、緑藻で親メダカからの侵入を一応ブロックした場所を作りました。
「保育園」と僕は呼んでいます。
ところが最近、このブロックをかいくぐって、親メダカのスペースに進出する子メダカが現れました。
ひやひやしながら見ているんですが、親メダカが近づくと、俊敏な動作で身をかわしているようです。
親メダカのスペースは広々としていて、保育園に比べるとこちらは大海のようで、その子メダカはその大海を自在に泳ぎ、探検しているようです。
下手すると親メダカに食べられちゃったりするので命がけのチャレンジです。
でもぼくはそいつを眺めながら、大人になるってこういうことだよなあ、と、納得しちゃったりしています。
誰かの作ったディフェンシブな棲み処に安住することなく、もっと広い世界に、危険をかえりみずに出ていくというのは、やはり、青年のあるべき姿でしょう。
日本の人間の青年も、この子メダカのように、ルーティンに埋没することなく、チャレンジしてもらいたいものだと思います。
きょう、とあるお店にカキ氷を食べに行った。毎年カキ氷を食べに行ってるところなのに、今年は行けずじまいだったから、食べておこうと思って。
店のドアをあけたら、女たちがぎゃーぎゃー。椅子はすべて女たちに埋め尽くされていて満席だった。おばさん集団からヤンママ友達まで世代的にはワイドであったようだけど、こっちからみるとみんな一緒くたに見える。
ぎゃーぎゃーうるせえ。
電車の中でも女たちはぎゃーぎゃーうるせえが、話の中身はほとんどない。しかも個体/集団が変わっても、しゃべるトーンから内容からクリソツなのはどういうわけか。「あいうえお」を言い合ってるのと実質変わらないんじゃないのか。違うのか。そしてよく大声でげらげら笑うが、世の中そんなにおかしなことなんてねえだろ。ただのポジショントークであり舞台女優じゃん。
電車の中のそうしたトークが耳に入ると気が狂いそうになるので、僕は最近、イヤホンで音楽を聞くことにしている。
というような空間が、ぼくの好きな店のランチタイムに日に日に展開されていることを知らなかった。
ぼくは外の席に一人座り、セミの声を聞きながらカキ氷を食べた。おいしかったし、風情もよかったけど、蚊に刺された。
次に、とある作品展に行った。するとやはり、女たちが集っていた。僕以外の客は全員女だ。やはりおばさんから若い独身風まで世代的にはワイドであったようだったが、こっちからみるとやはり一緒くた。
一人の女が言った。
「癒されるうー」
吐きそうになった。
他にフレーズねえのか。
失礼だろ。
僕はその作品展は面白いと思ったので、写真集とポストカードをあわせて千円分買った。
おそらく場違いな客であったと思うが、その作品たちを眺めている僕自体は場違いでも何でもなかったはずだ。
ただ少数派であったというだけだ。だから何だ。
どうも僕は女が嫌いだ。
まあ、ああいう店とか、そういうギャラリーとか、女たちに占拠されていること自体は事前に容易に想像はできる。パターンだから。ああいうインテリアにはこういう客が来るよね的な。インテリアに群がって、時間と空間を消費して、イナゴの大群みたくあちこちを食い潰していくんじゃねえか。ぼーっと家でくだらないバラエティ見て、アホみたいな雑誌読んで、facebookで心にもない「イイネ」を連発して/連発されて、どこかに新しい店が出来たと言えばさっと群がり、まあこんなもんだよねと言いながら次の店に群がり…。新聞のチラシとかテレビCMとかに触発されて瞬間的に何か消費して。自分が望む自分像を演じ/相互に演じ、そのイメージの中で浮遊したライフを満喫しているのかどうなのか。だいたいあちこち代理店やらメディアやらメーカーやらの狙い通りに瞬時に踊らされてるだけじゃ統一的アンデンティティもなにもくそったれで自分が何者なのかわからなくなってしまう「カオナシ」化現象にはまってしまうだろうというのに、それで本当に楽しいんかいな。
筆が乱れた。
たとえばここ↓で述べられているfacebookの気持ち悪さと、「癒されるうー」を連発する連中の気持ち悪さだ。
元はてな・GREEのプログラマ 伊藤直也が語る、ソーシャルメディアの功罪。[前編]│CAREER HACK
「ほっこりするう」もついでに嫌いだ。
乱れついでだがあちこちラーメン屋が多すぎる。しかもどこも新規開店した風情の、売りはとんこつだの魚介系だのパンチがあってしかもしつこくない的な(?)どこもワンパターンな一回食えばもう飽きるだろう的な。壁紙張っただけの安っぽいインテリアでさ、店員はどこも似たような恰好してさ、怒鳴るような声で接客してさ。
どっか知らない駅におりて用事を済ます。さてメシだ。そんなラーメン屋はあっちにもこっちにもあるのに、他に飯屋はねえのか。あとは牛丼屋だ。
女たちがそんなことしてる間、男たちはこんな体だ。貧しい昼飯を消費させられているんだ。
現代日本に生きる僕らは一体全体どういう地平線に立ってるんだ。
バブルの時代は振り返って恥ずかしかったが、今もやっぱり恥ずかしい時代なのか。
僕はクリエイティブなものが好きだ。それだけなんだ。クリエイティブなものは次から次へと消費してはいけないんだ。
何を言いたいのかわからないがこれが僕にとってのインターネットだ。
きのう書いた「どういう地平線に立ってるんだ僕たちは。」の続き。
イナゴの大群みたいな女たちの消費性向、購買意欲をあてにしなければ成立しないビジネスモデルは、短期的にはそれでいいかもしれないが、いわゆる「持続可能な社会」とは相容れないのではないのか。
なんていうか、それは「イメージ」とのセット販売だ。ここに来てこれを買えばこういうあなたを約束しますよ的な。それはあくまでイメージであって実態ではなく、だから傍から見ると「裸の王様」とクリソツなのだが、とにかく現代消費社会ではイメージとのセット販売でなければ何も売れないよとばかりに広告を打ってイメージを構築し、その代金も含めた商品単価なわけだから割高なはずだが、そこは安い海外生産でコストを抑えるという形か。いっぽう、イメージレスの商品は徹底的に安さばかりが強調される。つまりは(砂上の楼閣だろうが裸の王様だろうが)イメージには支出するが他には支出しないという、バーチャル的な支出構造になっている。
商品に付加されたバーチャルイメージはすぐに陳腐になってしまうので、常にアップデートし、「最新のあなた」を演出しなければならない。売るほうはそれに腐心した自転車操業を続け、買うほうもそれを求め続ける自転車操業を続ける。
現状はおそらく、貧弱なリアルに、これでもかとバーチャルイメージがてんこ盛りされた状況であって、ここにきてバーチャルイメージを全廃棄すれば悲しい現実しか残らないから、引くに引けない状況になっている。
ただ一方で、そうした「バーチャルてんこ盛り状況」とは一線を画した世界もある。そこにどうやってたどり着けるか、考えたい。
うちの庭は雑草を抜かず、ある程度の高さになったら「切る」ことにしている。トカゲも元気に走ってるし、たぶん庭に生きるいろんな生き物にとっては生きやすい環境だと思う。
その中にある小さな畑も、雑草は伸びたら切って、有機マルチとして活用している。有機マルチを敷き詰めると、雑草はあまり生えてこない。
んで、うちの畑にはどうやら害虫が少ないらしい。
ぼくの実家では庭で「普通に」畑をやっている。草は見つけ次第に抜き、水は毎日撒き、農薬もよく散布しているらしいが、うちの畑を見て、「シソが何故あんなに虫に食われないのか不思議だ」と言っていたらしい。
うちのシソは大半が去年落ちた種から勝手に生えてきたもので、あちこちにこんもり茂っているが、確かに、ほとんど虫に食われていない。
というか、ありがちなアブラムシも含め、うちの農作物はあまり虫に食われたりしていない。
農薬はほとんど使っていない。
(テントウムシダマシだけは別。あれは大量発生して、手作業で潰した)
軒先にはアシナガバチもいるし、草を抜かないことでいろんな生き物が暮らしている。有機マルチどけるとそこにもいろいろいるし。たぶん、そういう環境がいいんじゃないかと思う。確認してないけど。
で思うのは、「普通の」農作業って何だろうか。たとえば昭和の戦前期とか、どういう農作業が普通だっただろう。畑の草を根こそぎ抜くのって、普通だっただろうか。実家の農作業をみてると、どうも戦後高度経済成長期の、画一的な工業生産チックな思想がダブる。(目の前だけの)効率性を最優先に、作物以外の植物をすべて抜き、よく耕し、肥料を与え、水を撒き、単位面積最大限の収穫を得る、そんな感じの。
いじめは決してなくならない。
なぜなら、その根底にあるのは、昨日と同じ今日、今日と同じ明日…という、相も変わらぬ平穏な毎日を維持し続けたいという共同体の強い願望だから。
それに気づいたそもそものきっかけは、いわゆる「ネット社会」のあり方。よく観察を続けていると、ネット社会は「平穏無事な僕らの日々」がベースになっていることがわかる。自分たちの根本的なあり方にメスを入れるようなことは決してせず、表面的に「騒げる」トピックスだけが、日々トピックスの内容を入れ替えながら、延々と続いている。
いわゆる「炎上」も、その範疇内で行われる。
ネット社会の住民たちは、根本的な問いが嫌いだし、避けるし、向き合おうとしない。自分らのルーティンライフはがっちり維持した状態で、ちょうど手のひらサイズな話題でいっとき感情を高ぶらせ、とくに深く考えることもなくブームを収束させる。
その繰り返し。
ああそうだ。
その前に、メディア自体がそういう性向を内包していることに気づいて、いっとき、ひどくやる気をなくしたことがあった。
つまりこれはネット社会という特殊な環境下だけのことではなくて、日本社会がそもそもそういう性向を強く持っているのだ。
しかも伝統的に。
日本のマスメディア普及は、戦争という「イベント」によって促進された。農村に新聞やラジオが浸透していく過程で、戦争は最高のトピックスだった。当時はまだ出征兵士の数は少なく、村に数人(?)という程度だったから、多くの村人にとって戦争とは、自分たちの日々の暮らしとは無縁の、しかも興奮を共有できるトピックスだった。
(↑専門家に以前聞いた話だけど記憶だけで書いてるので不正確かもしれない)
平穏な暮らしを誰もが望む。その反面、何も起こらない日常は退屈だ。平和な社会で退屈をしのぐには、戦争みたいなことのミニ版がすぐそばで起こればいい。戦争みたいなこと。みなで感情をシェアできること。「誰かをいじめること」の意味はそこにある。いじめられる「誰か」は共同体を平穏無事に過ごすために犠牲にされる。
重要なポイントが1つある。
いじめられる存在は、あくまで共同体の成員でなければならない。
つまり、たとえば、同じクラスメートであっても、みんなと全く価値観も行動も発言も違う異端児は、共同体の成員とはみなされないので、いじめの対象にはならない。
たとえば、いじめられた反撃にクラス全員をぶっ倒すような攻撃的な存在は、そいつをいじめたことによって共同体が崩壊しかねないので、いじめの対象にはならない。
いじめの目的は共同体の維持だからだ。
だから、いじめられたくなければ、共同体を離脱して、孤高の道を選べばいい。
これは経験則からもいえる。
「出る杭は打たれる」というが、案外そうでもない。
出すぎた杭は打たれない。
けっこう簡単なことだ。
が、みんながそうなっちゃったら、たぶんそれは伝統的な日本社会とは違うことになってしまうと思う。そこで僕らが住みやすいかどうかは…微妙なところ。
なぜこうした観点でいじめを論じないのか、キレイゴトばかりが横行しているのか、僕にはよく理解できない。こう思っているのは僕だけではないはず、気づいてる人はたくさんいるはず。だってみんなバカじゃないから。気づいていながら、あえてそこに踏み込もうとしていないのなら、それが何故かも理解できない。踏み込んで困るようなタブーだとは思わないから。
ってことは、みんな口だけで、心の中ではいじめなんかなくならないと思ってるけど、それ言ったらおしまいだから、適当なところでお茶を濁しているってことかな。構造的にはそれもいじめとおんなじなんだけど。
あと、いじめによる自殺がここのところ大きなトピックスになっているが、自殺というのは人を殺すエネルギーが自分に向かっただけのことで、人を殺すエネルギーという危険な存在に変わりはない。もともと思春期は精神エネルギーが高い時期なので、そのエネルギーがいろんな方向に暴発しがちなわけだが、社会維持のためにはある程度コントロールし、封じ込める必要があると思う。
以下、過去ツイッターに書いた関連ツイート。
変わらぬ平穏な日々を維持したいという願望は真っ当だし否定する気はさっぱりないんだけど、ネットの炎上も学校のいじめも、そこから起っていることではないかというのが僕の仮説。誰かを叩く、血祭りにあげることを共同体のガス抜きに使って、根本的な課題を放置するというイヤらしい人生の知恵。 [ link ]かつて小作争議というのがあったが話題になったわりには社会変革はもたらされなかった。多くの農民が部分的小作農であり現状維持を望んだからだ。/以上、聞きかじり。…という例のごとく、日本社会は伝統的に変革を好まないし、日本で(外圧なしの)革命は起りえない。
[ link ]いじめのない日本社会って、ありえないんでねえか。和と表裏一体だから。いじめ撲滅なんて不可なキレイゴトじゃなく、現実的対策したらどうか。
[ link ]
頑張る、とは何か。
僕らの文化では、頑張ることは基本的にイイコト、美徳とされている。怠け者は「もっと頑張りなさい」と言われるし、頑張っているマラソンランナーには「頑張れー!」と声援が飛ぶ。
一方で最近では「頑張らなくてもいいんだよ」的に言われることもあるけど、それも、「頑張る=美徳」を否定するものではない。頑張るのはイイコトだけれども、それだけだと息がつまる、プレッシャーで失速してしまうから、もっとリラックスして、というような意味合いで使われる。
頑張る、とは普通、「月月火水木金金」的に、ろくすっぽ休みもとらず一心不乱に仕事や何かに打ち込むことをイメージする。海軍なら猛訓練、受験生なら猛勉強、スポーツ選手なら猛練習。
そうした取り組みが効果を発揮する局面も、たしかにある。
だが、一方で、国家滅亡の危機に直面した一国の指導者がとるべき態度は、こうした「頑張り」だろうか。
もちろん違う。
じっくりと考えてか、瞬時にかは状況によるが、必要な情報を集約し、適切な決断を下し、それを実行することだ。
冷静な思考判断を求められる一国の指導者が「頑張って」しまってはいけないはずだ。
つまり、「頑張る」が美徳とされるのは、たとえば国家の統治構造でみた場合には、末端というか現場というか、命令を実行する立場においてである。
何をすべきかがはっきりしている立場においてである。
それはしかし、誰にでも言えることなのではないか。
何をすべきか、すべてはっきりしている人なんていない。いたらそれはロボットだ。僕らは常に、何をすべきか、頭で考えながら日々を暮らしている。
「頑張る」とは、思考を停止する状態だ。
僕らがいつも頑張ってしまったら、つまりいつも思考を停止してしまったら、誰がその代わりに思考するのか。たぶん会社であればそれは上司だったりするんだろうが、それでいいのか。思考をアウトソーシングしていいのだろうか。
「忙しいから」と、多忙を言い訳に、考えることを停止し、他の誰かの決断にすべて委ねてしまっていいのだろうか。
それは危険だ。
日本はもともと村落共同体(=つまりムラ)の社会であるから、共同体の決定(=自分ではない誰かが決めたこと)に従うことに抵抗はない。むしろそれが、正しいことと思われている。共同体の決定に従順に、精一杯頑張ることが正しいムラビトの姿であった。それは日本が戦後企業社会へと変貌しても残った。会社の決定に従順に、自分は何も考えず、精一杯頑張る姿がエコノミックアニマルであったし、高度経済成長時代のサラリーマンであった。
しかしもはや、正しい決定を下してくれる、自分が何も考えず従属すべき共同体などは存在しないのではないか。ひとりひとりが考え、決断をすべき状況にあるのではないか。
となれば、「頑張る」はすでに美徳ではない。
頑張ってはいけない。
ぼくら自身が各自納得しうる判断を下すためには、決して頑張らず、一国の指導者と同様、必要な情報を集約し、適切な決断を下し、それを実行することが大切ではなかろうか。
以下、今年になってから書いたこと。
2012年02月19日:
真面目に働くのは正しいことか?
2012年7月24日:
作業効率を上げ、作業時間を延ばし、つまりひたすらタスクをこなし続けること、イコール、がんばることだとは決して思わない。
2012年7月25日:
猛烈に頑張ってる状態のときにふと思うのは、もしかして破滅に向かって猛烈に頑張ってるんじゃねえだろーなーという、妙な感覚。
長野県中川村の村長、曽我逸郎氏の文章、「日本を誇れる国にするには 英霊にこたえる会会長の講演を聴いて」から。
機の不調などで目標に到達できず生還した特攻隊員を日本軍はどう扱ったのか。僕はそうした元特攻隊員の方に取材をしたことがある。彼らは、元の部隊に戻れない。それどころではない。周辺関係者にも取材をした。みな、口をそろえて、生還した特攻隊員をボロクソに非難する。その非難のひどさに、僕は言葉を失った。 生還した特攻隊員は、その後の消息がたどれないケースがままある。同期の人に聞いても、わからない。 ある人は、「あんな奴、ろくな死に方をしないよ」とまで言い放った。
ひとり、生還した特攻隊員の方で、戦後、実業家として成功していた方がいた。たぶんレアケースだと思う。彼はきっと、そうした心ない非難とずっと戦って生きてきたのだ。
僕が取材した特攻隊は、いわゆる最後の特攻隊、玉音放送後に正式な命令によらず行われた出撃だ。そこで仮に何らかの軍事的な成果を出せていたとしても、すでに遅し、無意味な特攻だった。生還するのが本来的なスジだと思う。軍は目的のために行動するのであって、徒に貴重な戦力を消費してはならないからだ。
なのに何故、戻ってきた彼らが、こんな物言いをされなくてはならないのか。
取材したのはもう10年以上も前のことだが、いまでも覚えている。
もうひとつ。
中條氏は「戦争は罪深いものだが起こる。だから避けてはいけない」と仰る。これは違う。
それについてはすでに確証があるが、いずれきっちり、検証をしたいと思う。
「自信」について考えた。
きっかけは、自分が実は自信を持っていないのだと気づいたことから。
フリーランスとして、仕事をただ「受ける」だけの立場にいる限り、自信は持てない。新宿アルタ前の広場でただ声がかかるのを待っている日雇い労働者と実質的には同じだ(←座ってたら声かけられたことがある)。
いっぽう、僕の父はもう定年退職して長いが、いまだに自信たっぷりであるように見える。ここで言う「自信」というのは、何か、揺るがない確信、とでもいうか。
父は電力会社の社員だった。たいした仕事はしてないと思うが(といったら本人は怒るだろうが)、それでも地元では大企業であり一流企業だ。
大企業を勤め上げた、というのが、彼の自信の源であるように思う。
で、話はいきなり日本人になる。
ぼくらの祖先が「日本人」になったのは、そんなに昔のことではない。明治以降だ。しかもたぶん、最初っから「日本人」という意識があったのではなくて、徐々にその意識が芽生え、定着してきたはずだ。おそらく、日清戦争、日露戦争という、否が応でも世界を意識せざるを得ない「ビッグイベント」を経て、その意識は強く育まれていったのだと思う。
日本という国家の運営方法。資源もない小さな国が世界の大国、強国にのみ込まれないように生きていくために、官僚組織をヒエラルキーの筆頭にしたピラミッド構造をつくり、「一丸となって」生きていくのが最善と考えた。少なくとも官僚たちはそう考えた。そこから統制経済の発想も生まれたし、一億玉砕的な発想も生まれた。終戦直前、少なくともある革新官僚は、戦後もアメリカのような自由主義ではなく統制主義でいくべきだと考え、全国民が本土決戦に備え竹槍訓練とかやってる状況を望ましいと考えていた(←ごめんなさい、今後資料手元においてちゃんと書きます)。
つまりそれが、3.11の大震災後にしきりに叫ばれた「ひとつになろうニッポン」の原点といえると思うのだが、ともかくも、「団結すれば強いんだぞ俺たちは」という考え方が、明治以降、育まれていったのだと思う。
何が言いたいかというと、国の官僚機構からその支配下にある大企業、さらにその傘下にある中小企業…といった、末端までに至る一糸乱れぬヒエラルキーが少なくともイメージにあって、そこに所属している、俺の立ち位置はここにある、と確信がもてることが、日本人の自信になったんじゃないか。
バブルがはじけ、失われた10年だか20年だかの停滞で、その秩序が乱れ、立ち位置のよくわからない、確信の持てない人が大量輩出された。
だから今は、相変わらず自信いっぱいの年寄りvs自信喪失の若者、という構造になっている。
ただ、いまの年寄りの心の支えになっているものは、国家という団体戦の時代じゃなくなるとともに幻想化していく宿命にあるので、僕らがノスタルジーを感じても仕方がない。
僕らは、グローバル化の中で「地方」「地域」「ローカル」というアイデンティティを持つことができると思うし、また、ピラミッド構造から切り離された、個としてのアイデンティティを獲得することも可能だろうし必要だろうと思う。
思考途中ですが今日はここまで。
一生懸命に頑張ることは美徳である。
…と言われて、否定する日本人はいないだろう。
ところでこれ、日本人以外ならどう思うだろうか。
つまり、この考え方にどれだけの普遍性があるだろうか。
本当に、一生懸命に頑張るのは美徳なんだろうか。
戦後日本の復興から高度経済成長を引っぱってきた人たちは、「俺たちが一生懸命頑張ったから今の日本がある、君たちはその恩恵を受けているじゃないか」と僕に言うかもしれない。
本当にそうか?
たしかに一生懸命頑張ってた人はいたと思うけど、それは少数派じゃないのか。多くは人の努力にぶら下がって生きてきたのじゃないのか。
申し訳ないがはっきり言うけど、そう主張する世代つまり現時点でのお年寄り世代を見るに、個人差というか濃淡かなりあるけど、みんながみんな、働き者には見えないし、日本を引っぱってきたような能力を感じる人だって限られているぞ。
ただ時代の波にライドオンタイムしただけなんじゃねえの?たまたま乗った電車が特急列車だっただけでねえの?
だいたい頑張るって何だ。朝早く出勤して午前様の帰宅の毎日のことを言うのか。それってただの長時間労働じゃないのか。もっと労働時間を短縮できたのじゃないのか。勤務中、濃い時間を過ごしているのか。外回りの喫茶店で昼寝とか、同僚とダベリとか、けっこうそういう時間だってあるはずだ。
オール日本、頑張る「ふり」をしてきたんじゃないか。
「頑張るプレイ」とでもいうか。
で、高度経済成長時代はそれでよかった。時代がよかったから。
でも、「頑張るプレイ」しか知らなかったから、その後の難しい時代に対応できていない。それが今、なんじゃないか。
一生懸命に頑張ることが美徳だというのは、少なくとも戦後日本に関しては、たんなるファンタジー、幻想に過ぎないのではないか。
一生懸命に頑張ってきたのは、明治維新から、戦争に負けるまでの話じゃないか。
ぼくらがすべきなのは、しゃにむに頑張ることじゃない。
目的地に到達するために必要なことは何なのかを考え、限られたリソース(手間、コスト、時間)を投入するタスクを精選し、効率よくプロジェクトを実行に移し、成功へと導くことではないのか。それは、頑張ることとは違う。
日本は美術と工芸、そして技術の国だと思う。だから、アイホンなんてメじゃないような、スッゲー製品を世界に送り出すポテンシャルがある。
美術と工芸は職人、技術は町工場。つまり大企業ではない。大企業が社内にたんまりかかえる、大学出で頭でっかちでプライドばかり高くて生産性の低い連中を大量排出して、かわりにそうした職人や町工場とのコラボを進めればいい。元請・下請ではなく、対等な立場のコラボ。大企業はファシリテーター的な機能と、アッセンブリーの生産拠点だけを社内に残し、あとは全部、外注で作ればいい。
風評で損なわれる関係とはどんな関係だろうか。
風評で損なわれる友達関係。…親友だったら話し合ってわかりあえるだろう。風評で損なわれるような関係なら、その程度のことだ。
生協、東電に2300万円請求=「原発事故で風評被害」と提訴─千葉地裁東京電力福島第1原発事故による風評被害で売上高が減少したとして、なのはな生活協同組合(千葉市)は24日、東電を相手に約2300万円の損害賠償を求める訴訟を千葉地裁に起こした。
訴状によると、なのはな生協は原発事故後、野菜や米の売上高が3割減った。同生協が扱う米の8割は福島県産で、風評被害で買い控えが起きたという。
生協側は、事故が起きた昨年3月から今年3月までの損害や放射性物質の自主検査費用などを東電に求めたが、東電は「国の出荷基準で安全は担保されている。仕入れ先を変更するなど回避策を講じるべきだ」として、昨年8月までの損害の一部約1050万円を支払っただけという。
同生協の加瀬伸二理事長(62)は記者会見し、「明らかに人災。組員や生産者の利益を守るために決断した」と話した。
東京電力の話 訴状について承知していないためコメントは差し控える。(2012/09/24-21:59)
[ link ]
なのはな生協が東電を訴える心情はとてもよく理解できるし、その苦境にも同情する。けど、その一方で、なにか割り切れない気がして、考えていったらこういう考えに至った。
スーパーではなく生活協同組合である。風評で損なわれる組合関係ということになるのだが、それはいいのか。
最近、生協と普通のスーパーの区別がつきにくくなっているのだが、売り上げ、収益よりも、信頼関係を第一にするべきなんじゃないかと思うし、そうであれば風評被害など起きようがないとも思うのだが。
売り上げガタ落ちでたいへんお困りのなのはな生協を例に出すのは少し申し訳ないんだけど、そもそも、風評で損なわれる関係ということは裏を返せば風評で儲かってもきた関係でもあったのではないかと思うし、その関係は広く日本全土を覆っているのではないかと思うし、その関係自体に、問題があるのではないかと思う。
たとえば僕のお気に入りの、いきつけでもあるコーヒー豆屋さんがあるのだが、何か起こっても、買い控えなんかしない。むしろ、コーヒー豆屋のおじさん、おばさん(いつもいろんな話をするのだ)を支えようと、いつもより多く買うかもしれない。
店と客の関係であっても、風評で損なわれない関係もある。
朝日新聞2012年9月30日13面(読書)、『戦後史の正体 1945-2012』の書評。佐々木俊尚氏。
「本書は典型的な謀略史観でしかない」という評よりむしろここ。
終戦直後に出た『旋風二十年』という本がある。戦中は多くを報道できなかった新聞記者が「実は軍部が悪かったのだ」と暴いた本だ。当時の国民はこの本に「そうだ、悪いのは私たちじゃなかったのだ」と胸をなで下ろし、結果として戦争責任の問題は他人事へと押しやられた。いまで言うと、「2011年当時の国民は「そうだ、悪いのは政府だ東電だ原子力村だ御用学者だ」と態度を豹変させて批判し(※批判されるのは偉い人だったりエリートだったりで、おもねる対象だったり受験勉強の目標だったりで、それは今も変わらないのに関わらず)、結果として原発責任の問題は他人事へと押しやられた」となるかな。
「科学主義」昭和21年3月号(科学主義工業社改称/科学社発行)に、「軍服を被せられた科学者(日本科学技術陣営破れたり・1)」という文章が載っていた。筆者は山本洋一氏。
日本の敗戦の原因はこの戦いを始めたことである。戦いに敗れた今日から見れば、我日本の実力が聯合諸国に劣っていたことからして敗戦は当然であり、始めからわかっていたともいえる。戦争がすんでからこうした説をたてる人が実に多い。例えば「我々は皆戦争中からこんな馬鹿な戦争を始めて負けるにきまっていると思っていた。だからあまり軍に協力しなかった。しようとしてもできなかった」という様な議論である。然しながら現在こうした説をたてている人々の中には戦時中大いに軍に協力し、比較的多額の嘱託料と研究費を受取り、しかも日本に実力ありと誇示することを怠らなかった指導的地位にあった人々も少なくないのである。
この度の戦いは科学技術戦であるといわれている。フィリピンの作戦に敗れて山を下って米軍に降伏した山下奉文が敗戦の原因を問われて、ただ一言「サイエンス」と答えたとのことによっても明らかである。
…(略)…
この度の戦いに際しては我国に於いても科学技術者は殆どすべてが戦争目的に対して動員されていた。敗戦に及んで傍観者として軍に協力しなかったということをむしろ誇りとして、「今度の戦争犯罪人中の技術指導者とか、その手下の連中に、お前達は一体どんな気持ちで戦ったのかときいたら面白かろう」等と御託をならべている或る科学技術者も嘗て言論報国会の理事として「努力しないと戦いに負けるぞ」と叫び、各地を遊説して軍需会社のご馳走になり、徴用工とか学徒に気合をいれていたのである。
北川景子主演の日テレのドラマ「悪夢ちゃん」。
昨夜放送された第3話のエンディングは、衝撃的だった。
北川景子演じる主人公の小学校教師はクラスの児童らに愛想笑いをやめろと言い、自らも愛想笑いをやめる。
考えた。僕らはいつから愛想笑いをしているのか。昭和20年に戦争に負け、GHQが進駐してきてギブミーチョコレートと言い出すようになってから、僕ら(といっても僕はまだ生まれてないが)はずっと愛想笑いを続けているのではないか。
主人公のように自分を殺し、自分を偽って(=からっぽのアイデンティティ)、彼女の担当するクラスの小学生たちのように深刻な問題に直面するのを先送りにし、互いに顔を見合わせてなんとなくへらへらと愛想笑いを浮かべているのではないのか。
(ちなみに、問題先送り体質といじめ体質は同根だというのが僕の仮説でもある)
また、主人公の夢の中だったか、「顔のない小学生」も出てくる。これには「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」がダブった。
(カオナシは僕らの象徴であるというのも僕の仮説)
これは娯楽番組に巧妙に挿入された、確信的かつ核心的な日本社会への批判と受け取った。
ものすごいドラマを作るものだ。
ドラマの原案は恩田陸氏の『夢違』ということだが内容はまったく違うらしいから、おそらく脚本の大森寿美男氏によるものか。
その意図を直接聞いてみたい気もする。
私は現代史の専門家として、戦争と平和の問題に時間を費やしてきました。その中で、特に関心を持ってきたのは『歴史』と『記憶』の関係です。歴史は過去の研究のようにみえますが、常に現在の人間が利用し、多くの場合は誤用する。そのため、記憶と歴史の関係は今日の世界情勢にも影響し、しばしば議論を巻き起こします。〜ジョン・ダワー氏インタビュー、朝日新聞2012年10月30日朝刊13面
くら寿司の「7種の魚介醤油らーめん」はおいしい。
麺がちょっと柔らかかったので、もうちょい「麺カタ」にしてほしいなとは思ったけど、スープは大変においしいと思った。
量は少なめだけど、あれで350円(税込367円)は安いと思った。
いま雨後の筍のようにラーメン屋があっちこっちに出来ている。知らない駅に降り立ってメシ屋を探そうとすると、たいがいラーメン屋(と牛丼屋)しか見当たらなかったりするぐらい。
味は何パターンかあるけど、まあどこも似たり寄ったり。だいたい新しい店は「こだわり」を売りにしてて、店員は黒いTシャツに…とパターン化した恰好をしている。
…というラーメン屋の現況が、「こだわってます」という幻想を演出しているフェイクに過ぎないことを、くら寿司のラーメンは暴露してるようにも思う。
だってバイトがマニュアル通りに作って出すんだもん。それで「こだわりの味」に少なくともあっさり並んじゃうんだもん。
こだわりの味とか謳いながら中身何入ってるかよくわかんないブラックボックス的インスタントスープよりも、くら寿司のはスープの素材感がしっかり出てて、安心できるテイストも醸し出している。
要はバイトでも出せる味を、多くのラーメン屋は「こだわり」演出でごまかして、高い金ぼったくってるんじゃねえだろうなって気にさせる。
※ぼくは古くからやってるラーメン屋の味のほうが好きです。それから、おじさんやおばさんのやってるラーメン屋のほうが好きです。地味だけど、奇をてらわないところが安心です。
変化を嫌う集団的無意識が「いじめ」の根源的エネルギーだと僕は思っている。
変化をすれば、軋轢が生まれる。現状で利益を享受していたのが享受できなくなったり、その逆もあったりするから。対立が生まれる。問題点があらわになる。解決しなければいけない根源を突きつけられる。そういう状態を回避し、いわば「臭いものには蓋」、見て見ぬふりをして、昨日と同じように今日を、そして明日を過ごしたい。そう願うのが変化を嫌う集団的無意識だ。
これはほぼ「和」と同義と考えてもいいと思う。
つまり、「和の国」に暮らす僕らにとってこれはごく基本的な態度だ。
僕らは変化を嫌う国民なのだ。
変化を嫌う僕らは、属する集団における問題が露呈するのを嫌う。根本的な問題に向き合うのを避けるかわりに、表面的な問題に向き合ってごまかそうとする。
それが「いじめ」だ。そう思っている。いじめとはスケープゴートであり人柱である。
きのう僕はこんなことを書いた。
ふと思うには、意識高そーな人たちが政府とか指導者とか要人とか官僚とか批判するのって、常におんなじトーン、おんなじ目線、おんなじ口調的。内容にはなるほど的な部分もあったりするけど、その種の意見がこれまで実効性を持ったことってどれだけあるかな。…つまり実質意味ないんじゃと。
[ link ]
何故、頭のいい彼らは、実効性がないにもかかわらず、毎度の批判を繰り返すのか。これも「いじめ」と同じで、指導者らをスケープゴートにすることで、自らの平穏な日々を保持しようとしているのではないか。彼らは変化をとなえるかもしれないけど、実は変化などのぞんでいない。彼らのとなえるように指導者や社会が変わってしまったら、「批判する私」という彼らのアイデンティティが喪失される。頭のいい彼らは、自らの立ち位置を確保し、それを変えたくないがために、あえて、変わらぬ対象に対して石をぶつけ続けているのではないか。彼らは彼らの批判する対象を、彼らの批判を通して固定化する作業を繰り返しているのではないか。
とするなら、彼らこそが「変わらぬ現状」の根源ではないのか。
キレイゴトを唱え続ける彼らこそがこの国を誤らせ、いじめを生む根源ではないのか。
(論旨が飛んでる?)
■関連記事:
愛想笑いの起源(2012年10月28日)
いじめがなくならない根源的理由とか(2012年09月08日)
指導者たちへの罵声について。(2012年03月14日)
批判がアイデンティティな人の批判はブレない。批判対象がどうあろうと我田引水的に解釈して毎度調の批判を繰り返す。毎日毎週毎年繰り返す。自己目的化した批判行為。自分と属するコミュニティの存続のために繰り返す永久運動。
ブレないってことは、何も考えてないってことでもある。考えてたら、悩み、逡巡し、ときに違う意見に至ることもあるし、ブランコのように大きく揺れることもある。それがまったくない、金太郎飴みたいな批判行為に耳を貸すのは時間の無駄だ。
アップルと、アイホンをはじめとするアップル製品の人気は、いずれ近いうちに終焉する。
そう考える理由を整理してみた。
1.いまの人気はバブルである。
いま、世間はアップル賛美一色だ(いっときに比べればそれほどでもないが)。たしかに、アップルは面白い会社だし、アップル製品には素晴らしい点もある。が、世間が賛美一色に染まるほどではない。つまり、実態以上に賛美の声が寄せられていて、実態にゲタをはかせた、バブル人気である。このバブル人気に居心地の悪さを覚えている、コアなアップルフリークも少なくないはずだ。バブルはいつかはじける。
2.いまの人気は移り気なユーザーが支えている。
アイホンを触ったこともないけど、アップル製品の一番の特徴であり一番の良さは、およそメカメカしくないインターフェイスにあるだろう。これが多くの女性ユーザーをひきつけ、アップル人気を支えている。男ども(東洋経済的特集含め)はそれを追っかけただけである(=アイホンで女にモテるとか、ビジネス上色気とか)。つまりいまのアップル人気を支えているのは、移り気な女性ユーザーである。彼女たちがいつまでもアイホンを愛好し続けるとはとてもじゃないが思えない。たちまち飽きて、次の流行に乗り換えるはずだ。
3.そもそも多様化するユーザーの嗜好に対応できない。
アップル人気がはじけるまで、さかんに言われていたのは、ユーザーの嗜好が多様化したので多品種少量生産で対応しなければいけないということだ。ほとんど基本原則のように言われていたはずだが、あれはどうなったのか。今じゃ電車の中見渡すとみんな同じアイホンをいじっているという気持ち悪い状況にある。この豊かな社会でみな一斉に同じ製品というのはいかにも常軌を逸した光景だ。やっぱりこれが長続きするとは思えない。
4.長所が短所。
アップル製品は一貫してメカメカしくないインターフェイスを売りにしているが、そもそもメカメカしいインターフェイスの大好きな連中がいる。彼らの嗜好は、アップルの基本思想とそもそも合わない。ぼくもそっち系である。メカメカしい、ソリッドで硬派な製品を使いたい向きにとっては、時計はG-SHOCKだし、ゲームは任天堂でなくてソニーだし、音楽プレーヤーはiPodではなくてウォークマンである。
5.アップル製品はそもそも不便である。
アップル製品はおしなべて、開発者が想定した状況、想定した使用においては最高だが、そうでない状況、そうでない使用においては最低である。昔実家のコンピューターはとある事情でフルチューンのマックだったが、あれにはほとほと手を焼いた。また、第5世代だっけかビデオiPodを使っているが、音量調整と曲送り戻しが同じ操作になっていて、状況で操作が変わるのだが、だからこの2操作を同時にできない(たぶん)。これはいつも不便だと思っている。つまりアップルらしいスマートなインターフェイスは、利便性を多少犠牲にしている。ユーザーよりもアップルのほうが、要するに「偉い」のだ。アップル製品にはいつもこのタカビーさを感じる。それを感じないのは、単に無神経ではないか。
6.アップルは嘘つきである。
じつはぼくにとって決定的なのはこれ。上記ビデオiPod当時は、見事に騙された。世界が変わると思った。でも全然変わらないじゃん。podcastなんてどこ行っちゃったのって感じだし、出先でビデオなんてあんまし見ないし(バッテリーもたないのもあるけど)。以来、ぼくはアップルを信用しない。スケベなおっさんが何故かカリスマ化しただけの、スケベメーカーでしかない。
※これはたんなる私説であり、根拠薄弱でもありますので、判断は個々人でお願いします。また、このテーマに関しての議論をする気もありません。
ぼくは子どもの頃、将来の夢がなかった。
多分なかったと思う。記憶にない。
なんとなく、「こんな感じの大人になりたい」的な希望像はあったけど、それは夢ではない。
高校の頃は2つの夢があった。
1.音楽でプロになる(当時は甲斐バンドとかのイメージ)。
2.薬師丸ひろ子のマネージャーになる。
大学入学で上京後、これらの夢はすぐに消え飛んだと思う。
いま、しきりと「夢を持とう」と夢保持が推進されているが、たとえば、「サッカー選手になりたい」という子どもが増えると、日本サッカー界の底上げにはなるが、子ども一人一人が夢にたどり着く確率は、その夢を持つ子どもの増加と反比例に低くなる。JがJ1からJ3までできればそりゃJでのプレー確率は高まるが、結局のところ、日本で世界で一握りのサッカープレイヤーになれる確率はどんどん狭き門となる。もちろんそれだけステイタスは高まるわけだが、そのステイタスは多くの夢の人柱の上に成り立っている。
みんなが夢を持てば、こうした「夢のインフレ」状況となる。
それはいったい、誰が望むことだろうか。
夢なんかなくたって生きていける。
「迷惑」について、考えている。
「誰にも迷惑かけてない」というのは、自分の行為を他人から責められた時に使う常套句だ。
コミュニケーションはお互いの「前提」の上に成り立つものだから、このフレーズが有効だということは、「人に迷惑をかけてはいけない」ことが社会の基本ルールとして理解認識共有されているということになる。
それは、「人に迷惑をかけることでなければ、それをするのは個人の自由だ」という考えにもつながる。
こういう考えが日本で定着したのは、いつ、どうやって、だろうか。
これは西欧由来だろうか、それとも日本古来の考え方だろうか。
勝手に想像すると、戦後の民主主義時代において、(それまでの全体主義的な思想から180度真逆の)個の尊重ということが言われるようになり、かといって何のルールもタガもなしにでは社会崩壊してしまうから、その前提条件として「人に迷惑をかけることでなければ」が共有認識されるようになったのではなかったか。
果たして、この前提条件は正しいのだろうか。というか、個の尊重ってそんなに大事なんだろうか。
たとえば「持続可能な社会」という考え方には、ある程度、個を犠牲にする要素がビルトインされていると思うんだけど、全体(国家、社会、世界…)と個人との調和というかバランスというか、丁度いい加減なところで釣り合いをとったほうがいいんじゃないだろうか。
「人に迷惑をかけてはいけない」ことを前提にした社会とは、裏を返せば、「何をしようが勝手じゃん」って社会であり、僕らの芯に「何をしようが勝手じゃん」がビルトインされている限り、僕らは(悪い意味で)いつまでたってもこのままではないかって気もする。
それでいいのかな。
※数日前にも、「高校を卒業して上京するとき、父親に、「よそ様に迷惑だけはかけるな」と訓令されたことを覚えている…」と書きました。これはその続き。
今年生まれたメダカの稚魚が一匹、藻にからまって亡くなっていた。
たくさん生まれたメダカの稚魚たちが、全匹元気に育って成魚になることはない。強い個体だけが生き残る。
植物もそうだ。うちは「ほったらかし畑」で、その環境に適応した種の、強い個体だけが残り、あとは枯れていく。
もちろん、メダカも作物も、人工的に環境を整えてやれば、生存率はあがるはずだけど。でも、タフな「彼ら」を見ているのは好きだ。
農薬をほとんど使わないし、基本的に不耕起だし、雑草も刈る程度なので、うちの庭にはいろんな生き物がいる。虫とか、たぶん余命いくばくもなさそうな個体が、それでもなんとか羽をばたつかせて動いたりしている。
生き物はみんな必死で生き残ろうとしている。
それにしても、夏は過酷な季節だ。おそらくそれは温暖化とかヒートアイランドとか以前から、多くの生物にとって過酷な季節であったのではないか。僕らはエアコンとか、いろんな文明の利器で暑さをしのげるけど、彼らは裸一貫で夏と対峙しなければならない。
メダカもそれなりの暑さ(陽射し)対策をしたりしているけど、今日も元気いっぱいにエサを食べてるけど、一匹でも多く生き延びてほしい。
アイスクリームの上に寝そべったり、冷蔵庫の中に入ったり。コンビニなどのアルバイト店員たちの悪ふざけ画像がネットにアップされては批判が集まり、店側が謝罪する事例が相次ぐ。なぜなのか。対策はあるのか。〔中略〕
明治学院大の宮田加久子教授(社会心理学)は、「若者にはソーシャルメディアを『仲間だけのメディア』だと誤解する傾向がある」と指摘する。
仲間内で「目立ちたい」「ウケたい」という心理は昔からあるが、世界に開かれたメディアを手にしているのに「見るのは友だちだけ」と勘違いしてしまうというのだ。「『デジタルネーティブ』と呼ばれながら使い方をしっかり学ぶ機会がなかったのではないか」- 朝日新聞2013年8月6日朝刊33面
「のぼうの城」をDVDで観た。映画館で観たかったんだけど、気がついたら終わってたんで。
すごく、埼玉っぽかった。上下関係が適当なところが。
ぼくは愛知県の三河地方で生まれ育った。血筋的には生粋の三河人だ。三河は厳格なタテ社会。管理教育のベースでもあると思う。昔は三河ナンバーの暴走族といったらけっこう恐れられた存在だったはずだが、そっち方面も規律が大変厳しいと聞いた。
そんな三河では、「のぼうの城」で描かれたような状況そのものがありえない。
三河を含む愛知県は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といったいわゆる「天下人」を輩出した、「覇権」の土地柄だと思っている。その伝統を引き継いだのがトヨタ自動車だろう。
その土地柄には、帝国主義と相通ずるものがあるように思っている。明治から昭和20年の敗戦にいたるまで、中央集権的な国家を築き、国際社会と力で対峙した当時の日本とイメージがダブる。
「のぼうの城」を攻め立てた石田三成軍には覇権の思想があったが、それに対抗した「のぼう」らにはその思想がなかった。というか、これは住民感覚なんだけど、愛知県にはある種の求心力というか統率性というか、なんていうか、「駆り立てられる感じ」があるんだけど、埼玉県には求心力も統率性も、「駆り立てられる感じ」もない。ばらばらで、てきとーである。埼玉県でずっと暮らしてるとそういう実感はないと思うけど、愛知県から埼玉県に移り住むと、そういう感じがする。たぶん、根っこのところの土地柄が、全然違うような気がする。
で、これからの時代、埼玉的なこのゆるさのほうが、愛知的な一種の硬直さよりも、時代感覚にフィットしているような気がするし、個人的にも生きやすくて好きだ。
うちの小さな庭は、できるだけ生き物の豊かな状態にしたいと思って、雑草を抜いていない。伸びた雑草を刈り取るだけにしている。おかげで、虫とかトカゲとかカエルとか、いろいろな生き物が跳んだり鳴いたり走ったりしていて、なんか楽しい。
で、そうした生き物たくさん環境には、まあ当たり前なんだけど死骸もたくさんある。虫の死骸はそこらじゅうにある。なにかふっと、息切れたような感じで。メダカの泳ぐ池に浮いていることもよくある。アリとか。なんで泳げないのに水に向かうんだか、理解できないんだけど。
彼ら小さな生き物は、たぶん何か考えて生きてるわけではなくて、ただ生きている。本能のおもむくままに動いて、長生きしようとか太く短く生きようとかそういうことも考えず、ふと、天敵に食われて終わるやつもいれば、僕ら人間になにげに踏みつけられて一生を終えるやつもいるだろうし、あるいは寿命で体が弱ってきて、よろよろとただ前に進もうとして、息果てるやつもいるだろう。
そんな彼らの姿を見ていると、命あるところに死がある、という、きわめて当然すぎることを思う。
死のないところには、命もない。僕らは死ぬのが怖いし、死を畏れるけど、それよりも恐ろしいのは、命もないことではないか。
癒されるということは、傷ついているということだが、人が普段の日常生活で日々傷つくということは、どういうことだろうか。日々傷ついたメンタルをいわゆる「癒し」で回復させてまた日常生活に戻っていくというのは、何だろうか。
そもそも、特段に傷ついてなくてもフレーズとして「癒されるうー」を発することは充分にありえるのだが、とりあえずそれはおいといて。
たとえばうちで飼っているメダカがそのような状態に日々置かれているとするならば、それは水が腐ってるとか、PH的にどうだとか、つまりメダカの生育環境に不適な状態にあるということで、世話主としては水換えをするだとか、何らかの対策が必要になる状態だといえる。
ということは、癒やしを求めるということは、そもそも、その人の生育環境が「向いてない」ということになるのだろう。そして、それは癒しを求める人に固有の問題というよりも、僕ら自身が果たしてこういう現代社会での生活に向いているのか、という問題になるのだと思う。
さきほどのNHKおはよう日本で障害者ホームのことが取り上げられていた。牛久市で障害者ホームを運営する方だったと思うが秦さんという女性が、当初地元にあった反対運動について、
「反対している人は、数は多くないが声が大きい」
と語っていた。
だから、反対を説き伏せるのではなく、賛成を増やすのだと。
なるほどと思った。
たとえば学校のいじめ。
いじめている子どもは、数は多くないが声が大きい(=クラス内での存在感、影響力が大きい)。いじめられている側は何度も誰かから物を取られたりしていると、あたかもクラスじゅうが敵であるかのように思い込む場合もあるかもしれないが、たいていは特定の誰かが繰り返しやってて、それを大半は見てみぬふりをしている、というのが通常のパターンではないか。
たとえばネットの炎上やいじめ。
叩いてくる人は、数は多くないが声が大きい。炎上でよくあるパターンは、まず誰かが強い語句で叩く。それだけでは空気は動かない。もう一人か二人、それに同調する強い言葉を書き込むことで空気が動く。空気を読んだ大多数の同調派や野次馬が参入して、炎上になる。
あるいか狭いコミュニティでのいじめも、特定の誰かがたとえば複数のIDを使ってあたかも多数が同じ考えであるかのように個人攻撃をかけたりするのが多く見られるパターンだろう。
たとえばある集団が間違った方向に行こうとしている。それを引っ張るのはおそらく「数は多くないが声が大きい」人たちだ。そしてたとえばその集団の中のある人が、「おれは内心、反対だった」と事後に語る。それを聞く限りでは、見識ある人のようにも思えるが、果たしてそうか。内心反対だった彼は、まさにその最中、その集団のなかにおいて公然と反対の声を上げなかった。おそらくその集団の大多数が、彼のように内心反対、表面賛成であったはずで、まさにそれこそが集団を間違った方向に向かわせたエネルギーであったのではなかったか。
公然と意見を表明することにはリスクがつきまとう。「あの時お前はああ言ったじゃないか」と結果責任を問われる可能性がある。だから言わない。後出しジャンケンをする。…というのは、無責任で、ずるい。
ぼくらはその「ずるさ」の責任を自覚することなく、この平和な日本を生きている。
※クライアント=依頼人、顧客といった意味ではなく、サーバー←→クライアントのほう。
街で、駅で、電車の中で、目にする多くの人たちがうつむき、スマホの画面ばかりを凝視しているさまは、客観的にみればかなり異様だ。
スマホに、さらにはスマホがつながるサーバーに、操られた群衆、のようにも見える。
果たしてそれは本当に自発的行為なのか。「シェア」という名の同調圧力に急かされているだけではないのか。
クライアント化する現代人を誰かが操作しようと目論んだら、どうなってしまうのだろう。…という設定のドラマとか、誰か作らないのだろうか。
おそらく全国的な傾向だと思うが、一定の年齢以上のご婦人(60代以上とかだろうか)が外出時によく被っている、つば広のハット。綿素材とかの。
「真夏の紫外線対策もバッチリ」[ link ]
…とかの理由で好まれているのだろうけど、僕が見た限り、外で見かけるご婦人の大半が、こうしたハットを被っているように思う。
で、このハットを被った状態で自転車に乗ってる人が非常に多いのだが、一見してわかる通り、これ、視界が非常に制限される。前方の視界は辛うじて確保されているのだろうが、横なんか、ほとんど見えてないと思う。
で、その状態で自転車を漕いでいる。まあ、まっすぐ直進してるだけならいいのかもしれないが、たとえば、道路の左端を走ってて、前方に駐車車両なんかがあって、それをパスするとき、ろくに(もしくは全く)横の確認をしないまま右にふくらんで駐車車両をパスしようとする。
あぶないったらありゃしない。
元々、高齢者は周囲の確認をしない傾向があるのに、それに加えて、このハットを被ってしまったら、周囲が全く見えない状態で走っていることになる。
もちろん、こちらも、そしておそらく多くのドライバーらも、高齢者の好き勝手に危なっかしい自転車運転はよくわかっているので、そういう局面では習慣的に気をつける。
当人たちにとっては、おそらく、周囲が見えないほうが、気にするノイズが少ないので、安心して走れるのではないかと思うが、その安心はあくまでも周囲の人々の気遣いによって成立する安心であって、一歩間違えれば事故のもとである。
「帽子で視界を遮らないようにしましょう」
とか何とか、国民生活センターかどこか、注意喚起をしていただけないものか。
庭に小さな畑で、野菜をちょこちょこと作っている。
毎年、この連休中に苗を植えたりするので、いつものようにホームセンターに行ったら、案の定の大賑わい。
小さな子ども連れの若い家族もいるが、メインは年配客。たいてい夫婦で買いに来ている。
ある程度の年齢の方なら畑作業もベテラン、と思ってしまいがちだがさにあらず。多分だけど、ビギナーが案外と多い。苗につけられた説明書きとかを熱心に読み比べて回ってたりする。ベテランなら周知事項だから読まないと思う。
そもそも苗のラインナップ自体がビギナーへの訴求効果を狙っている。どの作物もだいたいそうだと思うけど、家庭菜園で確実な収穫が期待できるのはごく平凡な品種。謳い文句につられて珍しいものを買っても、あとでがっかりすることが多い。…というのはひととおり経験してみればわかるので、ベテランには謳い文句はあまり通用しない。苗売り場にずらっと陳列された、これでもか的な苗のラインナップはだから、経験値の浅い人向けということになる。
あるいは、家庭菜園についての知識は今ではネットでいろいろと手に入るが、素人の書いてることはどうも怪しい内容が目につく。一見説得力があるように思えても、自身の少ない経験に基づくものだったり(←ブログなどは「初めての○○づくり!」が多いし)、思い込みや受け売りも多い。過度のウンチクとか。
要するに、ビギナーに次ぐビギナー、世の中ビギナーだらけなのだ。
つまり、いまの高齢者は、僕らがなんとなく思い込んでいるほどの経験値を持っていない。そして、これはおそらく、家庭菜園に限った話では、ないはずなのだ。
団塊の世代以降はいわば歴史と伝統から切り離され、戦後日本を生きてきた。働く男は企業社会でずっと暮らしてきた。それぞれが所属した企業社会の風土において、その経験値は有用なものであったかもしれないが、それは一般社会で有用ではないし、他の企業社会でも役に立たない。おまけに賞味期限切れだったりもする。
つまり、彼らが長い人生をかけて培ってきた経験値の大半は汎用性がない。
一方、インターネット社会においても彼らはビギナーである。どんどん新しいツール、新しい考え方が出てきて、若い世代は最初からそれを前提にしてくるけれども、高齢者世代にとっては、ただ目まぐるしく新しいものが流れてやってくるだけで、ついていければいいほうだ。
というわけで、いま、過去を振り返ってもビギナー、前を向いてもビギナーという、蓄積した経験値というものがおよそ何も役に立たない、「ビギナー老人」が大量発生している、ということがいえるのではないかと思う。
日本サッカーは、やっぱり弱い。
弱者は、日テレのドラマ「弱くても勝てます 〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜」ではないが、強者に勝つための知略が必要だ。
ぼくはそれを、世界に名だたる日本の「忍者」にならえばいいと思う。
「ニンジャ・サッカー」である。
ネーミングもインパクトがあって、世界中どこでも通じそうだ。
忍者の特徴は、神出鬼没なところにある。そういうサッカーをすればいい。
例1.
サイドバックは猛烈に上がり下がりを繰り返す。ヘバったら、別の選手がサイドバックにチェンジする。こうすれば、無限に運動し続ける脅威のサイドバックになる。
例2.
フォワードがセンターバックに、センターバックがミッドフィルダーに…。あらゆる選手が自由自在、縦横無尽にポジションチェンジをする。ピッチ上の全選手が一体的に動き、どこからでも攻めて守る。
とまあ、こんな感じで。
レッズでいうと引退しちゃったけど山田暢久のように、キーパー以外のどのポジションでもできる選手を10人集めれば、できる。
相手の裏をかく知力と、献身的な組織力。日本にはそれがあるんじゃないのか。
もうじき50歳になろうとするオッサンの僕だが、能年玲奈が大好きだ。
同様に、オバサン達はジャニーズの若い男の子が大好きだ。
そして、アンチエイジングという言葉が肯定的にもてはやされて久しい。
いずれも、「若々しさ」に対する憧れだったりがその心理の根底にあるのだと思うが、それは一体、どういうことか。
「若さ」の、何がいいのか。
現実の20歳前後の若者といえば、ごく一般的は、若い容姿や肌、それに体力ぐらいしか持っていない。社会的な地位は、学生か、社会に出たてのペーペーで、おおむね低く、当然ながら様々な経験値は低く、有益なネットワークも少なく、したがって業務遂行能力も低く、だから金もなく、要するに半人前である。
なぜ一人前である僕らは、半人前の彼らを憧れているのだろうか。
以下は仮説。
僕らの生物としてのピークは20歳。そこからはどんどんと一目散に下り坂。定年退職後の高齢者なんて、体力・知力ともに衰える一方で、年金暮らしなら金もなし。ただただ、毎日の生活の蓄積から、人生の経験値とやらが積みあがっていくだけの存在にすぎない。
と、ぶっちゃけてしまうと、元も子もない。社会の規律が保てない。年配者は人生の先輩としてリスペクトする仕組みにしなければならない。…という社会全体の智恵として、生物としてのピークとは別に、人としてのピークを人生終わりのほうに定めた。そういう約束にした。最後に大団円で終わる、ああ、この人の一生は良かった、この人らしい終わり方だったね、的な幕引きを目指す。終わりよければすべてよし、とする。
しかしこの約束には落とし穴がある。いくら若い頃に素晴らしい業績をあげたり素晴らしい社会貢献をしても、のちにホームレスでのたれ死んだり、酔っ払って道路脇の排水溝に落ちて亡くなったりと、ろくでもない死に方をすると、「あーあ」となってしまう。あるいは今だと、高齢化が進んだ現状をふまえて最期をどう迎えるべきか、現実的な問題や議論がいろいろある。
もともと、「人生50年」と言ってた時代は、「ほんとうのピーク」と、「社会が約束ごととして定めたピーク」(つまり最期のとき)とのズレは30年しかなかったのだが、いまやそのズレは50年、いやそれ以上ある。このズレが拡大することによって何が起きるかというと、要は人生の「バーチャル化」傾向がより強まるのではないか。
リアルとバーチャルの断層化が深刻化するのをなんとかつなぎ止めようとする、そのあがきが、たとえばアンチエイジングだったりするのではないか。若々しさへの渇望になるのではないか。
個人的な対処法としては、能年玲奈が好きだという心理を否定することはできないが、僕の人生のピークは30年近く前に終わっていること、まもなく「老化30年」が経過するのだということ、…というリアルを素直に受け止め、静かに「余生」を過ごしていきたいと思う。
さらにいうと、そうなると、「自分に何ができるか」とか「自分に何が得られるか」とかではなく、「この社会に何を残せるか」ということが、やはり重要になってくるのではないかとも思う。
安倍晋三首相は
「非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える。許しがたい暴挙を断固非難する。テロリストたちを絶対に許さない」http://www.asahi.com/articles/ASH2124J2H21UTFK003.html
いまフジテレビで放送しているドラマ「問題のあるレストラン」が好きだ。
基本、女性向けのドラマだと思うけど、あれ見てると、つくづく、僕は「負け犬」として生きてきたんだなと思う。この感覚は、勝ち組エリート的な人には、わからないと思う。
男性中心、男性優位の社会や会社のなかで、辛い思いをしている女性たちへの視線があたたかい脚本なんだけど、それが、正社員中心、正社員優位の社会や会社(組織)のなかで、常に下位に位置づけられ、時に不当な扱いを受けてきた僕自身にもぐっとくる。というか、普段はあまりそういう意識はないんだけど、あれを見ると、そういう自分の立ち位置を再確認してしまう。
でも僕は、自分のそういう立ち位置が嫌いではない。組織人ではないし、組織人にはなれないし、組織人になろうとも思わない。僕は僕としてやってきたし、これからもやっていくし、くたばるまでそうであろうと思っているから、彼らを羨ましいとは思わない。
ただ、時に、僕のような立場の人間を、あたかも単なる駒か歯車かのようにあらかじめ規定し、となると「あいつは○○のくせに生意気だ」と思い、潰しにかかる向きもいるから、それには腹が立つ。
劣等感と裏腹の優越感に浸り、もしくは優越感にすがり、組織的思考にすっかり染まり、虫けらはただ叩き潰せばいいと思い込んでいる。しかし僕は虫けらじゃないし、虫けら扱いされていい人などどこにもいない。それに、そんな彼らの確信など、単なる妄想、幻覚にすぎない。
…話が若干横滑りしてしまった。えーと、そういう人ばかりではないというか、僕が知っている、ほぼ大半の組織人はそうした属性をもっておらず、むしろ、きわめて健全、正常な人ばかりだということはお断りしておきます。
SNS大流行中。
TwitterにFaceBookにLINEにと、その場限りの言葉や、演出された言葉が次々と発され、蓄積されていく。何年も経てば、捜査関係者のみに有用な、言葉のゴミの山が。
ネットに蓄積される言葉の総数が多くなればなるほど、1つあたりの言葉は、どんどん軽く、薄くなっていく。
僕がここで書いてることなんて、もう、無重力状態である。
昨夜、ひさしぶりに、楽しい夢を見た。
詳しい内容は覚えていないけど、将来(=老後)のイメージのようだった。
あいかわらずの貧乏暮らしで、田舎ライクな環境で、ガサゴソと、楽しくやっていた。
夢を見ながら、ああ、おれはこんな暮らしがしたいんだなー、と、自分自身を再確認しているような感じだった。
貧乏くさい暮らしでも、誰に何を言われても、好きなことをして、過ごしていたいんだ。
東日本大震災以来、ぼくはインターネット上の言論空間、とりわけ、いわゆるSNSから距離を置いている。かりにシステムがよくできていても、実態としては、かなり無意味で、不毛と感じたから。
いまとなっては、こんなこと、言わずもがなだが、多くのユーザーは、自分の見たいものだけを、見たいように見ているだけなので、実質的には、引きこもりの一人部屋のような閉鎖的空間にコトバや思考がループしているような状態となっている。SNSの言論空間は、異物同士が摩擦してできるような、発展的な生産性に乏しい。初期のインターネット空間の「わくわく」感に比べて、ひらべったく、退屈だ。
という認識を書いたあとに、中川淳一郎氏が語ったというインタビュー記事から抜粋。
右も左も、自分の主張を通すためにはデマを流してもかまわないと考える愚民が蔓延(はびこ)っています。http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/
「ほんとうのこと」など、どうでもいい、と思っているから、こういうことがネット上では常態化する。自分自身の、ガチでリアルな日々の暮らしに直結することだったら、ほんとうのことなんかどうでもいい、とはならない。
例えば謝罪会見を見た人が「お辞儀の仕方がよかった」とか「仏頂面で反省が見られない」とかネットにコメントするわけでしょう。今や謝罪会見は「競技」となって、それをみんなで「審査」している状態です。http://wpb.shueisha.co.jp/2017/01/06/77694/2
つまりは、自分に直接関係のない、いわば対岸の火事の見物客。どうでもいいこと。一日、いや、数時間もすれば忘れてしまうような、時間つぶしのネタ。
視聴者参加型の、テレビのバラエティ番組。ネットにあふれる情報なんて、そんなもんかな。で、それに参加してるユーザーというのは、単に、通勤電車の暇つぶしでやってるだけ、だったらいいけど、たぶん、多くのユーザーはそれよりものめりこんでいるはず。刹那な自己実現にハマって、現実から遊離しているはず。
現実から遊離した状態で、生きていられるということは、豊かな証左。それはよかったですね、という、しょうもない話で終わります。
2017-01-07 11:12追記。
そうしたインターネット上の言論空間を支えているもの。
いくつかの具体例を書きかけて、やめた。
つまりは、リアルではまともな社会生活を送っている、会社やら地域やら家族やらの所属集団では一定の安定的な地位にある、いたってまともな人たちが、その所属集団外では、他人の痛みをまったく無視したような、傍若無人言語道断な言動に出るケースを、いくつも経験してきた。
少なくとも日本では、年長者を無条件で絶対視する文化、社会規範が、いつからかはともかくとして、現存している。それは、既存社会の秩序や価値観が無条件で肯定されていることを意味していると思う。日本社会で生まれ育つ、多くの人々は、おそらくそうした、ある種の絶対性を是認、容認している。所属集団においても、そうした規範に従順にふるまうし、集団外でのふるまいにも、そうした規範が適用される。
「部長」は、ネット社会に出ても、「部長」的にふるまう。とりわけ安定した社会的地位にある人はとくに、所属集団を離れても、相対的にではなく、絶対的にふるまう。
つまり、いまのネット空間を支えているのは、本質的に保守的な現実社会だ。たとえそれが幻想であったとしても、磐石な現実社会、磐石な日本社会があるからこそ、人々は、声高に主張し、評論し、こきおろす。
一介のフリーランスである僕には、確たる社会的地位が存在しないので、なかなかそんなふるまいはできない。
外風呂に行くと、大人・子供を問わず、辟易させられる行動に直面することが、しばしばあります。
たとえば、タオルを風呂のお湯に浸す行為。たいていの入浴施設では、これをしないように注意書きしているのですが、いい年をした大人からして、これをやっているのをよく見ます。
あるいは、 湯口から出てくるお湯を、かけ湯用に置いてある桶ですくっては自分の足にかけながら、無邪気に友人とダベっている小学生。ただ、子供は経験が浅いし、そもそも視野が狭く他人が見えていないところがあるから、不愉快ではあるけど、大人が指摘すればいい話です。…と、注意しようとしたところで親が呼びにきて、子供たちは風呂をあがっていきました。親は、子供のその行為を注意しませんでした。
こうした行為は単に、公共浴場での経験に乏しいためのマナー違反、というにとどまらず、他者への視線や配慮に欠けた行為のように、僕には思えます。つまるところ、それは、他者への想像力に欠けているということになるのではないでしょうか。
不思議なのは、いま、これだけSNS等で、アカの他人と交流する、「つながる」ことが身近な時代になったのに、それでもなぜ、パブリックな場での他者不在の行動をとるのだろうか、ということです。
そういえば、風呂をあがったあとの休憩室で、インスタにでもアップするのか、仲良し親子写真を撮っている家族がいました。「イー」と声を出しながら、写真を撮っていました。彼らに、周囲の他者は見えていたでしょうか。
ここまで書いてきて思うのですが、そもそも僕ら日本人って、ヨソモノへの想像力に欠けた生活を、この日本列島で長年続けてきたのではなかったでしょうか。となると、このDNAは、容易には変えられないのかもしれません。
この社会─ぼくらが暮らす現代日本─では、結果を出した人ではなく、努力をした人が賞賛される。でも、ほんとうにカッコいいのは、結果を出すために何をしたらいいか、その最短コースとか、最適なやりかたをしっかりと考え、やるべきことをやって結果を出すってことじゃないか。
それができないから、サッカー日本代表は世界で勝てない弱小チームのままなんじゃないか。
かつて、少子化の議論で、夫婦が子どもを作らなくなった理由に、現状が不安定だったり低収入だからとか、将来が不安だからとかいう理由が挙げられ、だから政府の施策が不十分だとか悪いとかいった批判がされていた。今もそうかもしれない。
でも本当にそうか。
非正規雇用で不安定低収入でも、子どもは作れるし、育つ。子どもを育てるのは手間もお金もかかるかもしれないけど、結果なんとかなる。むしろ、子どもは励みになることがあるというか自分は励みだった。子どもには若いエネルギーがあるから子どもと日常接しているとこちらもエネルギーが出るし、子どものためにと働く気も起きる。
子どもという励ましを必要としなくなった豊かな社会だからこそ、子どもを作らなくなったのではないか。不安だから子どもを作らないんじゃなくて、逆に、満足してるから子どもを作らないくなったんじゃないか。
という逆説的意見を書き残しておく。
さっき届いた本から、備忘録として抜粋。
1906年、日露戦争が終わった翌年、日本では、国木田独歩が、短編小説『号外』で、作中人物のこんな言葉を通して、日露戦争に熱中 していた日本人の一面を描いている。※国木田独歩『号外』は青空文庫で読める。
戦争{いくさ、とルビ}がないと生きている張り合いがない、ああツマらない、困った事だ、なんとか戦争を始めるくふうはないものかしら。
─『田舎暮らしと哲学』木原武一、2017年、p249
経済産業研究所・岩本晃一氏の指摘が興味深い。それによれば、日本人の労働生産性の低さは世界的に有名で、「ものづくり」の分野でもビリに近い。いっぽう、ドイツは日本に比べて労働時間は2/3、時間当たり賃金は1.5倍、製造業の生産性も1.5倍。ドイツ人は残業しないでさっさと帰り、戸外のレストランでおしゃべりに興じているにもかかわらず「独り勝ち」と言われるほどに経済が強力、とのことだ。
岩本氏はその違いの理由を、いまだに科学的に証明できていないというのだが、とりあえず、のべつまくなしに働くことは、成果を生むには逆効果といえるか。
ぼくが住んでいる埼玉県は、まったりした土地柄だ。
東京に隣接した地域はちょっと違ったりもするけど、全体的には、まったりしている。
東京・神奈川・千葉・埼玉のなかでは、いちばんまったりしている、と断言できる。
観光でまったりしたい人は埼玉にこればいい。大変まったりできる。個人的には、行田市と、ときがわ町が気に入っているが、ほかにもまったりできるところはいっぱいあるはずだ。
まったり生きたい人は埼玉に引っ越して来ればいいんだけど、そうすると人口が増えてしまって、神奈川みたいにギスギスしてしまうので、できれば、観光だけにしてもらえるとありがたい。